新宿・落合散歩(12) [落合]

 吉屋信子と尾崎翠はともに投稿雑誌の常連の二人。さきに吉屋信子が下落合の高台の上に居を構えた(下落合2108番地)。1926(大正15)年のことである。尾崎が上落合850番地に越してくるのは1927(昭和2)年のはじめのころ。親友の松下文子とともに住んだ。尾崎が上落合での生活の前半時期に書いた文章の多くは『女人藝術』に掲載されているが、松下文子もまた『女人藝術』に執筆している。尾崎が上落合に居を構える契機をつくったのは同郷の涌島義博と田中古代子夫妻の存在。ふたりは少なくとも1926(大正15)年に上落合546番地に住んでいる。これは『鳥取無産県人会報』に記載された会員名簿によって確かめることができる。尾崎と涌島夫妻は鳥取において同人誌『水脈』での同人仲間。涌島は同じく同郷の先輩である橋浦泰雄とともに足助素一の叢文閣で本作りを学び、独立して南宋書院をおこす。この南宋書院から林芙美子の第一詩集『蒼馬を見たり』は出版された(1930年)のだが、松下文子の資金提供によって実現された。妻の古代子は1921(大正10)年に大阪朝日新聞の懸賞小説に「諦観」を応募、二等入選を果たしている。1924(大正13)年に上京、大阪朝日新聞に「煙草」を連載するなどした作家。1932(昭和7)年に鳥取に帰るので、尾崎とほぼ同じタイミングで東京に来、鳥取に帰ったことになる。これも運命だろうか。この上落合の妙正寺川のほとりにあった尾崎と松下同居の850番地の家によく遊びに来ていたのが杉並妙法寺そばに手塚緑敏と住んでいた林芙美子であり、林は『女人藝術』第2号に詩「黍畑」を書いている。そして第3号には「秋が来たんだ」を執筆、第4号からはそれが連載されることとなり、「放浪記」にまとまっていった。尾崎が松下と暮らした最初の借家を出て近くの大工の家(842番地)の2階に越したあと、林芙美子が1930(昭和5)年初夏に850番地に越してくる。この借家に住んだのちに改造社の新鋭文学叢書の一冊として『放浪記』は刊行された。このシリーズはモダニスム文学とプロレタリア文学の先鋭作家を網羅、表紙を画家の古賀春江が描いている。すばらしくモダンな造本である。ちなみに改造社のこの叢書の編集者は作家・大田洋子の元夫であって、労働争議にかかわり解雇されたのちは、下落合の早くからの住人でもある画家の金山平三のアトリエでダンスを教えていたらしい。このアトリエは東北大震災前までは中井二の坂上に健在であったが、今は取り壊されてしまった。吉屋信子の家は五の坂上にあった。今でもそこに立つと新宿の高層ビル群がすべて見渡せる素晴らしいロケーションだ。当時も新宿淀橋あたりが一望できたのだろう。その吉屋信子の下落合の家には上落合に住む村山籌子が軍に拠出するために育てた犬を売りにいっていたようで、長男の亜土のエッセイにはそのときの様子が記述されている。吉屋が犬を連れて散歩する姿は目白文化村界隈で頻繁に目撃されているので、犬好きであったようだ。この吉屋の家の少し北側に1925(大正14)年には高群逸枝が夫の橋本憲三とともに越してくる。東中野からの転居であったが、この借家を探したのは同郷の作家、小山勝清であった。この時期、小山のところには歌人で映画脚本家の美濃部長行や挿絵画家である竹中英太郎が居候していたか隣人としてこの地域に住んでいた。高群の家は小山の自宅のすぐそばであって引っ越した当初の隣家には複数の詩人たちが共同で暮らしており、そのなかに春山行夫もいたと高群が書いている。名古屋のサン・サシオンのメンバーであった春山は、メンバーの中心的な存在である松下春雄や鬼頭鍋三郎などを頼って震災後に上京してきていた。春山は次の家でも同郷メンバーによる共同生活を行い、下落合での新たな借間には松下春雄も同居した。高群は『火の国の女の日記』(一九六六年 理論社)に下落合在住当時の生活の様子を描いている。この時期は下落合の家に安定した時期にあたる。高群の日記を引用しよう。
          
二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。
この家ではもはや訪問客はかたく排除された。球磨の四浦出身の小山たまえ夫人だけがときどき長女の美いちゃんを連れて故郷の話をしにやってくるぐらいだった。
彼を、夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者さんの洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。下落合の日日は幸福だった。 (『火の国の女の日記』四二 「下落合界隈」より抜粋)

「古屋さんという学者さんの洋館」はつい最近まで中井・五の坂の途中にあった。だが、取り壊されて今はない。古屋さんとは医学者の古屋芳雄。『レンブラント』の翻訳者であり、白樺派の作家でもある。古屋の肖像は岸田劉生が描いており、「草持てる男の像」と題されて東京国立近代美術館に収蔵されている。「芸術村」という俗称であるが、金山平三が「アビラ村」と呼び、芸術家村として開発しようと構想した名残なのだろう。高群は詩集『日月の上に』(1921年 叢文閣)を生田長江に評価されて世に出ていた。アナーキスト新進詩人として出発した高群であったが、下落合にあった時期、詩人は女性問題研究家へと次第にその貌を変えていった。『戀愛創生』はそうした時期に書かれた高群の著作である。萬世閣より1926(大正15)年に刊行されている。1926(大正15)年11月、橋本憲三と高群逸枝夫妻は下落合の高台をくだり、上沼袋に転居した。東京熊本県人村の住人であった小山勝清も竹中英太郎も1928(昭和3)年頃までには下落合から転居してしまう。1927(昭和2)年に越してきて以来、上落合の妙正寺川近くに居を構えたのは尾崎翠であった。その尾崎を慕って上落合に転居してきた林芙美子が売れるようになってからも、もっと交通の便利な場所への転居を編集はじめとする周囲から勧められながらも結局は落合を離れなかったのは、彼女のエッセイ「落合町山川記」にあるように妙正寺川を見て、故郷の山河を思い出すことができたからではないかと思う。居心地がよかったのだろう。このことは尾崎翠も同様であったのではなかったかと私は感じている。尾崎の故郷、岩井温泉を貫く蒲生川を思い出させる妙正寺川のそばを離れたくなかったのではないだろうか。上落合850番地で同居した松下文子が結婚によって転居した際にも、尾崎はすぐそばの貸間に転居するのである。この家の南には庭があり、その先は小川が流れていた。そして小川の先の空地には桐や桃が林をなしていたのであった。高群の日記のように下落合の高台には植木畑がひろがっていた。一帯は木々の緑と多くの川や水路が美しい景色をなしていた。そうした故郷にも似た風景の中、尾崎翠や林芙美子は素晴らしい小説を書き上げた。林はその後、五の坂途中にあった下落合の洋館に越した。尾崎は上落合に残り、「映画漫想」を書いてゆく。映画にまつわる感想を綴ったエッセイは時に詩文のような輝きを見せる。尾崎は新宿武蔵野館にゆき洋画を見、上落合の映画館「公楽キネマ」にいって邦画を見ていた。大家である大工の奥さんが阪東妻三郎の大ファンであったので、二人してバンツマの映画を見にいっていたようである。林芙美子の日記にも公楽キネマに尾崎翠と映画を見にゆき、帰りに板垣直子のところによって夜遅くまで三人で話し込んだとの記述があった。尾崎の小説「第七官界彷徨」全文が板垣鷹穂が編集主幹をつとめる雑誌『新興藝術研究』第二輯に掲載された直後のことであった。公楽キネマで映画を見るという点では、村山籌子が獄中の夫・知義へ出した手紙の中に「山内さん(山内光=岡田桑三のこと)と一緒に公楽キネマに映画(傾向映画である「斬人斬馬剣」)を見に行った」との記述がある。尾崎翠の主要な作品「第七官界彷徨」も「歩行」も「こほろぎ嬢」も「地下室アントンの一夜」も上落合で書かれた。従い、実際に歩いてみると周囲の様子を特定できない形ではあるが、描写していることがよくわかる。児童文学作家・樺山千代は尾崎と親しくつきあい、詩人生田春月は上落合に住む尾崎・樺山のところにときに遊びにきていたようだ。樺山の家は尾崎の下宿から南に坂を登ったところにあり、板垣直子の家に近かった。二人は樺山の家のそばにあった帝国湯に一緒に行ったりもするなど大の仲良しであった。
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