平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(5) [柳瀬正夢]

 当時の資料にばかりあたっていた私は平林たい子の戦後の自伝的な小説である「沙漠の花」を読み落としていた。そして最近になって「沙漠の花」を読んだのだった。当然のごとく柳瀬正夢は登場するが、本名のままの登場である。一方、平林たい子が直接に男女関係として関わる相手はやはり配慮からか名前を変えて書かれている。そうではない柳瀬や村山、萩原恭次郎などは本名で登場する。以下はその記述。
 
ある日、旧知の漫画家柳瀬正夢氏を訪ねた。わずか十七歳の奥さんを持っている四十歳近い柳瀬氏の家庭は、こぢんまりして、ユーモラスで、門灯のほやにとかげがはっている絵が墨で書きこんであった。

柳瀬のことを40歳近いと書いているが、思い違いである。平林が柳瀬を訪ねた真相、それはどうやら、やっとの思いで書いた十五枚くらいの小説を雑誌『文藝戦線』の編集、中西伊之助に送っており、その口添えを頼みにいったということであったようだ。最初の夫ときっぱり別れているのなら紹介したい相手がいると柳瀬にいわれ紹介されたのが高見沢路直であった。平林の深川のバラックに柳瀬からの速達が届き、その夕方に柳瀬の自宅を訪問したのだった。

たずねた柳瀬氏の家には二人来客があった。一人は、少しゆきの短い背広を着てはにかんでいる二十七八の青年だった。しばらく話をきいているうちに、築地小劇場の丸山定夫だということがわかった。もう一人は、髪の毛を襟頸まで長くしてルパシカを着ていた。江戸っ子らしい言葉使いで、しきりにおもしろそうに絵の話をしていた。

二人の話を聞いている平林に奥から柳瀬夫人が手招きし、「その人よ、どう? 変っているでしょう。でも、あなたとは合いそうじゃありませんか。」と告げた。平林も同意し、柳瀬が二人を正式に引き合わせた。そして柳瀬家をでて高円寺駅から列車にのり高見沢の自宅のある目黒に向った。高見沢は平林に意識的構成主義やサウンド・オーケストラの哲学について話をし、平林は何がなんだかわからない暗号だと聞いていたそうだ。

 「それはおもしろい暮らしぶりですわね。」  「どう、僕と結婚する気ある?」  「ええ、ありますわ。」  私はいたって気軽に、しかし積極的に答えていた。この人にすがるというよりも、この人のまわりに立ちこめている反逆的な理論と価値の倒錯の中で生きるほか、私のようなものには甦る道はないのだ。

さっそく翌日に二人して柳瀬の家にゆく。結婚の報告にいったのであった。柳瀬は早すぎる結論に驚く。「そんなに早く結論を出しちゃだめだよ。僕はしばらく交際するのかと思っていたのだよ。」と忠告する。高見沢は「善は急げですからね。」と柳瀬の憤懣を聞き流した。柳瀬はかなり反対だったようであったが、高見沢は勝手にことを進めてしまったようだ。平林は深川から目黒に引っ越す。そして毎日のように高見沢に連れ出され、友人たちに紹介されていった。その中には雑誌「ゲ・ギムガム・プルル・ギムゲム」に属する詩人もいた。やがて高見沢の生活になじめない平林は不平をもらすようなった。それは高見沢にしても同様であり、次第に二人の間に溝ができ、それは拡大した。高見沢は自分をコムニズムに通じているといい、アナキズムをきらいだという。平林は柳瀬のところにいって相談をした。柳瀬は思慮のある年長者としての責任をいたく感じ、今一度高見沢と話そうという。しかし高見沢は応じない。柳瀬は男が結婚の解消を申し出るときには男はそれ相当の償いをしなければならないものだ、と平林に話す。そうか慰謝料がとれるのかと平林は納得、さっそく柳瀬の忠告を実行することにした。もちろん金がとれる望みがないことは承知の上でのこと。当時の自分の気持ちを「それを面白がった」と平林は書く。

私は心もかるくさえずるように、柳瀬氏に約束した。一生に一度は手切金をとる女になってみるのもよかろうぐらいの気持だった。柳瀬氏は、笑いごとではないという顔つきで、その申出にたいするこまかい心づかいを注意した。が、半分は聞いていなかった。
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