新宿・落合散歩(11) [落合]

第八章:女性作家たちの落合

 女性作家が自覚をもって本格的に台頭してきたのは大正末期から昭和初期にかけての時期であったと考える。もちろん雑誌『青鞜』の存在は大きく、女性解放運動の先鞭をつける先進的な動きであった。平塚雷鳥や与謝野晶子、神近市子、そして伊藤野枝。このうち、落合に実際に住んだことがあるのは神近市子である。一方、昭和に入ってから創刊された『女人藝術』は自覚をもって文学と向き合おうとしはじめた女性作家たちの活動の場として重要な位置を占めた。そもそも『女人藝術』は作家にして戯曲家である長谷川時雨がその夫・三上於菟吉から平凡社の円本企画「現代大衆文学全集」の印税をプレゼントされて始めた雑誌であった。この円本企画、推進したのは社長の下中彌三郎と社員の橋本憲三であるが、下中も一時目白文化村近くに住んでいたし、橋本は妻の高群逸枝とともに1926(大正15)年に下落合に住んでいた。落合住人でもある平凡社の二人が推進した全集に取り上げられ、その印税が入った三上は妻の時雨に指輪でも買ってやろうと思ったらしい。だが、時雨は指輪はいらないから、雑誌の資金として提供してほしいと希望した。これが雑誌『女人藝術』の創刊につながるのだから面白い。1928(昭和3)年、おりしも日本は金融恐慌のさなかにあり、この年の5月、メインバンクである加島銀行倒産の影響をうけてプラトン社は倒産している。プラトン社の発行していた雑誌『女性』は終刊していた。そのような難しい時期に『女人藝術』は創刊されたのだ。時雨は後進に発表の場を開き婦人の解放を進めるため、女性が書いて編集し、デザインして出版する商業雑誌として『女人藝術』を企画した。創刊号は1928(昭和3)年7月に発行された。創刊時の発行人は長谷川時雨、編集人は素川絹子、印刷人は生田花世がつとめた。発行所である女人藝術社は牛込区左内町の時雨の自宅においた。『女人藝術』自体が落合で編集されたり、発行されたりすることはなかったが、参加した女性作家たちの多くが落合に住んでいた。思いつくままに列記してみよう。吉屋信子、村山籌子、林芙美子、尾崎翠、神近市子、高群逸枝、宮本百合子、真杉静江、窪川稲子、平林たい子、矢田津世子、大田洋子など。これらの作家のところへ頻繁に別の女性作家が訪問していたというから、落合はこの時期、女性作家たちのコロニーのような土地であったといえるかもしれない。宇野千代、戸田豊子、中本たか子などは落合地域に頻繁に出入りしていたようだ。これら作家のほかにも文藝評論家、板垣直子がいる。板垣直子は美術評論家、板垣鷹穂の妻。1933(昭和8)年に東京啓松堂から刊行された『文藝ノート』には多くの女性作家を取り上げ独自の視点で論じている。誉めるというよりも辛辣に批判している筆致こそ板垣直子らしく魅力的である。この東京啓松堂であるが、女性作家たちの著作をシリーズとして刊行しており、平林たい子の『花子の結婚其の他』、林芙美子『わたしの落書』、尾崎翠『第七官界彷徨』、城夏子『白い貝殻』など錚々たるメンバー、作品がそろっているが、これはあきらかに板垣直子のセレクトである。このシリーズは雑誌『火の鳥』に執筆した女性作家たちの作品集という形で出版されている。雑誌『火の鳥』を創刊した竹島きみ子(渡辺とめ子)は佐佐木信綱の『心の花』に所属する歌人であった。そして未亡人となった竹島に雑誌創刊を勧め資金の援助をしたのは、やはり『心の花』の歌人である片山廣子であった。『火の鳥』は1928(昭和3)年10月の創刊である。まさに同年7月に『女人藝術』が創刊されたが、その直後の創刊であった。菊判60ページの体裁、創刊号には窪川いね子、やはり『心の花』所属の五島美代子、林政江、小金井素子らが寄稿している。当時の『心の花』の代表女流歌人は下落合との関係がある。九條武子である。女性作家たちが落合地域に住むようになる時期は画家たちと同様、震災後の時期からであるが、震災直後に九條武子は下落合に越してきた。落合ではなく上屋敷(南池袋)であるが、下落合の九條武子の邸宅からそれほど遠くはない場所に親友の柳原白蓮が住んだので、これを追いかけてきたような印象すらある。1927(昭和2)年夏、九條武子は歌集『無憂華』を出版、その出版記念会が開催される。この記念会の発起人に渡辺とめ子は名前を連らねている。そして、片山廣子も出席している。片山廣子であるが、1878年2月10日、東京麻布生まれ。東洋英和を卒業、すぐに『心の花』に所属している。1916(大正5)年には竹柏会出版部から第一歌集『翡翠』(かわせみ)を刊行している。『翡翠』は歌集として秀逸である。
 NHKの朝の連続ドラマで「花子とアン」が放映され、柳原白蓮(宮崎白蓮)にばかり脚光があたったが、松村みね子の翻訳ネームでアイルランド文学を翻訳した片山廣子の存在は大きく、村岡花子にとても大きな影響を与えた。村岡が大森に居を構えたのは片山の家があったからだという。片山廣子の子息は村山知義と小学校の同級生。なにかと人脈はつながっている。ちなみに林芙美子の有名な色紙「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」の詩文はその全文が不明であったが、村岡花子にあてた林芙美子の手紙のなかに12行の詩文が書かれていたのが最近になって発見された。歌人ということであれば中原綾子がやはり下落合に住んだ。中原は与謝野晶子の門人である。
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