雑誌『フォトタイムス』とモダーンフォト(2) [落合]

オリエンタル寫眞工業には映画の撮影所もあり、「オリエンタルパーク」と呼んでいた。8月30日、岡田嘉子一座がロケーションを行った。カメラは堀野正雄が担当した。全長400尺のものをネガの現像からポジへの焼付までをオリエンタルのシネマ技術部が一晩でやってのけたという。また河合プロもオリエンタルパークでロケを行っている。11月号において木村專一は寫眞造型作品、つまり「ホトプラスチック」を紹介している。ホトプラスチックは広告写真に応用され、広告対象を造型的に撮影することで対象を強く印象づけることが可能になるとしている。12月号ではポスターに使われる写真を取り上げている。ここでも写真はマスに訴えかけるためのメディアとして紹介されている。1930(昭和5)年2月号では純粋に「廣告寫眞」を取り上げ、雑誌広告での写真の使用例を具体的に紹介している。また同じ号で、山内光が「ドイツで開かれたフイルムとフオトの國際展覧會に就て」を書いている。山内は「松竹蒲田撮影所、國際光畫協會員」の肩書をもって紹介されている。本名は岡田桑三、山内光は映画俳優としての芸名である。ドイツに留学、帰国後は築地小劇場や日活で役者として活躍、1928年に松竹蒲田撮影所に移籍していた。1929年は山内にとって激動の年で、3月には右翼によって刺殺された労働農民党の代議士の山本宣治の葬儀の様子を記録映画として撮影したが、この実行も大きな困難を伴った。その後、蒲田撮影所長に資金を提供させてヨーロッパへの映画技術に関する視察旅行に出かけている。モスクワとベルリンを中心に訪れた。この視察旅行を通じて山内はエイゼンシュテインやメイエルホリドと親しくなった。この旅行の際に山内は5月に南ドイツのシュツットガルトで開催された世界最初の國際映畫寫眞の綜合展覧會を観覧する機会に恵まれた。『フォトタイムス』1930(昭和5)年2月号に書かれた報告は、まさにこの展覧会の紹介であった。第一部の寫眞展覧會の撮影委員にはヤン・チヒョルトが名前を連ねており、驚いた。協働者にはモホリ・ナギ教授、アメリカのエドワード・シュタイヘン、ロシアのエル・リシツキイ教授などが名前を連ねている。出品者180名、出品数1,168点に及んでいた。マン・レイやエル・リシツキイ、エインゼンシュテイン、シュタイヘンなどの作品が展示された。この写真部門の展示のみを日本に招聘、1931(昭和6)年に「独逸國際移動寫眞展」を國際光畫協會として開催。山内はその中心的なプロデューサーとして活躍した。この展覧会は多くの写真家たちに影響を与えることになる。この展覧会を通じて山内光は木村伊兵衛と親しくなった。この出会いが雑誌『光畫』への岡田桑三の参加につながり、1933(昭和8)年の日本工房への参加につながった。岡田はのちに東方社の理事になる。東方社では木村伊兵衛とともに雑誌『FRONT』を発行することになる。この写真展で木村伊兵衛をはじめとする多くの写真家と出会ったことが、岡田の人生にとって大きな変化の起点にもなったが、日本写真界における新興写真の受容に果たした役割も大きかった。1930(昭和5)年5月号に村山知義が「寫眞帖と寫眞家團體」というエッセイを書いている。ここでは写真家団体について書いた部分を紹介したい。

随分澤山の寫眞家の團體があるが、多くは同好者相ひ會し、時に展覧會を催すと云ふ程度のものでしかない。その展覧會も自分の作品を並べる便宜上、他人も引きずり出すといふ個人主義的な展覧會で、何かのテーマのために展覧會全體をさゝげ、各個人がその為に技術を提供するといふやうなものはない。同時にその團體も、或ひは自分の名前を賣るためのものでしかない。

この定義にもっともあてはまるのは「ブルジョア寫眞家團體」だと規定している。そしてブルジョア写真家である以上は個人主義的であるのは当り前であり、「技術上の研究的な團體すら作らせない程度に迄達している」と論じる。一方、左翼の芸術家の結成は文学、演劇、映画、美術等に亘って作られているが、当然、写真家のそれも作らねばならないのにできていないのは不都合である、としている。僅かに映画同盟や美術家同盟や演劇同盟に付随して少数の技術家のあるにすぎない、これを速やかに一つの独立した同盟に成長させるべき、だと結論する。文学関係は日本プロレタリア作家同盟、略称「ナルプ」。映画関係は日本プロレタリア映画同盟、略称「プロキノ」。演劇関係は日本プロレタリア劇場同盟、略称「プロット」である。この村山の提言通り、のちに日本プロレタリア写真同盟、略称「プロフォト」が結成される。このプロフォトの初代委員長はプロレタリア文学作家である貴司山治であった。代表作は「ゴー・ストップ」である。プロフォトの本部は下落合2080番地 久保田方。中井駅から三の坂を登った高台あたりにあった。村山はこうした写真団体の実例としてソヴィエト・ロシアのスコエ・フォトやルス・フォトをあげる。ドイツでは「労働者寫眞家」という組織があって『AIZ』の労働者絵入新聞に写真をさかんに提供するなどしていた、と報告する。『AIZ』は「アー・イー・ツェット」と発音する、労働者画報雑誌。写真大判タブロイド紙の形式で週刊で発行された。その誌面はジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュが多数使用されている。これも写真における前衛のあり方であったのだろう。現に写真によるグラフ雑誌の源流をたどるとドイツの婦人解放運動の機関誌や『THE USSR IN CONSTRUCTION』に達する。『THE USSR IN CONSTRUCTION』にもジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュが使用されている。ジョン・ハートフィールドといえば弟・ヴィーラント・ヘルツフェルデ、ジョージ・グロッスらと共に1916(大正5)年にベルリンで「マリク書店」を創設している。アプトン・シンクレアの1925(大正14)年の一連の著書はジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュによる装丁がされているが、素晴らしい表紙になっている。村山はベルリン留学中にマリク書店を知っただろうし、ジョージ・グロッスとともにジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュについても知っていただろう。また、前述のグラフ雑誌も送ってもらい見ていたものと考える。
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雑誌『フォトタイムス』とモダーンフォト(1) [落合]

 オリエンタル寫眞工業が落合・葛ヶ谷において出版していた雑誌『フォトタイムス』はいちはやく新興写真の動きを紹介、誌面に「モダーンフォトセクション」というコーナーを設けた。『フォトタイムス』はプロの写真館の写真技師を読者の主な対象としているところがあり、肖像写真の撮影技術等も紹介しているが、その一方で世界的に始まっていた新興写真の動きをほぼ同時代的にフォローしようとしており、日本におけるモダーンフォト、新興写真運動を先取りして紹介した雑誌としても特筆すべきである。その萌芽は1929(昭和4)年3月にある。『フォトタイムス』にはモダーンフォトセクションが新設され、村山知義や堀野正雄などを協會員とした國際光畫協會が上落合に創立される。このとき、『フォトタイムス』編集主筆である木村專一は30歳であった。1929(昭和4)年4月号では堀野正雄が「國際光畫協會 第一囘展覧會に際して」と題して國際光畫協會展を紹介している。展覧会は2月15日~23日まで新宿紀伊国屋書店階上で開催された。この展覧会はいわゆる「写真展」とはまったく異なっていた。それは展示内容に関する堀野正雄による以下の記述をみると明らかである。

印刷に利用すべき商業寫眞の實例、ソヴェツト・ロシアの宣傳ポスターを我々は諸君に齎らした。全世界映畫界の鬼才エイゼン・シュタインの『十月』のポスター。寫眞を實用化した良き例證である。一時間に十一吋×十四吋大のものが弐千枚以上以上弐千五百枚の生産能力を有する高速度輪轉焼付寫眞の實例。G・T・SUN商會の出品である。我々の日常生活に最も密接なる關係あるニュース・フォトとして東京朝日・日日新聞社の出品。カメラ無しで複寫し得るオリエンタル製品のコマーシャル・ペーパーの操作工程の具體化を此の機會に我々は展覧することを得た。

写真の単独作品を展示する形式の展覧会でないことがよくわかる。あきらかに新しいメディアとしての「写真」を紹介しようとしている。さらに加えて、映画技術についても展覧内容に加えており、映写幕、活動写真撮影用の電球などについても言及している。写真のメディア性を前提とした展覧会を開催している点で世界同時代的にも新しい。また、それを堀野正雄に書かせた『フォトタイムス』編集部もまた新しい。そもそも國際光畫協会の顧問に木村專一とオリエンタル寫眞工業の常務取締役技師長である菊地東陽の二人は就任していたのだった。第二囘展は4月5日~11日まで東京朝日新聞社展覧會場で開催された。5月号では主筆の木村專一が「フオトグラムの製作と其の感想」をモダーンフォトセクションに書いている。モーリーナギー(木村の記載の通り)を先例として参考にし、木村自身が実際にフォトグラムを製作している。6月号では木村はさらにフォトグラムを研究、文字を加えて立派に廣告デザインの役目を果たすであろう、グラビア印刷によってポスターにするならば、在來の形式を打破したポスターを得ることができる、としている。木村もまた写真を単独の芸術作品として必ずしも見ず、メディアにつながる構成要素として見ている点が興味深く、また写真のもつマルチプル性を積極的に評価している点も興味深い。9月号のモダーンフォトセクションにおいて木村はモーリーナギーの写真作品とフォトモンタージュの作品をあらたな表現手法として評価している。商業写真におけるフォトモンタージュの可能性について言及していることも注目すべきであろう。10月号では堀野正雄が「映畫・印刷・寫眞」というエッセーを書いている。そこではスチール写真だけではなく、エイゼンシュテインが取り上げられ、「ポチョムキン」の1カットが紹介される。そして、繰り返し「映畫・印刷・寫眞です。」が強調されるのだ。ここでも大衆に流布させるメディアとしての特性をもつ写真が取り上げられている。『フォトタイムス』が志向したモダーンフォトの姿は、単独の写真という表現作品としてではなく、メディア化する写真の可能性の拡大にあったように思う。この号のモダーンフォトセクションの最後に「記者附記」があるので、引用しておく。

モダーンフォトセクションも、既に八回重ねて参りました。大体に於てこの欄が如何なるものであるかは、御了解下さつた事と存じます。併し、未だ難意に解釈してゐる方がある様に思ひますが、要するに、何物にも拘束されない處の眞に自由な寫眞の紹介・批評・又は各作家の主張・作畫法等の為に、出來るだけ多方面の寫眞家に、使用して頂きたいのであります。何卒御寄稿を願います。
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新宿・落合散歩(15) 気になるオリエンタル写真工業 [落合]

 1929(昭和4)年3月4日、オリエンタル写真学校の開校式が行われた。オリエンタル写真学校も落合工場と同様に西落合・葛ケ谷に設置された。写真技術の普及を目的とはしているが、アマチュア写真家育成を主眼とはしておらず、写真館の主、後継者など写真にプロとしてかかわる経験者のさらなる育成のための学校であった。卒業までの期間は3か月と極めて短期であったようだ。『フォトタイムス』1929(昭和4)年4月号には第一回入学生が52名であったことと全員の名前が記載されている。あわせて「オリエンタル寫眞學校規則」が掲載されている。

第一條 本校ハ寫眞ニ関スル高等ノ學術技能ヲ授ケ併テ徳性ノ涵養ニ勞ムルヲ以テ目
    的トス
第二條 本校ハ一般寫眞術ノ素養アル者ニ對シ更ニ高級ナル技術並ニ學識ヲ授クルモ
    ノトス
第三條 本校生徒ノ定員ヲ定ムルコト左ノ如シ   五十名

これをみると、カメラを知らないアマチュアを教育する学校ではなく、すでに写真撮影についてわかっているが、よりプロフェッショナルな知識、技術を学ぶための学校として設立されたのがわかる。実際に『フォトタイムス』に掲載された学生募集の広告をみると「入学資格は現に営業に従事しつつある寫眞館主及オリエンタル寫眞學校の認定せる寫眞技術者、寫眞館主の證明を有する寫眞技術者、寫眞學校卒業者にして尋常小學の義務教育を卒へたる者。」と具体的な記述がある。学費は入学金が3円、授業料は3か月で60円。寄宿舎もあったようだ。第1回の入学生がすでに定員を超えているところをみると人気があったのだろう。オリエンタル寫眞學校の第2回生は9月16日に入学式が行われた。この中にはのちに田村茂になる、田村寅重が含まれていた。オリエンタル写真学校は順調に卒業生を世に送りだしていった。植田正治、瑛九、林忠彦、映画監督の木下惠介などがその卒業生である。また、1929(昭和4)年4月27日には菊地東陽が社長に就任している。
 『フォトタイムス』はモダーンフォトセクションというコーナーを雑誌内に設けたことが特徴的であり、新興写真普及のための一翼を担った。1929(昭和4)年3月号には勝田康雄が「モダーンフォトセクション新設に就き」という文章を寄せている。「この欄が増設された原因は主として木村主幹の生活態度がこの二三年来目立つて變化して來た事で之は氏と交際して居られる方なら誰でも容易に認められる事と思ふ。」「要するに氏のかうした生活的心境の變化は遂に寫眞畫壇に於ても舊來のアカデミックな畫風を讃美されると共に所謂ボケた寫眞、それからフオトグラムの類をも認めらえるに至つたのである。」とし、直接的な原因として国際光畫協會が生まれて活発な運動を起こそうとしていること、日本光畫協會に籍をおいている伊達義雄氏を編集部に迎えたことをあげていて、興味深い。しかし、モダーンフォトを定義できているとはいいがたい文章になっていて、まだこの段階では藝術寫眞が主流であって、それ以外のなかから出てきた新たな動きを「モダーンフォト」としてくくっているようだ。ここで名前をあげられた「國際光畫協會」であるが、事務所は府下上落合百八十六番地、つまり村山知義の三角のアトリエである。協會員は、浅野孟府、堀野正雄、勝田康雄、河野元彦、村山知義、中戸川秀一、萩島安二、佐々木太郎、佐々支門。顧問には菊地東陽、木村専一も名を連ねている。堀野正雄のスタジオも上落合にあったので、オリエンタル写真工業、オリエンタル写真学校、モダーンフォトセクションを設けた『フォトタイムス』の編集部もあわせてモダーンフォトに関係する組織が落合地域に集中していたのだった。國際光畫協會は1929(昭和4)年2月15日より23日まで新宿紀伊国屋書店において第一回展覧会を開催、特に印刷に利用すべき商業写真の実例やソヴィエトロシアの宣伝ポスターへの写真の利用など写真単独の作品展示ではないところはMAVOの姿勢を踏襲しているようだ。展示の様子は堀野正雄がレポートしている。第二回展は4月5日から11日まで有楽町の東京朝日新聞社展覧会場で開催されている。矢継早な展覧会開催である。1929(昭和4)年5月号の「モダーンフォトセクション」は「フオトグラムの製作と其の感想」と題した記事を木村専一がよせている。印画紙としてオリエンタルブロマイドのホワイトスムースを使い、木村専一自身が実験的にフォトグラムの制作を行ったことをレポートしている。木村専一は1900年生まれ。森芳太郎に写真を学び、1923(大正12)年にオリエンタル写真工業に入社。1924(大正13)年の『フォトタイムス』の創刊にあたり編集主幹になっている。この木村の影響からか杉田秀夫が「フオトグラムの自由な制作のために」を書いたのは1930(昭和5)年8月号においてである。冒頭「かつて日本に於ける第一番のフォトグラムの技術報告が本誌主幹木村専一氏の手によってなされた」で始まるのちの瑛九の文章である。瑛九は自らのフォトグラムを「フォトデッサン」と命名し、フォトデッサン集を発行した。今でも日本のフォトグラムといえば瑛九の名前があげられるであろう。しかし、その源流は木村専一にあった。モダーンフォトセクションの内容であるが連載が開始された1929年のタイトルと執筆者は以下である。
   1929年3月号 伊達義雄 私の人物畫に付て
            勝田康雄 一九二九年独逸寫眞年鑑
        4月号 伊達義雄 表紙寫眞フオトグラムに就て
            伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究
            堀野正雄 国際光畫協會第一囘展覧會に際して
        5月号 木村専一 フオトグラムの製作と其の感想
            勝田康雄 ソヴイエツト・ロシアの光畫界
        6月号 伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究(二)
            木村専一 フオトグラムの研究
        7月号 田村 榮 表紙寫眞の制作に就て
            有馬光城 一九二九年度 日本光畫協會展雑感
        8月号 伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究(三)
            有馬光城 一九二九年度 日本光畫協會展雑感(二)
        9月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(一)
            伊達義雄 静物畫に就て―光村利弘氏の作品―
       10月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(二)
       11月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(三)
            堀野正雄 肖像寫眞に就て
       12月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(四)
            堀野正雄 再び肖像寫眞について
モダーンフオトセクションは1935(昭和10)年まで続いた。その執筆者たちは以下のごとくである。
 片岡伍朗、山内光、板垣鷹穂、中原三雄、古川成俊、相内武千雄、瀧口修造、五城康雄、清水光、藤代繁、渡邊義雄、モホリー・ナギ、光村利弘、ブラツサイ、ポオル・モラン、田村榮、永田一脩、原弘、稲葉熊野、アーノルト・フアンク、白鳥謙治、新井保男
この中でもっとも登場が多いのは木村専一で18回、堀野正雄が14回、板垣鷹穂と伊達義雄が7回づつ登場している。
モダーンフォトセクション以外にもプロフェッショナルフォトセクション、ステージフォトセクションがあった。とくにステージフォトが単独のセクションで構成されているのは特徴的ではないかと思う。ここでも堀野正雄の影響を感じる。堀野は築地小劇場の舞台写真を初期において数多く撮影していた。1930(昭和5)年、木村専一を中心にして新興寫眞研究會が結成された。そして機関誌『新興寫眞研究』を11月に創刊する。第1号の論文執筆者は、板垣鷹穂、木村專一、堀野正雄、佐藤黒人、平野譲、田村榮。掲載された写真作品の撮影者は、堀野正雄、伊達良雄、玉置辰夫、小川三郎、西山清、吉岡敬三、榊原松籟、鉄 末次郎、徳堂翠鳳、窪川得三郎、宮越吉松、寺川良輝である。第2号は1931(昭和6)年1月に刊行されており、論文の執筆者は、木村專一、平野進一、堀野正雄、平野譲、伊達良雄。掲載された写真の撮影者は、堀野正雄、黒沢中央、玉置辰夫、木村專一、光村利弘、渡邊義雄、石山泰久、飯田幸次郎、平野進一、寺川良輝、阪玉陽、西山清、田村榮である。第3号は1931(昭和6)年7月の刊行で、論文の執筆者は、木村專一、堀野正雄、平野譲、佐藤黒人。掲載された写真の撮影者は堀野正雄、木村專一、田村榮、窪川得三郎、西山清、吉岡敬三、渡邊義雄、平野進一、伊達良雄、古川成俊、光村利弘、寺川良輝である。機関誌は主幹の木村專一の渡欧により、この3号で終刊しているが、展覧会は通算7回、1932(昭和7)年まで開催されている。『フォトタイムス』1931(昭和6)年9月号の写真口絵には飯田幸次郎の「店頭商品(底鐵)」が掲載されており、「新興寫眞研究會第四回出品作品」であるとのキャプションが付記されている。この「第4囘研究発表寫眞展覧会」は1931(昭和6)年7月25日から30日まで上野松坂屋中二階において開催されている。ちなみに第5回は8月10日から25日まで宝塚新温泉大劇場において開催されており、1931(昭和6)年12月号において伊達義雄の「フォトモンターヂュ」と飯田幸次郎の「ビラ」が写真口絵に掲載されている。木村がヨーロッパに訪問した影響であろうか、モダーンフォトセクションにモホリイ・ナジイが登場している。新興寫眞研究會の事務所は東京市外高田町大原1-570番地の木村專一の自宅におかれ例会もそこで開催されたようだ。この時期は編集部員の田村榮が昭和通り三丁目に伊達義雄が上高田118に住むことになったので、落合ではないがオリエンタル写真工業本社のそばに全員が住んでいたことになる。研究会の同人は、西山清、窪川得三郎、寺川良輝、堀野正雄、榊原松籟、鉄 末次郎、吉岡敏三、海部誠也、小林祐史、三国庄次郎、黒田六花。幹事には玉置辰夫、渡邊義雄、田村榮、伊達良雄、平野譲、塩谷成策。
主な会員としては飯田幸次郎、宮越吉松、小川三郎、佐藤黒人、平野進一、徳堂翠鳳、花和銀吾、阪玉陽、石山泰久、黒沢中央、古川成俊、光村利弘、福田勝治、高尾義朗など総勢50名程度であった。展覧会は主に堀野正雄が段取りしていたようだ。木村專一がそのような報告レポートを書いている。1931(昭和6)年9月20日木星社書院から堀野正雄の写真集『カメラ・眼×鐵・構成』が刊行される。板垣鷹穂が監輯した一冊である。「新興藝術の最高峰、尖端的大名著!」というキャッチコピーがつけられた広告が『フォトタイムス』にも掲載されている。「新興」「モダーン」といった流れを形成した、その大きな役割をオリエンタル写真工業ならびに雑誌『フォトタイムス』は果たした。
 2015年7月4日から8月30日に新潟県立美術館、9月19日から11月15日まで世田谷美術館で「生誕100年 写真家・濱谷浩」展が開催された。濱谷は1933(昭和8)年10月にオリエンタル写真工業に就職、銀座の東京出張所に勤務した。写真技師として勤務していた渡邊義雄の手伝いをすることもあったようだ。1934(昭和9)年にはオリエンタル写真学校の講習を受講している。オリエンタル写真工業での勤務は1937(昭和12)年まで続いた。オリエンタル写真工業とオリエンタル写真学校は多くのプロ写真家を育成した。そして新興写真の流れを作ることに『フォトタイムス』は大いに貢献したのだった。これらすべては落合地域でおきた。そしてその源流は幕末の徳川慶喜からの江戸の尻尾であったのかもしれない。
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新宿・落合散歩(14) 気になるオリエンタル写真工業 [落合]

 「新宿・落合散歩」第五章で記述したように西落合・葛ケ谷にはオリエンタル写真工業があった。オリエンタル写真工業は、雑誌『フォトタイムス』を発行した主体であったこと、写真技術の普及のためにオリエンタル写真学校を設立したこと等、写真史の中で写真用材の製造、販売会社のみではない活動を行った会社として特筆すべきだと思っていた。ところが、会社自体のことを調べると会社の設立経緯も興味深いことがわかり、この文章を書いている次第である。

 オリエンタル写真工業の社史をインターネットで検索すると渋沢社史データベースにヒットした。渋沢社史データベースは明治以降日本で出版された全社史約15,000冊の中から、渋沢栄一に関連する会社の社史を中心に約1,500冊分のデータを収録しているもの。ここに『オリエンタル写真工業株式会社三十年史』(1950年5月刊行)も含まれている。つまり、オリエンタル写真工業は渋沢栄一に関連する会社であるということになる。写真という観点で見るならば十五代将軍である徳川慶喜は大の写真好き。また、若き渋沢栄一は江戸遊学の際のつながりから一橋慶喜の家臣となった。そして慶喜が将軍になってからは幕臣となり、幕末期は慶喜の弟・徳川明武の随員としてパリ万博を視察、あわせて欧州諸国を訪問したのだった。ところがこの間、日本では慶喜が大政奉還を行ってしまう。新政府から帰国を命じられた明武と渋沢はマルセイユから帰国した。帰国した渋沢は慶喜が謹慎していた静岡に赴いた。渋沢は慶喜から「お前の道をゆきなさい」の言葉をもらい、静岡で会社をおこした。その後、大隈重信に説得されて改めて大蔵省に入省したのだった。つまり、渋沢栄一は写真好きの徳川慶喜と浅からぬ縁があった(深い縁があったというべきか)ということである。
 では、なぜオリエンタル写真工業の社史が渋沢社史データベースにあるのかである。そもそもオリエンタル写真工業の設立にかかわる中心人物であるのは菊池東陽と勝精である。 
1918(大正7)年6月に勝精は渡米する。そして1919(大正8)年3月、菊地東陽と勝精とが日本に写真工業会社を設立するために帰国の途につく。二人は4月18日に横浜に到着した。菊地東陽にとっては18年ぶりの日本であった。6月19日、華族會舘において「勝伯菊地東陽氏感光乳剤実験会」が開催されている。7月頃、いよいよ写真工業会社の設立に関する協議が進行した。8月19日、赤坂区氷川の勝伯爵邸において会社設立に関する最終決定会議が行われ議決された。会社設立の出資者として菊地、勝が相談していたのは渋沢栄一であった。ところで、伯爵・勝精であるが1899(明治21)年に徳川慶喜の十男として誕生した。勝海舟は実子・小鹿が早世したため徳川慶喜、家達に申し入れ、精を養子とした。1899(明治32)年2月8日、海舟の死去に伴い精は伯爵を授爵した。勝と渋沢、そして慶喜との関係を考えるとオリエンタル写真工業の設立協議はとても興味深い。慶喜が将軍を辞してから暮らした静岡では今でも写真サークルの活動が盛んであると聞いた。何かの関連か影響があるのだろうか。勝精は趣味人であり、写真やビリヤード、猟銃、投網などを大いに楽しんだ。趣味であった写真が嵩じた結果が写真工業を学ぶための渡米であり、日本に帰ってのオリエンタル写真工業の設立であったのだろう。8月24日「オリエンタル写真工業」の社名が決定された。9月22日に勝精伯爵邸において創立総会が開催されオリエンタル写真工業は創立された。11月17日帝国ホテルにおいて首脳者の顔合わせがあり、渋沢栄一、高峰譲吉が出席した。研究部長に勝精、製造部長には菊地東陽が選任された。1920(大正9)年の初頭、菊地東陽はふたたびニーヨークにわたり写真工業会社を運営するにあたり必要な機械や技師の雇い入れに関する契約を締結するなど行っている。この時は英国にもわたり機械の調達を行うとともに英国の写真事情の視察も行っている。8月19日、工場敷地として落合葛ケ谷前耕地一区二千五百五十二坪購入のことを決定した。9月27日に起工、1921(大正10)年6月25日に本社工場は落成している。9月25日には丸の内の日本工業倶楽部においてオリエンタル写真工業株式会社製品発表会を開催している。この年の12月に人像用印画紙オリエントを発売、29日に京橋区鎗屋町一番地に東京営業所を創設、本格的な営業を開始した。順調に製品を発売していったやさきに1923(大正12)年9月1日を迎える。関東大震災によって東京営業所は壊滅。即座に東京営業所を落合工場内に移転した。そして、11月19日には本社を落合工場に移転した。震災の被害は下町では深刻であったが、落合地域は比較的被害が軽く、震災後には多くの転入者を迎えることになった。オリエンタル工業の落合工場も震災後すぐに製造を再開することができた。そして同年中に本社所在地を東京府豊多摩郡落合町大字葛ヶ谷六六〇に移転登記したのだった。一方、オリエンタル写真工業の機関誌である『フォトタイムス』は1924(大正13)年3月に創刊された。『フォトタイムス』はオリエンタル写真工業の宣伝企画課内に設置されたフォトタイムス社が発行した写真雑誌である。この時期の写真の多くはアマチュア写真家が撮影したものであったが、『フォトタイムス』は写真館の経営者を含めたプロの写真家向けの雑誌という側面が強かった。そのため初期の口絵写真はポートレート写真が中心になっている。そもそも創業者の一人である菊地東陽はニューヨークでキクチ・スタジオという写真館を経営しポートレートを主体としていた。キクチ・スタジオといえば面白いエピソードがある。キクチ・スタジオは5番街西42丁目の市立図書館の近くにあったが、1919(大正8)年、菊地東陽がオリエンタル写真工業を設立するために帰国したあとに働いた日本人がいた。のちに雑誌『光畫』で活躍する写真家・中山岩太である。中山は1895年福岡県柳川市出身、1915(大正4)年に東京美術学校臨時写真科に入学、1918(大正7)年に卒業した。そして農商務省の派遣でカリフォルニア大学に学んだ。その後ニューヨークに移住、キクチ・スタジオで働いたのであった。1921(大正10)年9月には西45丁目にラカン(Laquan)スタジオを開設、独立した。これにより安定した生活が可能な収入が得られるようになったが、1926(大正15)年夫婦してフランスに渡る。フランスではマン・レイやエンリコ・プランポリーニと知り合うことになる。1927(昭和2)年4月にパリで未来派第二世代、プランポリーニの「未来派パントマイム」を中山は撮影している。プランポリーニは機械芸術をテーマに掲げたフォトモンタージュを主な手法にしたアーティストであった。当時、パリではシュルレアリスムが未来派を駆逐しており、多くの観衆はシュルレアリスムのイベントの方に参加。未来派パントマイムは人気がなかったという。だが、同じ日に開催されていたにもかかわらず中山岩太は未来派パントマイムの方に出かけていたのである。中山が撮影していたために、その様子が想像できるのだから面白い。この年、中山は帰国。ハナヤ勘兵衛らとともに芦屋カメラクラブを結成する。そして1932(昭和7)年に雑誌『光畫』の創刊に参加する。写真におけるモダニスムを代表する中山岩太の出発点において菊地東陽が間接的にせよ関わっていたのが興味深い。
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