霧や影のちらつきに似て(1) [尾崎翠]

 2013年東京での新年はおだやかにあけた。新年を迎えて初めて見た展覧会は東京都写真美術館での「映像をめぐる冒険vol.5 記録は可能か。」であった。展示されていた記録映像の中でも特に「抗議と対話―アヴァンギャルドとドキュメンタリー―」のコーナーは確かな見応えがあった。例えば中谷芙二子の「水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記」(1971-72年)であり、小川信介の「三里塚 第三次強制測量阻止闘争」(1970年)であり、城之内元晴の「日大大衆団交」(1968年)であった。この会場入口にはリュミエール兄弟の1895年制作作品の「リュミエール工場の出口ほか」8分26秒の映像がディジタル変換されモニターに上映されていた。まだモンタージュも使っていない素朴な編集ではあるが、まるでジョナス・メカスの映画を見ているように違和感なく面白かった。この映画は上映当時の人々にはどのように見えたのだろうか。そのことに深い興味を感じた。

 フランスのリュミエール兄弟によってシネマトグラフが開発され上映されたのは1895年12月28日のことであった。映画の起源といえば、この時のシネマトグラフの上映をもって定義されているが、多人数を対象とした上映会形式でなく動く写真という意味での動画の実現ということであれば、エジソンのキネトスコープは前年の1894年に開発されている。ただし、キネトスコープは一人の観客が覗くものであった。現在の映画館での上映というスタイルを前提にし、映画の起源をリュミエール兄弟のシネマトグラフということにしたのだろう。シネマトグラフの初上映はパリ、キャプシーヌ大通りのグランカフェでのことであった。こうした新たなテクノロジーの伝播は早く、さっそく明治の日本にも入ってくる。1896年11月、大阪の鉄砲商である高橋信治がエジソン発明のキネトスコープ2台とフィルム10本を輸入、11月25日から12月1日にかけて神戸の神港倶楽部で上映会を催した。初めてキネトスコープをみた人々の驚きは想像にあまりある。キネトスコープが日本で初めて上映されたのが神戸であったことを知り、作家、稲垣足穂のことを想った。しかし、この直後にリュミエール兄弟のシネマトグラフが日本に入ってくる。京都の紡績商である稲畑勝太郎は留学していたリヨンのラ・マルティニエール工業学校においてオーギュスト・リュミエールと同窓であった関係で、リュミエール社の日本における代理店となった。稲畑は1897年1月に映写機2台とフィルム50本以上を日本に持ち帰っている。そして2月15日から一週間、大阪の南地演舞場において最初の興業を行なった。その場所は現在、大阪なんばのTOHOシネマズに変り、今も映画を上映しているのは何かの因縁かもしれない。当時の交通状況を考える時、江戸幕府の終焉から30年しか経っていない日本にも発明とほぼ同時期に映画文化が越境してきた事実に改めて驚きを感じる。しかもリュミエール社は自社の映画を上映するばかりではなく、日本という国を撮影するために、二人の優秀なカメラマンを日本に派遣したのだからますます驚きである。

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