たいせつな風景・S市点描「二度目もすれ違い」(2) [小説]

僕の耳には石川さゆりの歌声が響いていた。

「北に帰る人の群れはだれも無口で・・・」

そして僕は、海鳴だけを聞きながら船の人になったのだった。

 「本当に久しぶりだねえ、珈琲でもどう?」と「彼」は覚えたばかりの喫茶店に僕を誘った。そこは近くに新聞社のある「ルナ」という店だった。長いカウンターだけの店で、Kさんというママが一人で切り盛りしていた。「彼」はS市の画廊で開催される写真を展示する個展のために来たということだった。良い機会なので、しばらくS市に住んで周辺の写真を撮影するつもりだと僕に告げた。

 「だけど、僕たちはどういうめぐりあわせなんでしょうか。偶然の出会いを二度もするなんて・・・。驚きですね。」

 「本当だね。僕も驚いた。君をみつけて思わずシャッターを切っちゃった。何年生になった?」

Kさんはカウンターの中で僕たちを不思議そうに見ていた。僕もたまに訪れることのある店だったので、東京から来たばかりだけど毎日通い始めた「彼」と僕がどうつながっていたのか想像できないようだった。梅雨のないS市の6月は本当に気持ちの良い季節である。あたりはニセアカシアの花が満開であった。

 ある日、Kさんから電話があって「O市に行こう。」との誘いだった。「彼」も一緒にゆくとの事だった。「お寿司を食べに行くよ。」が目的だった。Kさんの車に乗って海岸沿いの道を走った。海からの風が心地よく、僕たちは饒舌になった。海からそそり立つ岩には海鵜の黒い姿が見えていた。波の音が響いている。S市には海はないのだが、こうして車で走れば海は遠くなかった。岩の間を道は縫うように抜けてゆく。初夏の光線を受けて海はきらきらと輝いていた。「彼」はカメラを取り出してシャッターを切り始めた。そのリズミカルな音が心地よかった。O市には大正時代につくられた運河が町の中心にあって淀んだ水をたたえていた。これが悪臭の原因でもあるとのことから埋め立ててしまえという意見が出ていた。しかし運河は歴史的な遺構でもあり、周囲には時代のあるレンガ倉庫や建造物が並んでいた。古くはあるが愛おしい街並みであった。レンガの倉庫群は本来の役割を終えて運河のまわりに静かにたたずんでいた。そこに工芸作家や美術家が移り住んで、アトリエとして使い始めたころだった。そんな一角に「海猫屋」はあった。レンガ倉庫を改造して喫茶店兼バーにしていたが、その一方で土方巽の暗黒舞踏の流れをくむ北方舞踏派の稽古場にもなっていた。彼らは「海猫屋」を拠店として活動していた。近くの寿司屋で握りを食べたあとで僕たちは珈琲を飲みに訪れたのだった。吹硝子のランプがともっていた。

 「この町の空気みたいなものを撮りたくなりました。独特の空気、臭いがありますね。光線もまるでヨーロッパのように斜めの角度ですし・・・」

「彼」はS市の何の変哲もない街並みや普通の人々をフィルムにとらえ続けたが、「彼」のフィルムにはO市の北方舞踏派や鈴蘭党といった舞踏集団の姿も写しこまれていった。一体「彼」は何本のフィルムにS市や周囲の土地、人々を収めたのだろう。「彼」は夏の間をS市の北東部の平坦な土地にあるアパートの一室で過ごし、冬の初めまではいたのだが、東京で仕事が入って帰らねばならなくなった。最後に一緒に夕飯を食べてわかれた。根雪にはなっていなかったが、雪を見てから東京に向かったのはよかったようだ。「彼」が撮影した写真には80年代はじめのS市の情景が確実に記録されていて、僕の記憶の中の当時のS市を常に喚起する。それきり「彼」と二度と会う事はなかった。


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