嶋本昭三さん、お別れですね。 [メールアート]

元・具体のメンバーにして日本のメールアートの先駆者であった嶋本昭三さんが1月25日に亡くなった。昨年から体調を崩しておられたとは聞いていたが、回復基調に入られたとも聞いていたので驚き、悲しく、そしてさびしい。思えば私は嶋本さんの著書『芸術とは、人を驚かせることである』を読んで、メールアート・ネットワークに加わるきっかけを得たのだった。嶋本さんなくしてメールアート・ネットワークに参加することはなかったかもしれない。

『芸術とは、人を驚かせることである』は1994年の刊行。新刊発行直後に読んでいるので同年に私は嶋本さんに手紙を書いている。メールアートに興味をもったこと、どうすればネットワークに参加できるのかなど。すぐに嶋本さんからメールアートが届いた。ダンボールを「あ」の形に切り抜いたもので、「メールアートネットワークに参加してください」と直筆のコメントがあった。これだけではどうしていいかわからなったので、こちらもメールアートをつくって送ると、今度は封筒が届いた。海外のメールアーティストからの封筒を使いまわしたもので、そのアーティストの住所がそのまま残っていた。ああ、これを使って送ってみなさい、という意味だなと思い、実行した。また冊子「AU」が中には入っており、あるイベントに参加及びメッセージをくれたメールアーティストの名前と住所の記載があった。この人たちにもメールアートを送った。当時の私は小さなノートにコラージュ作品を作りためていた時期で、これをコピーしてデザインしなおしたりして送った。驚いたことに当方が思うよりも早く返事が届いた。私が海外から最初に受け取ったメールアートはスウェーデンの彫刻家からのものだった。その後ぞくぞくと届き始め、私のメールボックスは次第にギャラリーへと変わっていった。

嶋本さんには当時、東京都美術館で毎年開催されていたAU展にも誘っていただき95年と96年の2年連続して参加した。その時に初めてお会いしたのだが、バイタリティに富んだ方だった。具体の吉原さんのDNAを受け継いでいた一人なので、常に新しいこと、人がやっていないことをめざし、取り組んでおられた。また後進にもそれを望み、その考えを伝え続けた。具体の元メンバーは本当にすごい。こうしたことに徹底している。私が大学生だったときにお会いした元永定正さんも同じだった。北海道立近代美術館の学芸員に「新しい作品とは何か?」と聞き、答えがないと「ここにいる訳のわからない作品を次々に生み出す若手たちの作品を新しいというのだ」と言い切られ、感動したのを鮮明に記憶している。

その後、関西や欧米での展覧会が主になったこともあって、嶋本さんとお会いする機会はなくなった。ただ、メールアートのやりとりは続いた。今回、突然の訃報を受けて世界中のメールアーティストが嶋本さんを讃え、彼の死を悼んでいる。私も同じ気持ちだ。

嶋本さん、お別れです。でもあなたのスピリッツは多くの関係した方々の中に脈々と受け継がれてゆくことでしょう。見守っていてくださいね。
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若き柳瀬正夢と落合という場(4) [柳瀬正夢]

 関東大震災とそれに伴う戒厳令の発令はさまざまな動きにつながった。震災を契機にして制定されたのは「治安維持法」であった。一方で普通選挙も約束しながらの制定であった。普通選挙といっても当時は女性に参政権はなかった。ひどい話である。普通選挙法に基づく選挙が行われたのは1928(昭和3)年2月20日。露骨な選挙妨害を行ったにもかかわらず過半数をとることができなかった与党は危機感を覚え、労農党への弾圧を行うことになった。小林多喜二が大きな怒りをもって描いた小説「1928.3.15」に代表されるような暴力的な弾圧と一斉検挙が行われた。さすがにノンポリの村山も大正末期から意識が変化していった。柳瀬のオルグもあったと思うが、一番大きかったと思うのは妻となった岡内籌子の存在だったと考える。「ボルシェビキでなければ嫌」といわれたはずである。政府に思想的に立ち向かわないなんて「いくじなし」、くらいは言いそうである。1924(大正13)年に村山知義と籌子は結婚した。自由学園の明日館での挙式である。
一方の柳瀬は検挙も含め関東大震災によって運命を大きく変えられる。長谷川如是閑の助言もあって、いったん柳瀬は海路で門司へ避難したのだ。よって立った雑誌『種蒔く人』は結局廃刊となる。MAVOはバラック建築という形でかえって活躍の場を広げたが、柳瀬は検挙と疎開によってその活動からは結果として距離を置くことになった。この期間に柳瀬は下宿の娘・青木梅子と結婚する。そして杉並の馬橋に新居を定める。一方、村山夫妻は上落合の三角のアトリエの家に住むことになった。翌1925(大正14)年には村山はプロレタリア芸術家聯盟の一員となる。アヴァンギャルド芸術の旗手はMAVO的な運動を離れてプロレタリア芸術運動に傾斜してゆく。当時のボルシェビキズムも時代の先端、つまり前衛であった。

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若き柳瀬正夢と落合という場(3) [柳瀬正夢]

戸山ケ原は次第にさびしくなってゆく。人家が少なくなっていくからだ。柳瀬はこのときの様子を「狂犬に噛まれる」(『戦旗』1928年11月号)という文章にまとめている。以下少し抜粋して紹介する。

落合の通りから小滝橋を渡って高田馬場への道を。大山さんの家の前の通りをだらだら下り切って突き当った通りへ来て、空地の中に「休め」の姿勢をとった。
(略)
伝令がきた、私達は又前のような隊伍で進んだ。坂を上って、大山さんの家の前をよぎると戸山ヶ原にでた。
(略)
僕達の一隊は原っぱをうねり乍ら、伝令を待っては進んだ。林を抜け、丘を下り、線路を渡って射的場附近から人家の方へ右に廻った。此処で今迄の兵士が四人抜けた。生垣を幾曲りかすると「戒厳司令部中隊本部」だった。
(略)
取調べ調書をとられ本部送りになる所を特高が引き取っていった。近くの淀橋署戸塚分署の留置場に放り込んだ。

この回想で柳瀬は「死を覚悟した」と書いている。おそらく軍隊は殺気立ってきていたのだろう。だが、ここで運命が変わる。特別高等警察が柳瀬を引き取ったのだった。特高に連れられて柳瀬が向かったのは、現在の高田馬場駅のやや東南方向、諏訪町郵便局のあたりにあった淀橋警察署戸塚分署であった。柳瀬は命拾いをしたと書いている。

皮肉なことに、ブタ函に入って僕は始めてホッとしたのだ。ファッショオの犬死から免れたことに。

戸塚分署の牢屋には柳瀬のほかに落合の住人である平林たい子夫妻も連行されてきていた。大山郁夫であるが千葉から帰ったところを憲兵隊に連行される。ただし、震災から時間が経過しており、この時には新聞社も同行する余裕があった。さすがに大山は大物であり、新聞記者に同行されるとなると手荒な真似もできずに下落合の憲兵隊本部に連行したようであった。大山も千葉にいたのが幸いであったといえるだろう。この一連の事件を当時の村山は無関係に暮らしていた。村山をはじめとするMAVOのメンバーは今和次郎を中心としたバラック装飾社とともにバラック建築を設計、施工してゆく。マヴォ理髪店、バー・オララ、バー・キリンなどをキャンバスにして新興芸術家たちは町に飛び出していった。建築物を仮設するという形で。

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若き柳瀬正夢と落合という場(2) [柳瀬正夢]

ちなみに高群の日記にでてくる小山は作家・小山勝清のことで、大正13年の小島きよの日記にも「小山さんのところ」として登場している。その後、落合地域は昭和初期になって文学者とくにプロレタリア文学者がかたまって住む地域になるが、大正11年あたりで見渡すと、まだそれほど多くの文学者がいたわけではなかった。むしろ画家が目立っていた。佐伯祐三、中村彜、鶴田吾郎、曾宮一念などが住んでいた。若き柳瀬にとってこれらの画家たちの存在はどう映ったのだろうか。この引っ越しの前年となる1921(大正10)年に柳瀬は雑誌『種蒔く人』の同人となり、未来派美術協会の会員となる。読売新聞の社員ではあるが、反戦主義から出発し、ついにはボルシェビキズムに傾斜してゆく左翼的な思想と、絵画であってもアヴァンギャルドな精神を体現する新たな芸術活動を同時に受容したのであった。その直後の極めて大切な時期に落合に転入してきたといえるだろう。ここに結婚したばかりの仙台出身の画家・尾形亀之助が越して来た。そして決定的な事としてドイツに留学していた村山知義が未来派美術協会の若手二人の間に不時着したのであった。これは大きな事件であった。1923(大正12)年1月に村山は帰国するが、村山は「意識的構成主義」という新たな芸術概念を持参して帰ってきた。未来派美術協会の活動に満足できなかった若手、柳瀬と尾形はある意味、村山を落合に住んで待っていたということになろう。もちろんそれは比喩的な意味にすぎないが。5月、村山の自宅である小滝橋のほど近い「三角のアトリエの家」において開催された「村山知義 意識的構成主義的小品展覧会」には柳瀬も尾形もかけつける。柳瀬が下宿した場所からは歩いて5分とはかからない近さだった。そして大浦周蔵や門脇晋郎も加わってMAVOが結成された。この時代の村山は思想的にはノンポリティカルであったように思う。意識的構成主義もアヴァンギャルドな要素を受容してきたものであった。柳瀬は村山へのオルグを始めた。雑誌『我等』で親交が深かった長谷川如是閑と大山郁夫。そして『種蒔く人』で知りあった佐々木孝丸や山田清三郎。リベラルな彼らの考え方に若き柳瀬は共鳴したのであろう。特にこの年の夏、柳瀬は大山郁夫に接近していた。大山の家は柳瀬の下宿から戸山ヶ原にむかって歩けば5分くらいの距離だ。震災の前、大山夫妻と柳瀬は千葉の海に避暑に赴いていた。柳瀬は震災発生2日前に大山夫妻よりも先に東京に戻っていた。大山のことが心配になった柳瀬は留守宅に番をしにゆく。ここに9月6日、憲兵隊が来たのだった。しかし検挙しようにも大山は千葉から帰宅してはいなかった。関東大震災の混乱に乗じて朝鮮の人々が暴動を起こしているとか、主義者が暴徒となって何かの破壊活動をしているとの噂が流れ、不当な監禁や暴力が行われた。権力は外国人や主義者たちをこの機に乗じて殺してしまおうとしたのだった。暴動の鎮静を名目に戒厳令が敷かれ軍隊が派遣され、どうやら下落合にも憲兵隊本部がおかれたようだ。この憲兵隊の一隊が大山の自宅には来ていた。しかし、大山は不在だ。この時は大山がターゲットだったので柳瀬は無事に済んだ。しかし、柳瀬本人にとっても危険はあった。それはその夜に早くも現実化する。夜11時すぎ、下宿に憲兵隊がおしかけ、柳瀬自身が連行されることになったのだ。柳瀬の下宿からは少し離れてはいるが、堺利彦門下で、いくつかの労働争議にもかかわっていた小山勝清も危険だったようだが、こちらも当日は偶然に出かけていて無事だった。そして自宅に帰ってからはあえて町内の見回りなどに積極的に関わり、見張る側に身をおくことで危険を軽減したのだという。小山は中井の三の坂上あたりに住んでいた。連行された柳瀬はすでに徒歩で連行されている者たちとともに歩かされたが、一隊は小滝橋からは戸山ケ原の方へと向かった。この道はなんと大山郁夫の家の前を通る。大山夫妻はまだ帰宅していなかった。
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若き柳瀬正夢と落合という場(1) [柳瀬正夢]

 1900年1月12日、松山・大街道で生まれた柳瀬正夢が門司と東京をいったりきたりしながらも画家としての生活を、東京を基盤にして行ってゆこうと意識したのはいつのことだったのだろうか。一握りの画家以外はタブローを売ってくらしてゆける環境ではなかったのも事実である。この時代、地方出身の才能ある若者が東京と地方とを行き来しながら自らの道を求める動きがみられる。文学の世界でいえば1896年生まれの宮沢賢治や尾崎翠はそうした存在であった。尾崎翠は結局、故郷の鳥取を離れて東京の上落合に定住を始めることになった。1920(大正9)年、柳瀬は東京に定住を始め、読売新聞に入社した。1920年といえば普門暁が未来派美術協会を設立した年であり、翌21年に柳瀬は未来派美術協会に加わっている。ところが普門暁は1922年に除名され、木下秀一郎が後を継いだ。木下秀一郎の姪タケは尾形亀之助の妻。この縁からか、尾形も未来派美術協会の会員となる。1923(大正12)年に尾形は上落合に居を構えるが偶然にも村山知義の叔母の借家であった。柳瀬が落合地域に入ってくるのは1922(大正11)年のことで、多くの文献が「東中野」と表記している。たしかに東中野には違いないのであるが、実際の場所は小滝橋のすぐ近くの車屋の2階であった。現在の早稲田通りのすぐ南側になる。村山知義の三角のアトリエの家までは5分とかからない距離であった。ここに居を柳瀬が定めたのは、長谷川如是閑や大山郁夫といった雑誌『我等』の中心人物たちの近くに越して来たいということであったのかもしれない

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  雑誌『我等』大正10年2月号

柳瀬正夢挿絵 我等大正10年2月.jpeg
  柳瀬正夢挿絵(『我等』大正10年2月号)

 ただ、この時期には東京は郊外への都市部拡大の動きが活発になっており、その背景にはマスプロダクト化、工業化の波があった。農業を離れた労働者が都市部に流入、大正年間を通じて大きな人口流入の動きとなった。当然のごとく流入者への住居の提供は都市の必要条件であり、都市郊外の開発は急ピッチで進められた。また、西武新宿線のような鉄道の整備も進められた。落合地域も例外ではなかった。目白文化村に代表されるように郊外開発が進められた。画家・金山平三は現在の西武新宿線の中井駅の北側にアトリエ村を作り、芸術家たちが集う街の開発を企図した。これを金山はスペインの芸術村アヴィラの名前にちなんで「アビラ村」と呼んだが、「芸術村」とも呼ばれたようで、大正13年に下落合に住んだ高群逸枝の『火の国の女の日記』には以下の記述がある。

  二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。

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