若き柳瀬正夢と落合という場(4) [柳瀬正夢]

 関東大震災とそれに伴う戒厳令の発令はさまざまな動きにつながった。震災を契機にして制定されたのは「治安維持法」であった。一方で普通選挙も約束しながらの制定であった。普通選挙といっても当時は女性に参政権はなかった。ひどい話である。普通選挙法に基づく選挙が行われたのは1928(昭和3)年2月20日。露骨な選挙妨害を行ったにもかかわらず過半数をとることができなかった与党は危機感を覚え、労農党への弾圧を行うことになった。小林多喜二が大きな怒りをもって描いた小説「1928.3.15」に代表されるような暴力的な弾圧と一斉検挙が行われた。さすがにノンポリの村山も大正末期から意識が変化していった。柳瀬のオルグもあったと思うが、一番大きかったと思うのは妻となった岡内籌子の存在だったと考える。「ボルシェビキでなければ嫌」といわれたはずである。政府に思想的に立ち向かわないなんて「いくじなし」、くらいは言いそうである。1924(大正13)年に村山知義と籌子は結婚した。自由学園の明日館での挙式である。
一方の柳瀬は検挙も含め関東大震災によって運命を大きく変えられる。長谷川如是閑の助言もあって、いったん柳瀬は海路で門司へ避難したのだ。よって立った雑誌『種蒔く人』は結局廃刊となる。MAVOはバラック建築という形でかえって活躍の場を広げたが、柳瀬は検挙と疎開によってその活動からは結果として距離を置くことになった。この期間に柳瀬は下宿の娘・青木梅子と結婚する。そして杉並の馬橋に新居を定める。一方、村山夫妻は上落合の三角のアトリエの家に住むことになった。翌1925(大正14)年には村山はプロレタリア芸術家聯盟の一員となる。アヴァンギャルド芸術の旗手はMAVO的な運動を離れてプロレタリア芸術運動に傾斜してゆく。当時のボルシェビキズムも時代の先端、つまり前衛であった。

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