たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(5) [小説]

 最近は風邪気味で調子が悪い、とシオンが咳こみながら電話してきた。かわいそうだが、簡単に変ってやることもできない。姉さんに頼んで看病をさせてもらうことにした。ふとんにくるまったシオンはなさけない表情をみせていた。病気の時は皆がそうするようにシオンも僕に甘えた。僕はできるかぎりシオンのわがままにまかせた。姉さんは気をきかせて僕たち二人にしてくれた。熱があるのでタオルを濡らして額にのせていた。顔色の悪いシオンの寝顔を見るのはつらくもあったが、僕はずっとシオンをみて過ごした。寝息がリズミカルで僕も少し眠くなった。シオンが目をさますとリンゴをむいて食べさせた。水を飲ませた。熱はまだひいていなかった。このときにはシオンの本当の病名は姉さんだけが知っていたのだった。もちろん今になればということであるが。

 シオンはその後徐々に衰弱していった。そしてS市の北側にある大きな総合病院に入院することになった。シオンはまだ風邪をひどくこじらせたと思っているようだった。さすがに僕もおかしいと思い始め、姉さんにきいた。姉さんは顔を曇らせ困った表情をみせていた。「あなたには話しておかないといけないわね。」と本当の病名を話してくれた。僕はショックを受けた。顔いろが蒼白になったのだろう、姉さんは僕を軽く抱きしめていてくれた。しばらくして涙が流れてきた。これじゃ子供だと思いながらも、抱かれるままにした。涙もふかなかった。「今は思う存分にシオンのために泣いて。でも、シオンの前に行ったら気付かれないように演技をしてほしいの。できる・・・」と念をおされた。シオンと僕との時間は大きな鉄の扉を落とすように閉められてしまった。季節は冬を迎えていた。雪が続き、それが寝雪に変っていた。シオンは最後には小さな木箱にいれられてしまった。悔しかったし悲しかった。故郷の高台にあるシオンの家族の墓には雪解けをまって姉さんと僕とで行った。シオンの骨を納めるために。眼下に海が見えるよい場所に墓石はあった。青空が眩しかった。シオンの笑顔を思い出していた。故郷の海とこの春の青空をシオンにもう一度見せたかった。いや、僕はシオンと二人で見たかった。となりにいる姉さんの長い髪が風に揺すられ僕のほほをたたく。シオンとの出会いを不意に思い出した。そうだ、はじまりは平手打ちだったのだ。あれから1年たっていないのにシオンはいない。僕はあの時よりも大人になったのだろうか。S市に戻る車の中で運転する姉さんとシオンのことを話した。もちろん僕のしらない子供のころのシオンのことをいろいろに聞いた。「でもねえ、シオンはあなたに素晴らしい夏をもらったと話していたわ。」と涙声になった。悲しさに満ちた姉さんのことをある日のように抱きしめてあげたかったが、運転する彼女を抱きしめることはできない。まどの外の夜空には大きな丸い月が昇ってきた。S市につくまでの結構長い時間を僕たちはシオンの思い出を抱きしめながら無言ですごすだろう。そして静かに別れてゆくだろう。それぞれの眠りにつくために。そして生きてゆくために。

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