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竹中英太郎と『新青年』との1928年(7) [竹中英太郎]

僕と渡邉温君と二人で編輯する、これが最後の「新青年」である。十月號からは延原謙、水谷準の兩氏が我々に代つてこの雑誌を編輯する事になつた。(横溝生)

5月に横溝と英太郎は出会ったから、わずかに3カ月たらずのコラボレーション期間であった。ただ、作家 横溝正史との関係は続いた。激動の昭和3年、職業挿絵画家としての成功と本来の目的である無産者運動への回帰との二つの間で英太郎は揺れていた。そして、新たな絵画表現に取り組んでいくことになる。その兆しを10月号の久山秀子の「隼探偵ゴツコ」の挿絵にみることができる。時代感覚をまとい始めた英太郎作品がそこにはある。

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『新青年』昭和3年10月号久山秀子「隼探偵ゴッコ」

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『新青年』昭和3年7月号甲賀三郎「瑠璃王の瑠璃玉」

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竹中英太郎と『新青年』との1928年(6) [竹中英太郎]

次に英太郎が登場するのは9月号であり、井上散平出題の『3は何?』の三等である。ここでは住所が「熊本市大江町三四九」に変っている。市内に合併されたのだろう。12月号では選外佳作として名前だけ掲載されている。この漫畫懸賞もかなり応募が多く、受賞は大変だったようである。『人と人』の懸賞小説に応募したように英太郎は『新青年』でも「懸賞探偵小説」に応募したのではないだろうかと想像している。しかし、レベルが高く入賞はできなかったのだろう。この懸賞には横溝正史や角田喜久雄、水谷準などが入選者として名を連ねている。横溝の「恐ろしきエイプリルフール」は大正10年4月号の掲載であったから、後に出会う二人は同じ時期に『新青年』に関係していたことになる。これも縁なのだろう。

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『新青年』大正10年9月号

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『新青年』大正11年3月号

こうした『新青年』に応募した漫畫のタッチとプロの挿絵画家になってからの作品ではあるが『左翼藝術』に掲載された漫畫「落盤の眞因」との共通性を感じる。大正11年から12年にかけての時期の英太郎は警察を辞めて無産者運動、水平社運動にはいっていった時期にあたる。そしてこの時期の英太郎は熊本に帰っていた作家の田代倫の家にいりびたっていた。一連の社会風刺的な漫畫は英太郎の無産者運動の表出の仕方であり、『左翼藝術』での昭和3(1928)年5月の表現は再度無産者運動での活動を英太郎が考えていた証拠だとも考えたいが、真相はどうだったのだろうか。昭和3年の金融恐慌が本来の英太郎に戻ることから引き戻してしまったのかもしれない。「陰獣」は夏季増刊から9月号、10月号と3回にわけて掲載された。そして英太郎と「陰獣」とを結びつけた横溝正史が『新青年』から離れる時が来た。「陰獣」の2回目が掲載された9月号の奥付にそれはあった。

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『新青年』大正11年6月号

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『新青年』大正12年1月号

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『新青年』大正12年5月号
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竹中英太郎と『新青年』との1928年(5) [竹中英太郎]

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『新青年』昭和3年9月号竹中英太郎挿絵・江戸川乱歩「陰獣」

ところで、英太郎の挿絵画家としての画業をみると、何らかの過去からの因縁があったり、つながりをもっていることが多い。大正11年の『人と人』の懸賞小説に英太郎は応募していた。その後、大正14(1925)年3月でのデビューから昭和3年1月の終刊まで英太郎は挿絵を提供し続けた。これも何かの縁なのだろう。同様に雑誌『新青年』にも過去の因縁があった。最初の縁は大正10(1921)年5月号にあった。それは「漫畫懸賞『3は何?』」の応募作であった。出題は細木原靑起。出題は3月号に掲載されたので、2月13日発行された、この一冊を満14歳の英太郎はどこで手にしたのだろうか。年譜によれば中学を中退し熊本警察署の特高課給仕になっている。働きながらこうした応募をしていたのだろう。そして漫画懸賞での一等になっている。雑誌には住所が記載されていた。それは「熊本市外大江村大字本三四九 竹中英太郎」となっている。

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『新青年』大正10年5月号
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竹中英太郎と『新青年』との1928年(4) [竹中英太郎]

もう一つ、この時に横溝とのコンビで編集にいた渡辺温のことが気になっている。渡辺温は渡辺裕名義でプラトン社の雑誌『女性』の映画筋書懸賞に応募した「影」の受賞が作家のデビューにつながった。英太郎は熊本時代に映画ファン雑誌に文章を寄せているように映画好きであるが、渡辺温も映画好き。年齢も近い二人は意気投合したのではないかと想像する。英太郎は8月号でも甲賀三郎の「ニウルンベルク名画」の挿絵を描いている。そして7月20日発売の夏季増刊号に江戸川乱歩の「陰獣」が掲載される。大変な反響であった。小説もさることながら、英太郎の挿絵も評判であった。これで、人気挿絵画家の地位を確立できたのだった。長男の労は生後4カ月。熊本から呼んだ母親や親族も同居することができた。生活的にはやっと手にいれた「安定」だっただろう。だが、ここまで必死に働いたため、全日本無産者藝術聯盟に参加した壷井繁治や三好十郎らと共に働くことはできなかったのだろう。

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竹中英太郎挿絵『新青年』昭和3年8月号甲賀三郎「ニウルンベルクの名画」
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竹中英太郎と『新青年』との1928年(3) [竹中英太郎]

ふたたび生活レベルの話に戻る。『クラク』への挿絵が採用された英太郎は引越しの費用を手に入れることができ、牛込區肴町に引越したのだろう。その時期は昭和2年12月頃であったのではないかと私は考えている。八重子の出産が3月30日だと考えるとあまりぎりぎりであったとは考えにくい。そして長男である労が生まれる。『クラク』の専属画家を約束された英太郎は熊本に帰り、母を東京に引き取ろうとした矢先、プラトン社はメインバンクであった加島銀行の倒産によって連鎖的な倒産を余儀なくされた。昭和3年は金融恐慌の激しい嵐が吹き荒れた年だ。『クラク』の最終号は5月号であった。英太郎はこの号にも多数の挿絵を提供していたが、この同じ時期に発行された『左翼藝術』にも参加していたのだ。ふたたび英太郎は生活の側にひきよせられたことだろう。あわてた英太郎は下落合での隣人であった高群逸枝の夫、橋本憲三を頼る。橋本は平凡社の『現代大衆文学全集』での盟友であった白井喬二に紹介を依頼した。白井喬二は紹介状をしたため、雑誌『新青年』編集部にいた横溝正史あてに持参させた。『新青年』は森下雨村が総編集長であったが、実質的な編集長は横溝正史であり、編集には渡辺温がいた。英太郎も横溝もこの場面のことを回想し、二人同様に江戸川乱歩の原稿「陰獣」をその場で渡した(受け取った)としている。だが、『新青年』での英太郎の登場は7月号であり、印刷納本は6月1日なので編集部への訪問は5月の早い時期ではないかと考える。はたしてこの段階で乱歩は「陰獣」を書きあげていたのだろうか。3回にわけて掲載された小説の末尾には「昭和三・六・二五」の記述がある。5月のはじめには前半を書きあげて横溝に手渡していたのだろうか。それならば最初の訪問の際に英太郎に渡したというのも本当なのだろう。ただ、『新青年』昭和3年7月号をみると川崎七郎(横溝正史)名義の「桐屋敷の殺人事件」に4点、甲賀三郎の「瑠璃王の瑠璃玉」に4点の挿絵を描いている。なので、挿絵を描いた順序は横溝の川崎名義の小説が最初だったのではないだろうかと考える。つまり、横溝に認められ、横溝が書いた小説に初めての挿絵を描いた。そして偶然なのか意図的になのか、最後の挿絵も横溝正史の書いた「鬼火」であったということになり、それに何かの縁を感じる。

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『新青年』昭和3年7月号竹中英太郎挿絵「桐屋敷の殺人事件」(川崎七郎)
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竹中英太郎と『新青年』との1928年(2) [竹中英太郎]

 一方、思想的な部分でも決して目標を見失っているわけではなかった。それは昭和3年5月に発行された『左翼藝術』の創刊に参加していることからもわかる。『左翼藝術』には壷井繁治、三好十郎、高見順、上田進などが参加している。この『左翼藝術』は創刊号のみで終刊、メンバーは全日本無産者藝術聯盟(NAPF)に移行、『左翼藝術』は機関誌の『戦旗』へと吸収されることになる。竹中英太郎は『左翼藝術』のみの参加であって『戦旗』にその足跡は見つけられないが、生活のために挿絵を必死で描きながらも、どこかでは本来の志を果たす道を探していたものと考える。熊本にいた若き日の英太郎をオルグとして筑豊炭鉱争議に引き込んだのは浅原健三であった。昭和3年は普通選挙の開始した年。浅原は2月の衆議院議員選挙に立候補し当選した。政府は一方で普通選挙を実現しながら、他方で労農党や共産党への弾圧を強化した。治安維持法の改正も行った。こうした弾圧への対応のために大同団結したのが全日本無産者藝術聯盟であった。この弾圧の地方での実態を描いたのが小林多喜二の「1928.3.15」であった。鳥取出身の橋浦泰雄は全日本無産者藝術聯盟の初代中央委員長に就任した。こうした世相の中、『クラク』というメジャー商業誌の挿絵画家となった竹中英太郎があえて『左翼藝術』に参加したのはなぜだったのか。そして、エッセイを書き、漫画を掲載したが、その漫画のテーマは炭坑労働である。私はここにあるシグナルを感じる。それは、若き日に関係した筑豊炭鉱争議の浅原健三との再接近があったのではないかということである。

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『クラク』昭和3年5月号竹中英太郎挿絵「殺人鬼横行」(田中貢太郎)
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竹中英太郎と『新青年』との1928年(1) [竹中英太郎]

 昭和3(1928)年という年は日本にとっての転換点の一つであったが、挿絵画家である竹中英太郎にとっても大きな転換点となる節目の年であった。その激動ぶりは想像を絶するものがあるが、本稿ではそれをたどってみたい。
 この激動の一年をたどるためには昭和2(1927)年からみてゆく必要がある。昭和2年の英太郎は雑誌『人と人』『家の光』に精力的に挿絵を提供していた時期にあたり21歳であった。この年のどこかで最初の妻である八重子と出会っている。二人の間に生まれた長男である竹中労は昭和3年3月30日に生まれているから、ここから逆算すると5月末には出会っていたのだろうか。この時、英太郎は下落合の東京熊本人村に住んでいたが、すでに橋本憲三・高群逸枝夫妻は上沼袋に転居していた。当時の英太郎には二つのジレンマがあった。それは、妊娠した八重子と結婚し出産に備えねばならないという実生活レベルと、もともと東京には社会主義革命を実践する、そのための勉強に来たとの思想レベルにおけるジレンマであった。一刀研二とともにプラトン社の編集部に編集長である熊本出身の西口紫溟を訪ねたのは前者の意味であったのだろう。山名文夫の見立てによって雑誌『クラク』の探偵小説への挿絵を描くことになったが、それはこの年の11月号からだった。『人と人』の突然の廃刊が昭和3年1月号発行直後のことだったから、ぎりぎりの線だったことだろう。

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『左翼藝術』掲載の竹中英太郎の漫画
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竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(5) [竹中英太郎]

5.竹中英太郎の一貫性

 ところで、私は二・二六事件でなぜ竹中英太郎が関係者として連行、拘置されたのかがわからない。北一輝との関連だろうか、それとも決起軍人とのつながりがあったのだろうか。二・二六事件は1936(昭和11)年におきた。裏には陸軍の統制派と皇道派の争いがあった。また一方では、金融恐慌、世界恐慌、農村不況が連続して日本を襲い、不景気によって完全に疲弊した農村と地方を救うべく無策の政府を倒すことによって、正そうとした純粋な正義意識もあった(もちろん、その行動は正しくない)。そうした下士官層の意識を利用した者があったのかもしれない。戒厳令が発布され、情報統制が敷かれた。一般市民は何が起きているのかわからなかったという。戒厳司令部参謀として制圧の指揮をとったのは参謀本部作戦課長であった石原莞爾であった。統制派に属さぬ石原ですら何度か銃をつきつけられたようだ。首謀者の一人として軍人ではない北一輝が検挙、処刑されたが、北は本当に首謀者の一人だったのだろうか。よくはわからないまま死刑執行されてしまった。前述したように軍部と右翼思想家の関係では大川周明に軍はよっており、北との対立があった。竹中英太郎も事件関係者として取り調べられている。そして、これも不思議なことであるが釈放されると妻子を残して単身満州に発ってしまうのだ。これは何を意味するのだろうか。1937(昭和12)年、日中戦争が始まってしまう。その時、石原は参謀本部作戦部長であった。一方、竹中英太郎は月刊満州社の東京支社長として月刊満州日本版を刊行するかたわら何らかの活動を行っていたという。証拠があるはずもないし、竹中英太郎も浅原健三も何も残していないが、浅原の軍内部からの社会主義化、戦争回避の工作を満州を中心として行っていたのではないか、と私は考えている。そして、浅原にとっての陸軍内部の最大の協力者が石原莞爾だったのではないだろうか。昭和12年9月、日中戦争前線の武藤章参謀と対立した石原は参謀本部から左遷され、関東軍参謀副長となる。関東軍参謀長が東條英樹、その右腕が甘粕正彦でなければ、何らか別の道があったかもしれないと考えてしまうのは私だけだろうか。妥協できない石原は東條と真正面から対立してしまった。翌1938(昭和13)年、石原莞爾は参謀副長を罷免される。関東軍内部で東條英樹の統制派に満州独立をめざす石原・浅原ラインが敗れたのだった。この結果、浅原健三には治安維持法違反嫌疑がかかり、逮捕される。しかし、なぜか起訴はされなかった。板垣征四郎にまで類が及ぶ可能性があって追及しなかったとも言われている。浅原は非公式に国外追放になり、上海に行く。不思議なことだが上海で浅原健三は大金持ちになっている。これはどういうことだろうか。おそらくは浅原と思いを同じくして満州で活動を行っていた竹中英太郎は後盾を失う。浅原ばかりではなく石原莞爾までも。結果として竹中英太郎はほとんど強制送還に近い形で帰国した。そして、石原莞爾は留守第16師団長とされるが、その後、予備役となり大学で教える立場になる。石原は社会主義的な改革を唱えたというから、もし浅原が行った工作が直接に作用したのだとすれば、凄いオルグであったのかもしれない。
 今回の考察は私の全くの妄想かもしれない。だが、もし真実だとすれば竹中英太郎の思想も行動も一貫していたことがわかる。つまり、15歳でマルクス主義を知ってから、またそれを直接的に行動によって実現してゆこうとし続けたのが彼の生き方だったということが。昭和初期、戦争に傾斜してゆき、思想が統制され、転向してしまう文化人がほとんどであった中、表面には現わさなかったけれども転向せずに全うした稀有な一人であったと言えるのかもしれない。そう考えると戦後の労働組合運動に至る一貫した竹中英太郎像が完成するようにも思うのだ。それは単に私の妄想にすぎないのだろうか。

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竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(4) [竹中英太郎]

4.満州と二・二六事件

 石原莞爾の満蒙独立論をたてに浅原健三が満州協和会を動かし、これによる新しい社会、政体を目指したのだと考える。これに竹中英太郎は何らかの協力を果たしたのではないだろうか。その痕跡が『満州美人絵はがき』であると思うのだ。石原は東條英樹を中心とする統制派にも皇道派にも属していなかった。あえて言えば満州派であった。満州国という日本にも属さない独立国家の自立こそが石原の理想だった。しかし、時代はそれを許さない。陸軍は満州国を実質支配する関東軍参謀長に東條英樹を任じた。東條英樹は憲兵隊を支配・影響下においており、関東大震災の際に大杉栄と伊藤野枝を虐殺した甘粕正彦を満州に呼んだ。東條・甘粕ラインは石原の影響を排除してゆく。またそれが陸軍の意向だったのだろう。余談であるが、ナップ初代委員長の橋浦泰雄は震災直後の足助素一の叢文閣で大杉栄とばったり出会ったという。そして意気投合したのだった。大杉と伊藤は落合火葬場で荼毘にふされた。小山勝清も危なかったが難を逃れた。落合火葬場は小山の家から目と鼻の先であった。小山勝清のところにもよく出入りしていた北一輝はどう思ったろうか。おそらくは竹中英太郎も北一輝とは会うことがあったろう。
 ところで、私は二・二六事件でなぜ竹中英太郎が関係者として連行、拘置されたのかがわからない。北一輝との関連だろうか、それとも決起軍人とのつながりがあったのだろうか。二・二六事件は1936(昭和11)年におきた。裏には陸軍の統制派と皇道派の争いがあった。また一方では、金融恐慌、世界恐慌、農村不況が連続して日本を襲い、不景気によって完全に疲弊した農村と地方を救うべく無策の政府を倒すことによって、正そうとした純粋な正義意識もあった(もちろん、その行動は正しくない)。そうした下士官層の意識を利用した者があったのかもしれない。戒厳令が発布され、情報統制が敷かれた。一般市民は何が起きているのかわからなかったという。戒厳司令部参謀として制圧の指揮をとったのは参謀本部作戦課長であった石原莞爾であった。統制派に属さぬ石原ですら何度か銃をつきつけられたようだ。首謀者の一人として軍人ではない北一輝が検挙、処刑されたが、北は本当に首謀者の一人だったのだろうか。よくはわからないまま死刑執行されてしまった。前述したように軍部と右翼思想家の関係では大川周明に軍はよっており、北との対立があった。竹中英太郎も事件関係者として取り調べられている。そして、これも不思議なことであるが釈放されると妻子を残して単身満州に発ってしまうのだ。これは何を意味するのだろうか。1937(昭和12)年、日中戦争が始まってしまう。その時、石原は参謀本部作戦部長であった。一方、竹中英太郎は月刊満州社の東京支社長として月刊満州日本版を刊行するかたわら何らかの活動を行っていたという。証拠があるはずもないし、竹中英太郎も浅原健三も何も残していないが、浅原の軍内部からの社会主義化、戦争回避の工作を満州を中心として行っていたのではないか、と私は考えている。そして、浅原にとっての陸軍内部の最大の協力者が石原莞爾だったのではないだろうか。昭和12年9月、日中戦争前線の武藤章参謀と対立した石原は参謀本部から左遷され、関東軍参謀副長となる。関東軍参謀長が東條英樹、その右腕が甘粕正彦でなければ、何らか別の道があったかもしれないと考えてしまうのは私だけだろうか。妥協できない石原は東條と真正面から対立してしまった。翌1938(昭和13)年、石原莞爾は参謀副長を罷免される。関東軍内部で東條英樹の統制派に満州独立をめざす石原・浅原ラインが敗れたのだった。この結果、浅原健三には治安維持法違反嫌疑がかかり、逮捕される。しかし、なぜか起訴はされなかった。板垣征四郎にまで類が及ぶ可能性があって追及しなかったとも言われている。浅原は非公式に国外追放になり、上海に行く。不思議なことだが上海で浅原健三は大金持ちになっている。これはどういうことだろうか。おそらくは浅原と思いを同じくして満州で活動を行っていた竹中英太郎は後盾を失う。浅原ばかりではなく石原莞爾までも。結果として竹中英太郎はほとんど強制送還に近い形で帰国した。そして、石原莞爾は留守第16師団長とされるが、その後、予備役となり大学で教える立場になる。石原は社会主義的な改革を唱えたというから、もし浅原が行った工作が直接に作用したのだとすれば、凄いオルグであったのかもしれない。

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竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(3) [竹中英太郎]

3.竹中と満州とのかかわり

②労働運動とのかかわりと満州

 私は竹中英太郎の満州とのかかわりは1936(昭和11)年の満州渡航からだと思っていた。しかし、渋谷松濤美術館で開催された「大正イマジュリィの世界」展に展示された竹中英太郎の絵ハガキによって、もしかしたらもっと以前から満州とのかかわりがあったのではないかと思うようになった。展示されていたのは1933(昭和8)年に月刊満州社から発行された『満州美人絵はがき』4枚であった。この時すでに竹中は月刊満州社と関係があったわけである。昭和8年といえば浅原健三が仙台にいた石原莞爾と会った年でもある。8月のことだった。浅原健三と竹中英太郎との関係を考えると、それは九州・筑豊にさかのぼることになる。1924(大正13年)年、前年の震災をのがれて熊本に来ていた田代倫の所で水平運動に関係した竹中は、5月の熊本での第一回メーデー組織にかかわる。そして、小山寛二の勧誘により浅原健三が企図していた筑豊炭鉱からの革命をめざしての潜入オルグに参加したのであった。浅原の首には賞金がかかり、ヤクザが雇われ、まさに白刃の下をくぐりぬけての活動であったようだが、あまりに過酷な労働条件に体がついていかずに脱落する仲間が続出して半年あまりで挫折に至った。竹中英太郎と小山寛二は最後まで頑張ったが、この年の暮れに東京に向かうことになる。竹中は勉強のために、小山は活動弁士になるために。実際には竹中は挿絵画家になり、小山は大衆文学作家になった。竹中と満州とのかかわりを考える時、二つの可能性を私は感じる。その一つは挿絵画家仲間とともに軍人たちとの交流をもったから、その流れでの関心。もう一つは、挫折以後も実は浅原健三とのつながりがあり、浅原を経由しての満州への関心である。浅原は満州協和会を組織し、推進していた。裏付けはとれないが、私は大きな可能性として浅原健三との関係の継続があったのではないかと考えている。では、浅原健三とはどういう人物なのだろうか。
 福岡出身の浅原健三は1919(大正8)年、日本労友会を結成、翌年の八幡製鉄所の大労働争議を指導、成功を収めるが、浅原は治安警察法違反で逮捕され有罪。出獄後、大杉栄に私淑、「大杉栄の弟子」を自称した。1924(大正13)年、筑豊炭鉱労働者の組織化をめざして組合を結成、若いオルグを送りこんだ。そして、これを基盤にした革命を企図したがあえなく挫折。議会による改革に方向転換し、1925(大正14)年に九州民憲党を立ち上げた。1928(昭和3)年の衆議院議員選挙に出馬、当選して議員になった。古市春彦を通じて堺利彦農民学校にもつながり、その第三期にあたる1932(昭和7)年10月18日~19日では講師を勤めた。堺利彦は前述したように竹中英太郎にとって落合における恩人にあたる小山勝清が書生をした先生にあたる。1933(昭和8)年8月、仙台の歩兵連隊長であった石原莞爾に会うが、これは転向したように見せて、実は軍部自体にオルグをかけ、内部から共産化し、和平を実現しようとする試みであった。そのターゲットとして石原を選んだのであった。なぜ石原だったのだろうか。石原は1928(昭和3)年、関東軍作戦主任参謀として満州に赴任。満蒙独立論を展開、「五族協和」を唱えた。満州を支配するのではなく、本当に独立を考えていた。たしかに、石原は板垣征四郎とともに1931(昭和6)年9月18日に始まる柳条湖事件を起こし、陰謀によって満州事変をおこし、満州国を建国してしまった。だが、浅原健三は五族協和による満州の独立という石原の理想にかけたのではなかったのではないかと思う。これに加えて浅原が私淑した大杉栄との精神的盟友関係にあった北一輝と同様に石原は熱心な法華経信者であった。満州国支配を各国が難じる国際連盟で松岡洋右は大苦戦、1932(昭和7)年12月6日には国際連盟を脱退してしまう。外交による孤立回避は果たせず、防共協定に応じてくれそうな国はドイツだけという深刻な状況になってゆく。一方、こうした時代の傾斜の中、1933(昭和8)年2月、ついに小林多喜二が虐殺される。絶望的な状況のなかで浅原は世界を巻き込むような大戦争を阻止するべく動いたのであった。それが石原への接近だったのである。そう考えると、昭和8年に竹中英太郎が月刊満州社から『満州美人絵はがき』4枚を発行しているのは意味深であると思うのだ。

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