たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(4) [小説]

 S市に遅い夏がきた。さすがに強い日差しが照る。夜は冷房はいらないが日中はそれなりに暑い。気温があがるのに比例するようにシオンと一緒に過ごす時間が長くなっていた。大学は違うけれど、僕の行きつけの喫茶店でシオンはよく待っていた。そして市営のプールに泳ぎにいった。シオンは泳ぎが得意で見事なクロールでいつまでも泳いでいた。それはとても美しく、見とれてしまうほどだった。普段はヤマネだと思ったが水の中ではイルカに変化するのだなと思った。泳いだ帰りには必ずスーパーマーケットで夕食の買物をして僕の家で二人して料理を作り一緒に食事をした。夏休みの最盛期には毎日のように二人で買い出しに行った。魚屋のおじさんは僕たちを夫婦だと思ったようで、シオンのことを「奥さん」と呼んでいた。シオンはそれも楽しんでいるようだった。花屋ではバラをよく買った。S市は乾燥しているので、バラは枯れずにドライフラワーになって二度楽しむことができた。僕たちがサンマを買ってバラを抱えて腕を組んで歩く姿はたしかに新婚の若い二人に見えただろう。それほどに僕たちは幸せだったのだろう。

 秋になって冷たい雨が続いた。夏の終わりごろに僕は故郷に帰り、両親としばらく過ごした。ときどき電話でシオンと話した。シオンは相変わらず元気だった。いつ帰るのかと何度もきかれた。泳いでいるかと聞いたが、僕がいないので泳いでいないとのことであった。電話で小さな咳をしていた。苦しそうではなかったが、少し気になる咳の仕方だった。

S市に戻ったのは木々が色づいてからで、シオンとは羊が鈴を鳴らして行進する丘で会ったのだった。羊が吐く息が白く見え、早すぎる冬がそこまで迫っている錯覚を覚えた。シオンは元気がなかった。僕のヤマネはもう冬眠を始めたのだろうかとも思った。考えてみれば僕はシオンに愛の告白を一度もしたことがなかった。ちょっと人恋しくなる秋、僕は羊をみながらシオンに初めての告白をした。「愛している」と。「今さら何を言っているの」と言われるのかと思ったけれど、シオンは真剣な目で僕を見つめていた。そして「わたしも」と言った。少し目を伏せて、シオンの体が震えていた。シオンの赤い傘に僕ははいり、傘のなかで僕たちは肩を寄せあった。シオンはとても冷たい手をしていた。冷たい秋がシオンのエネルギーを少しずつではあるが奪い取っているように思った。

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