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竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(2) [竹中英太郎]

2.下落合での竹中英太郎とその人脈

 小山勝清の下落合の家には左翼以外の人物もよく訪れている。たとえば辻潤である。1924(大正13)年の小島キヨの日記には中野の吉行エイスケの家から出発して夫である辻潤と小山の家を訪ねたことが記述されている。また意外な人物では北一輝がいる。特高警察の監視、尾行がつくような小山のところに北は訪問していた。ちなみに北一輝の佐渡時代の先生に函館新聞の長谷川淑夫がいる。長谷川淑夫の長男・海太郎は一時、大杉栄に心酔したが北一輝と大杉栄もお互いを理解しあっていたふしがある。大杉栄への私淑といえば浅原健三も同様であった。浅原は後に仙台の歩兵連隊長であった石原莞爾と会うことになる。一方、長谷川淑夫は大川周明に共鳴するが、大川は北と決別し、『月刊日本』の行地社は軍部に近づくことになる。石原莞爾、土肥原賢治、東條英樹などが誌友になった。大川は満州建国を訴えてゆくことになる。
 プラトン社が金融恐慌のあおりを受けて倒産したのは1928(昭和3)年5月頭の事。雑誌は5月1日発行の5月号までしか出なかった。竹中英太郎はすでに下落合からは引越してはいるが、かつてご近所だった同郷人、橋本憲三に相談する。橋本は『現代大衆文学全集』での盟友・白井喬二に相談した。そこで白井は雑誌『新青年』の編集長である横溝正史への紹介状を書いた。この紹介状を持参して編集部を訪問したのは5月初旬のことだったろう。竹中は横溝によって採用されている。この夏には江戸川乱歩の「陰獣」への挿絵による成功が待っていた。
 もう一つの竹中英太郎のつながり。それはアナーキスト、共産主義者たちとの直接的な行動である。雑誌『左翼藝術』は1928(昭和3)年5月5日の創刊にして終刊号であるが、竹中は表紙を描き、風刺漫画を描き、短文を書いている。この雑誌には壷井繁治や三好十郎、上田進、高見順などが参加しているのだ。メンバーの中で、特に壷井繁治はナップの中心人物の一人として上落合に転居して来、雑誌『戦旗』の後期編集長となる。戦前の竹中英太郎を見ると、十代で熊本、福岡にいた時代には左翼的な活動を行うが、東京で表だって左翼的な活動を行ったのは『左翼藝術』への参加だけのように見える。最初期、挿絵を描いたのは『人と人』という労働雑誌であった。しかし、それ以後の挿絵を描いた雑誌をみても、左翼的なスタンスは見えない。それだけに『左翼藝術』への参加は唐突に感じられる。いったん、『人と人』『家の光』『クラク』の挿絵を描き、プロの挿絵画家として認められたばかりの時期でもあった。これは何を意味するのだろうか。壷井繁治のようにナップへの参加は形跡すらない。ナップでは鳥取出身の日本画家・橋浦泰雄が初代の中央委員長としてがんばっていた。小林多喜二も村山知義も中野重治も治安維持法違反の容疑で検挙、拘束されていた。妻と幼子を抱えて生活の糧を得ながら、表立ってはそぶりも見せないが、裏側では何らかの活動を行っていた可能性はないのだろうか。

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竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(1) [竹中英太郎]

1.東京熊本人村の竹中英太郎

 挿絵画家である竹中英太郎のデビュー当時、つまり下落合に居住していた時期を中心に今まで調べてきたし、文章も書いてきた。『新青年』への登場以降は多くの研究者もいるし、今さらと思い、あまり調べていなかった。だが、竹中英太郎自身が書いている横溝正史との出会い、そして突然の「陰獣」への挿絵依頼は真実であったのか、それ自体を疑ってかかる必要を感じる事実をみつけたので、今後の調査への私自身のモチベーションとするとともに、今号では論証を目的としない、やや荒唐無稽な疑問や想像を書いてみようと思う。従い、これが真実であるとの裏をとっていない、事実以外のことを沢山含んだ文章になることを事前にお断りしておきたく思う。

①不思議な人間模様とそのつながり
 竹中英太郎を調べていると不思議な人間関係が見え隠れする。その一つが熊本出身者人脈であり、下落合での住まいは「東京熊本人村」と呼ばれ、村長格の作家・小山勝清を中心に詩人の高群逸枝、橋本憲三夫婦、竹中の家には脚本家の美濃部長行が居候した。5人そろっていたのは、1925(大正14)年秋から1926(大正15)年にかけての1年弱の期間であった。
 竹中英太郎の挿絵画家としてのデビューは協調会が発行していた労働雑誌『人と人』1925(大正14)年3月号である。また、それ以前の1922(大正11)年9月号には懸賞小説に応募し、選外佳作に選ばれている。『人と人』は労働関係雑誌であり、15歳の竹中が読むのは早すぎるのではと思うが、それが事実である。この雑誌には熊本で竹中が世話になる作家の田代倫や下落合で世話になる小山勝清が執筆していた。協調会は徳川家達が会長、澁澤榮一、床次竹二郎が副会長を務める労使協調をめざす団体であるが、内務省の外郭団体、かつ政友会の息がかかっていたようだ。床次は1919(大正8)年には関東の博徒、右翼、軍部(田中義一大将が後援している)が作った大日本国粋会の世話役にもなっており、不思議な人物だ。これに対抗したのが民政党をバックにした大和民労会であり、その中心は河合徳三郎であった。土建業のボスであるが、河合映画を作り、それが大都映画になった。ちなみに竹中英太郎を雑誌『新青年』の編集長、横溝正史に紹介した白井喬二も参加している鳥取無産県人會の設立総会は1926(大正15)年1月24日に協調会館において開催された。この会の中心は日本画家の橋浦泰雄、社会主義者の橋浦時雄、涌島義博の三人であるが、白井喬二、生田長江、生田春月、尾崎翠などが会員である。
 東京熊本人村の小山勝清は堺利彦の書生だったので、橋浦時雄とは近かっただろうし、柳田國男を通じて橋浦泰雄とも知り合いだったであろう。高群逸枝は生田長江の推薦で執筆の機会を得ていた。夫の橋本憲三は平凡社の社員であった時期に『現代大衆文学全集』において白井喬二の協力を得て、この企画を具体化してゆく。そしていくつかの巻に竹中英太郎は挿絵を描くことになる。三上於菟吉はこの全集の印税を妻の長谷川時雨に渡し、その資金によって雑誌『女人藝術』は復活創刊を迎えるのである。この雑誌刊行には生田春月の妻の花世が深く関わり、尾崎翠も作品発表の場にしてゆく。プラトン社の雑誌『苦楽』には三上於菟吉も長谷川時雨も執筆していた。仲の良かった直木三十五が編集長をしていたからである。そのあとを川口松太郎が継ぎ、三代目編集長がこれも熊本で育った西口紫溟で、竹中英太郎を『クラク』(『苦楽』を改題)の挿絵画家として採用する。探偵小説の挿絵にどうかと進言したのは専属図案家の山名文夫であった。三上於菟吉のところには1924(大正13)年の暮れ近くに竹中と筑豊で別れた小山寛二が弟子入りする。そして大衆文学作家となって竹中の前に現れる。かつては浅原健三の働きかけにより筑豊炭鉱にオルグのために潜入したふたりであったが短期で挫折しての上京であった。

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闇に香る蒼き薔薇―中井英夫と竹中英太郎(2) [竹中英太郎]

3.中井英夫の竹中英太郎評価

竹中英太郎の画業が、昭和三年、乱歩の「陰獣」とともに始まり、十年の「大江春泥画譜」で実質上終わったとしても、私はそれを過去の一業績とみなすことはできない。(「胎児の夢」)

このように書いている中井も竹中の画業が1928(昭和3)年8月の『新青年』夏季増刊号の江戸川乱歩「陰獣」に始まったわけではないことは承知の上である。その上で上記のように書いている。『家の光』での画業もプラトン社の雑誌『クラク』での画業も中井には竹中の本領とは見えていないのだろう。たしかに竹中の内面的な本質を描き出すような筆致が本格的に登場したのは、「陰獣」の挿絵からであったと思う。以前にも書いたことがあるが、『家の光』における挿絵においても竹中は「陰獣」挿絵につながるような描き方をしている。ただし、徹底できてはいないのである。それはもしかすると、当時の印刷技術の発達と比例しての変化だったのかもしれない。線による表現からぼかしを組み合わせた面の表現への変遷は印刷製版の技術にも関係すると聞いているが、私にはよくわからない。

英太郎はあくまでも乱歩、正史、そして夢野久作だけの挿絵画家だが、それをもってその世界の特異な、狭小なものを思い棄てることはできない。その時代の魂を掴み取り、表現し切ったとき、誰がビアズレーを単なる世紀末の画家と見なして括然としていられるだろう。ビアズレーも英太郎も、つねに鮮しいのだ。三人だけの挿絵画家だったのは、その三人だけが日本の風土に徹し切った本物の探偵小説家だったからで、小栗虫太郎は逆にいえば、胸中の狂熱を表現してくれる画家と、ついに出逢わずじまいのままだった。松野一夫の多彩な才能をもってしても「黒死館殺人事件」にふさわしいもうひとつの世界を創り出すことはできなかったのである。(「胎児の夢」)

ここまで言うかというような決めつけ方で書いているのは乱歩、正史、久作という3人の作家とのコンビによって、本物の凄い世界を具現化したとの評価である。中井にとって他の作家との間で成立する竹中英太郎挿絵はありえないのだろう。中井は特に夢野久作の「ドグラ・マグラ」の挿絵は(現実にはありえないのだが)絶対に竹中英太郎でなければならないと思っているようで、「夢野久作の小説世界は、逆に竹中英太郎の画を文章化したものである」という幻覚のような、しかしある部分、納得感のある考えを示している。「鬼火」原画をみつめながら、その向こうに「ドグラ・マグラ」の世界を中井はみている。それも「裏返し」にである。

竹中英太郎挿絵「新青年」昭和4年1月号江戸川乱歩「悪夢」.jpg
『新青年』昭和4年1月号 竹中英太郎による「悪夢」(江戸川乱歩)への挿絵

4.『虚無への供物』が書かれた場所
 雑誌『新青年』を古書店で探しては購入し、久生十蘭や夢野久作などの探偵小説との出会いを楽しんでいた中井英夫の創作的返歌は「塔晶夫」名義で書かれた稀代のアンチ・ミステリー作品『虚無への供物』一冊であった。1964(昭和39)年2月29日に初刷発行、講談社からの刊行であった。『虚無への供物』は高校3年生のときに初めて読んだのだが、そのときは文庫版を手にしたのだった。最近になって初めて講談社の単行本初版を手にした。そして奥付ページの「著者略歴」をみて驚いたのだった。そこには以下のような記載があった。

1924年東京生まれ。旧制府立高校を経て東大言語学科中退。在学中、嶋中鵬二、吉行淳之介らと第14次『新思潮』を発行。以後小説を発表せず、この作品が処女出版である。現住所・東京都新宿区下落合4の2123中井英夫方

時期は全く違ってはいるが、1926(大正15)年頃、若き日の竹中英太郎は作家の小山勝清を頼って下落合に熊本ゆかりの人々と隣近所になって住んでいた。そのときの小山勝清の住所は「下落合2194」。そして私が竹中英太郎の家と推理しているのは「下落合2193」である。そこから『虚無への供物』出版時の中井英夫の家まではおそらく徒歩で1~2分。当時の地割で4ブロックほど西へ行ったところが中井の住所なのだ。もちろん、当時の中井は竹中とのこの不思議な縁には気づいていないと思われる。その証拠に竹中への熱い思いを綴った「胎児の夢」には関連する何の言及もない。『中井英夫作品集』別巻(三一書房 1988年9月15日刊)に収められている自筆年譜によれば、以下となっている。

1929年7歳の時に「福引の景品のノートに小説やさし絵を書き目次を作り、雑誌に作りあげるのが楽しかった。江戸川乱歩を耽読。」
1935年13歳の時、「高師付属中へ進学。小栗虫太郎、夢野久作を愛読。」
1941年19歳の時、「浪人中からリラダン、メリメ、フランス等に親しむ。またプロレタリア文学に初めて接し、村山知義、小林多喜二、中野重治を熟読。」
1955年33歳の時、「1月、突然に「虚無への供物」全編の構想浮かぶ。古い「新青年」を買い集め、久生十蘭を愛読。」
1956年34歳の時、「六月、角川書店へ「短歌」編集長として入社。春日井建、浜田到ら新人を発掘。「虚無」の執筆進まず。」
1958年36歳の時、「新宿区中井へ転居。」
1964年42歳の時、「二月に塔晶夫の名で同社(講談社)から刊行された。翌年の毎日新聞や早川のミステリーマガジンでは、戦後二十年の推理小説ベストスリーの一に選ばれたが、書評ではおおむね不評だった。」
1967年45歳の時、「八月埴谷雄高の朝日新聞紙上の一文から「虚無・・・」再評価の動き。柏木へ転居。翌年中野へ転居。」とある。

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「下落合事情明細図」に加筆。2121番地が後の中井の住居

つまり中井は1958年から67年まで約9年間を若き竹中英太郎が住んだ下落合のいわゆる「熊本人村」のすぐ近くに住んだことになる。しかも、その期間はまさに『虚無への供物』を本格的に執筆していた時期にあたっている。これは偶然の符合なのだろうか。思えば不思議な縁である。『虚無への供物』の構想を突然の啓示のように思いついてから古い『新青年』を集めだした中井であるが、そうして集めた中に一冊の「鬼火」前編完本があったという偶然。そして不思議。もちろん中井には改めて古い『新青年』を買い集めなくても乱歩や正史、久作の世界を理解、共感できる資質が備わっており、それが竹中英太郎の挿絵世界の評価にもつながるのであるが、この年譜でも不思議な逆転現象が生じる。見方を少し変えるならば、『虚無への供物』の構想を思いついたが、書き上げるための手段として中井英夫は古い『新青年』の竹中英太郎の挿絵世界の力を借りようとする。そして、それだけでは足らず、若き日に竹中英太郎が住んだ土地に転居してまで(執念で)『虚無への供物』一冊を(やっとのことで)仕上げたとも読めるのである。現実には、そんなことはありえない。しかし、この二人の作品世界を考えると「ありえる」と感じてしまうのである。中井は「廃園にて」で「喪われた竹中英太郎の挿し絵もそのままに『鬼火』の豪華限定版を出そうという奇特な出版社はないだろうか」と述べた。しかし私は『鬼火』もさることながら、中井英夫の『虚無への供物』に幻の竹中英太郎挿絵がついた限定本こそ手に取りたい。そうした思いを抱きながら講談社の初版本を手にすると、まるで本当は竹中の挿絵が印刷されていた魅惑のページ全てを破り取られているのではないか、との錯覚さえ感じる。中井英夫が偶然から『鬼火』完本を手にいれたように、この幻の一冊が私の書棚に収まることはないのだろうか。書棚の闇のむこうから微かに薔薇の香りがした。

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『新青年』昭和4年1月号 竹中英太郎による「押絵と旅する男」(夢野久作)への挿絵

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『新青年』昭和4年1月号 竹中英太郎による「押絵の奇跡」(夢野久作)への挿絵

※「鬼火」の挿絵原画は甲府の竹中英太郎記念館にも展示されている。素晴らしい作品である。
     http://takenaka-kinenkan.jp/
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闇に香る蒼き薔薇―中井英夫と竹中英太郎(1) [竹中英太郎]

1.「鬼火」の原画
 2007年秋、世田谷文学館にJJ氏こと植草甚一の展覧会を見に行った際、常設展示スペースに横溝正史の小説「鬼火」の雑誌初出時の挿絵原画2点が展示されていた。戦前の挿絵原画を一点も手元に残していなかったといわれる挿絵画家・竹中英太郎の幻といわれた挿絵原画である。この原画を世田谷文学館が収蔵しているのは知っていたが、初めて実見することができた。世田谷文学館収蔵の「鬼火」挿絵原画は合計8点あり、その全てを雑誌『新青年』を発行していた博文館・広告部に長く勤務していた江波謙吉氏が大切に保存されていたもので、今は世田谷文学館が寄贈を受けて管理している誠に貴重な作品なのである。その迫力は印刷では見たことがあるものの、原画は初めて見る私に強い印象を刻むに足るものであった。黒い画面に引き寄せられて、しばらくの間、この絵から離れることができなかった。実はこの原画は存在を知られておらず、平凡社が1980年12月に刊行した『名作挿絵全集』第八巻「昭和戦前・推理怪奇小説篇」に45年ぶりの新発見として収録されたのだった。平凡社といえば竹中英太郎との因縁浅からぬものがあり、戦前刊行された『名作挿画全集』(1935(昭和10)年)の第四巻に竹中英太郎は岡本一平、中川一政や佐野繁次郎とともに収められている。このときは、江戸川乱歩作品をモチーフに「陰獣」4点に加えて「大江春泥作品画譜」21点を改めて描いている。戦前の竹中英太郎の本格的な挿絵制作としての最後の作品が、この「陰獣・大江春泥作品画譜」であった。この直前、雑誌掲載小説への挿絵として最後に描かれたのが横溝正史の「鬼火」であったことを考えると因縁を感じないでもない。また平凡社の社長である下中彌三郎が雑誌『家の光』1925(大正14)年11月号、12月号に“的間 雁二”というペンネームで執筆した創作「かくて村は甦る」に竹中英太郎は“草山 英”の名前で挿絵を描いている。そして平凡社が刊行した円本全集である『現代大衆文学全集』(1928(昭和3)年)のいくつかの巻(小酒井不木集、伊原青々園集、新進作家集)に挿絵を提供している。

竹中英太郎挿絵 「家の光」 大正14年12月号 的間雁二1.jpg
『家の光』大正14年12月号 的間雁二「かくて村は甦る」への竹中英太郎挿絵

2.中井英夫と「鬼火」原画
 さて、この『名作挿絵全集』の第八巻には中井英夫によるエッセイ「胎児の夢-竹中英太郎」が収められている。その冒頭部分を引用する。
 
何という機縁であろう。横溝正史の名作「鬼火」の挿絵八枚全部が、少しも損なわれずに保存されていたとは。そして平凡社からそれを預った私が、この三週間あまり日夜それを眺めて、邪な悦楽にひたるかのように舌なめずりしていられたとは。

 どうやら世田谷文学館で私が見た「鬼火」原画は竹中英太郎についての解説を依頼された中井英夫の手元に一時的に預けられていたようだ。従い、「胎児の夢」は新発見された「鬼火」の原画をおそらくは毎日見続けた中井英夫が、その興奮の中で書き始めたものであり、彼の抑えがたい高揚感が伝わってくるような筆致である。では、なぜ解説が中井英夫なのだろうか。この疑問は、同じく横溝正史の『定本人形佐七捕物帳全集』第1巻の月報(1971年3月)に掲載された中井のエッセー「廃園にて」を読むことで理解できた。ちなみに「鬼火」前編は雑誌「新青年」1935(昭和10)年2月号に掲載された。「廃園にて」の冒頭部分を以下に引用する。
  
昭和十年二月号の雑誌「新青年」は、いま残っているとしても僅かな部数だろうが、それはいずれも中の数ページが破りとられている。いうまでもなく横溝正史氏の名作『鬼火』の前編が“当局の忌諱に触れ”たためで、その本文とともに竹中英太郎氏の絶妙な挿絵一葉もまた永遠に陽の目を見ないこととなった。ところがどういう偶然か、十五年ほど前に私が古本屋で買い集めていた「新青年」の中に、破りとるべき赤マルを色鉛筆でページの上に印しながら、手違いで破り忘れたらしい一冊がまぎれこんでいた。

本来であれば当局によって破りとられていなければならないページが何の手違いであったのか、破り忘れてあった、その偶然の、奇跡の一冊を、その価値のわかる中井英夫のような人のもとに導いてしまうあたり、神の意思のようなものすら感じてしまう。人と人ばかりではなく、ものと人もまたお互いに魅きあうものなのかもしれない。この一冊の中身の意味に気づいた時の中井は震えただろうと思う。ドキドキもしただろう。この世界では、ほとんど誰も見たことがないだろう数ページを目のあたりにしているのだから。中井は自らの書架にこの貴重な一冊を収め、ひとり楽しんでいたのだが、桃源社から『鬼火』復刻版が出版されると聞いて、おもわず完本が手に入ったのだろうか、と問い合わせたのだという。その結果、出版社からは、いくら手を尽くして探しても見つからなかったという返事が返ってくる。それならと資料として提供することになったというのである。当然のごとく、この話は原作者である横溝正史に伝わることになる。横溝からは完本入手の経緯を今度出る全集の月報に書いてもらえないかとの手紙が届いたという。ところが中井は原稿を書かなかったばかりか、返事も書かなかった。いや、書けなかったという。その非礼のお詫びとして、この貴重な一冊は横溝正史のもとに送られることになった。そして「廃園にて」の末尾で中井は、
  
それにしてもどこかで、喪われた竹中英太郎の挿し絵もそのままに『鬼火』の豪華限定版を出そうという奇特な出版社はないものだろうか。

と嘆いている。私も同感である。「胎児の夢」に戻ろう。

「新青年」の完本が手元にあった時、取り出しては撫でさすってニヤニヤしていたが、それはその十ページの中に竹中英太郎の挿絵が一葉入っていたからであった。文章の方は著者が手を入れてつなぎ合わせ、同じ年に春秋社から刊行されたので曲りなりにも読めるけれども、この一葉―列車事故にあった万造がアドニスのような端麗な仮面をつけて現われ、お銀のたっての頼みにチラとその下に焼けただれた素顔を覗かせる場面を描いた絶妙な一葉だけは、もう誰の眼にも触れることもない私だけのものだと思うと、もうそれだけで作中人物になったような、少なくとも“寒そうな縮緬皺を刻んだ湖水”の畔で、この陰々滅々とした話を物語る竹雨宗匠ぐらいの気持にはなれたのである。

ここまで思い入れた「鬼火」挿絵原画が手元にあるのだ。興奮するなというのが無理な注文であろうというもの。原画を目のあたりにしながら、中井がまず考えたのは横溝正史と竹中英太郎との45年ぶりの再会だったが、二人に礼を失しない手紙を書く自信がないままに〆切を迎えるに到ってしまう。もしこの絵を間にした対談が実現したなら“探偵小説の悪夢”は残りなく甦ることだろうに、と中井は後悔気味に綴っている。この対談が実現していたら凄かったろうにと残念に思う反面、果たして竹中は横溝と会っただろうかと疑問にも思うのである。

竹中英太郎挿絵2『現代大衆文学全集』第七巻「小酒井不木集」昭和3年3月1日発行.jpg
平凡社『現代大衆文学全集』第七巻「小酒井不木集」の竹中英太郎挿絵

竹中英太郎挿絵「新青年」昭和4年1月号 浜尾四郎「彼が殺したか」3.jpg
『新青年』昭和4年1月号 竹中英太郎による「彼が殺したか」(浜尾四郎)への挿絵
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プラトン社時代の竹中英太郎(2) [竹中英太郎]

4.松本泰と惠子 そして函館人脈
 私は竹中英太郎が雑誌『クラク』において挿絵を描いた作家たちの中で松本泰の存在が一番気になった。それは松本泰が東中野在住の探偵小説作家であり、『新青年』にはあまり書かなかった異色の存在である点、彼の妻である松本惠子が函館出身であり、父親の伊藤一隆が札幌農学校の一期生であり、直接にウィリアム・クラーク博士の薫陶を受けた実業家であったこと、泰・惠子夫妻が東中野に建設した谷戸文化村(10軒くらいの借家群)には、やはり函館出身の長谷川海太郎、潾二郎の兄弟が住んでいた、などの関連においてである。

竹中英太郎挿絵「クラク」昭和3年2月号 松本泰「嗣子」3.jpg
『クラク』昭和3年2月号掲載の松本泰の「嗣子」への竹中英太郎挿絵

長谷川海太郎といえば、谷譲次、牧逸馬、林不忘という3つの名前を使いわけた大衆文学における巨人の一人であり、この時期の『クラク』でも牧逸馬名義で執筆している。たとえば、1928(昭和3)年新年号から5月号までには牧逸馬の探偵小説「白仙境」が連載されている。松本泰・惠子夫妻に話を戻そう。松本泰は1887(明治20)年の東京生まれ。慶応義塾大学文学科在学中に雑誌『三田文学』に「樹陰」を発表してデビュー。卒業後にイギリスに留学をした。一方惠子は、1891(明治24)年の函館生まれ。札幌農学校一期生(二期には内村鑑三や新渡戸稲造がいる)の伊藤一隆の次女である。惠子は青山女学院在学中の1916(大正5)年に学院の恩師の紹介によりロンドンに赴任することになった貿易会社社員一家について3年間イギリスに遊学。滞英中の1918(大正7)年に泰と惠子は結婚する。帰国後、泰は1921(大正10)年に探偵小説としてのデビュー作「濃霧」を発表。1923(大正12)年には奎運社を創設、雑誌『秘密探偵雑誌』を創刊する。惠子もこれに協力し、その創刊号から中野圭介という男性名で小説や犯罪実話の翻訳ものをよせた(中島三郎名義も)。男性名義での発表ではあったが、おそらくは中野圭介名の松本惠子の創作探偵小説「皮剥獄門」(1923(大正12)年8月号)が日本で初めての女性作家による探偵小説であったと思われる。しかし、二人の『秘密探偵雑誌』はこの8月号をもって廃刊となる。関東大震災である。この大地震がのちに泰が「嗣子」を書き、英太郎が挿絵を描くことになる雑誌『クラク』(この段階では『苦楽』)と発行元のプラトン社を一躍表舞台に引き出したことを考えると皮肉なめぐり合わせである。1925(大正14)年3月に泰は『探偵文藝』を創刊する。ここで惠子は創作よりも翻訳の方面での活躍を見せる。松本惠子は日本最初の女性探偵小説作家というばかりではなく、アガサ・クリスティーの翻訳・紹介者としても記憶されるべき存在である。さて、長谷川海太郎であるが『探偵文藝』に「夜汽車」を発表、編集の手伝いまでしている。ちなみに長谷川海太郎がその妻となる女性と出会ったのは松本泰・惠子夫妻が主催する「英語研究会」でのことである。彼らは大家・借家人の関係をはるかに越えた交流を行っていた。海太郎と同居していた弟の潾二郎であるが、兄と同居する前には函館以来の親友である水谷準の下宿で同居していた。のちに『新青年』の編集に入る水谷の影響で潾二郎も「地味井平造」というペンネームで探偵小説を書いているのだ。それは、1926(大正15)年に書かれた「煙突奇談」「二人の会話」などである。兄の海太郎も『探偵文藝』において『新青年』の名編集長・森下雨村と知り合い、その縁で『新青年』に「めりけん・じゃっぷ」シリーズの記念すべき第一作となる「ヤング東郷」を発表した。海太郎自身は実は生まれは新潟県佐渡である。父親の長谷川淑夫が函館移住前には佐渡中学で教員をしていたことがあるからで、教え子に北一輝がいる。北一輝といえば、竹中英太郎が何かと世話になった作家・小山勝清と親しい人物。これもなにかの縁だろうか。淑夫は函館で函館新聞社を経営した。この新聞社には一時、海太郎の函館中学の下級(二人とも中退であるが)である親戚の久生十蘭が勤めたこともある。久生十蘭も函館中学の後輩にあたる水谷準の“つて”によって『新青年』に書くようになる。探偵小説における函館人脈である。ところで、潾二郎はもともと画家をめざして上京しており、1924(大正13)年に川端画学校に入学している。ただし数ヶ月で退学してしまったようだ。以後、独学で洋画を学んだ。一方、竹中英太郎も1924(大正13)年に単身上京、時期は確定できないが1925(大正14)年前後に川端画学校の門をたたいたといわれている。竹中英太郎の1925(大正14)年は下落合の東京熊本人村の住人だった時期にあたるが、下落合に引っ越してくる前の橋本憲三・高群逸枝夫妻が住んでいたのも東中野である。そこには夫・橋本憲三を頼って若いアナーキスト詩人たちがたむろしていたようで、小山勝清や居候の竹中英太郎もたびたび訪問していたものと思われる。橋本憲三はやはり同郷の“つて”で志垣寛に下中彌三郎を紹介してもらい、平凡社に勤務していた。そして1928(昭和3)年には『現代大衆文学全集』を作家・白井喬二の協力をえて刊行する。これには、竹中英太郎も挿絵を提供している。橋本・高群夫妻の家と松本泰・惠子夫妻の家はほど近い位置にあったものと思われる。また下落合の東京熊本人村の住人たちも鉄道を使う場合には東中野駅に向かったに相違ない。ただし、竹中と松本泰の借家に住んでいた画家・潾二郎との間に交流が生じたのかどうかは定かではない。

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伊藤一隆が学んだ時代を彷彿とさせる北海道大学の初期農場建築

5.探偵小説挿絵画家誕生前夜
 さて、プラトン社の倒産(1928年5月)によって雑誌『クラク』も廃刊となり、プラトン社との専属契約によって定額の月給生活を目論んでいた竹中英太郎は困り果てることになる。プラトン社の社員デザイナーとして多方面に活躍、すでに高い評価を得ていた山名文夫ですら、一旦郷里に帰ってしまい、ぶらぶら過ごしたようであるから、若き竹中のショックは大きかったろうと想像する。山名にはまもなく資生堂からの誘いが届き、改めて上京してくることになる。竹中も雑誌『家の光』での挿絵の仕事がなくなったわけではなく、継続しているのだが、プラトン社の仕事の比重がこの段階では高くなってしまっており、次の仕事を早急に探す必要があった。とはいえ、つてがないと雑誌の編集長にはなかなか会ってももらえない。おそらくは、つながりのあるだれかれとなく仲介を頼んだのではないかと思う。作家・白井喬二は『クラク』で竹中が挿絵画家として活躍した時期に「邪魂草」(昭和2年11月号)、「虞美人草街」(昭和3年新年号~3月号)の連載と『クラク』にほぼ毎号のように書いていた。また、前述したように平凡社時代の橋本憲三と白井喬二は『現代大衆文学全集』の刊行を通じて親しい間柄にあった。ご近所づきあいであった橋本憲三を通じて話を通してもらって、やっとのことで白井喬二の紹介状をもらったのだろう。それをもって、雑誌『新青年』の編集長である横溝正史を訪ねたのであった。ここにいたって初めて江戸川乱歩との名コンビが生まれる土台が出来上がったわけである。そして最後の鍵は『新青年』編集長の横溝正史にこそあった。作家としての横溝正史の才能については言うまでもないが、横溝は、雑誌編集長としての手腕や、現代のコピーライターのようなプロモーション力も兼ね備えていたようで、江戸川乱歩も横溝の「宣伝文句」をほめている。その横溝が初対面の竹中英太郎に何かを感じたのだろう。乱歩の復帰話題作「陰獣」の生原稿をその場で手渡したのだから不思議である。こうした不思議な運命の連鎖が新たなコラボレーションを生む。探偵小説挿絵画家=竹中英太郎誕生の瞬間であった。

竹中英太郎挿絵6『現代大衆文学全集』第七巻「小酒井不木集」昭和3年3月1日発行.jpg
平凡社『現代大衆文学全集』第七巻「小酒井不木集」昭和3年の竹中英太郎挿絵
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プラトン社時代の竹中英太郎(1) [竹中英太郎]

1.プラトン社への最初の訪問
 竹中英太郎が雑誌『クラク』に挿絵を描き始めたのは1927(昭和2)年11月号からである。このとき竹中は21歳。『クラク』を発行していたプラトン社の社員デザイナーであった山名文夫が挿絵原稿を持参した詰襟姿の竹中をみて、その若さに驚いたという逸話が残っている。最初にプラトン社を訪問したときに『クラク』の編集長であった西口紫溟を訪ねている。西口の後の回想には「佐賀出身の一刀研二と一緒」だったと書かれている。西口も短歌を書いており、一刀も歌人であるから・・・・とも思ったが、西口の記述では九州でのちのち親しくなった一刀との出会いが竹中と一緒にプラトン社に来たときだった、との書き方なので、一刀が竹中を西口のところに紹介したとは思えない。となると、別のつながりがあるのだろうか(もちろん飛び込みだってありえるのだが)。想像の範疇を超えることはできないが、西口は1896(明治29)年熊本生まれである。父親の仕事の都合で一時浜松に住むが再び熊本に戻り、済々黌中学から早稲田に進学している。下落合の東京熊本人村の中心人物、小山勝清も1896(明治29)年に熊本県球磨郡四浦村晴山に生まれた。小山も中退をしたとはいえ、済々黌である。済々黌といえば東京帝大に進学、のちに映画監督になった牛原虚彦も同校の卒業生である。彼らの文章や回想にはお互いについての記述はない。しかし、たとえば牛原の自伝に若き日につながりのあった小山勝清のことが全く触れられていないように、その後の人生での接触や影響が大きくない場合には記憶が消えてしまったり、または記述まではされないということは当然のごとくあるのだと思う。あるいは、済々黌つながりで小山勝清が西口を訪ねてみてはどうかと告げた可能性はあるものと考える。西口がプラトン社に入社したのは1926(大正15)年3月で、川口松太郎が編集長だった雑誌『演劇・映画』の次席としてであった。しかし12月には川口がやはり編集長をつとめていた雑誌『苦楽』が『キング』におされて売上で大苦戦。その責任をとる形で川口が辞職をしてしまったため、社長の中山豊三に口説かれて一般総合誌『苦楽』の編集長を引き受けることになった。西口は1967(昭和42)年に刊行した著書『五月廿五日の紋白蝶』(博多余情社)の中でプラトン社『苦楽』編集長時代に作家に払った原稿料や挿絵画家に払った挿画料についてふれている。挿絵画家の部分は以下である。

  さし絵の画料は大部分は一枚につき五円、その上が十円で、大橋月郊、和田邦坊、名越仙三郎(ママ)、田中良、宮尾しげを、前川千帆、水島爾保布、細木原青起、清水三重三、野口紅涯、小田富弥、谷洗馬、一刀研二らがそのグループであった。

もちろん別格はあって、木下孝則、伊藤彦造、岡本一平、岩田専太郎、竹内栖凰などは20円だったとのこと。さて、竹中英太郎であるが初めて『クラク』に挿絵を提供した1927(昭和2)年11月号には大下宇陀児の「盲地獄」と本田緒生の「罪を裁く」という二つの小説に挿絵を描いているが、デビューしたてなので一枚5円組と思われる。タイトルと挿絵3点を二編で挿画料はおおよそ40円となったことになる。当時の竹中は主に雑誌『人と人』と『家の光』に数多くの挿絵を提供していたが、プラトン社からの挿画料40円は、それでも大きな金額であったろうと想像される。

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『クラク』昭和2年11月号 大下宇陀児「盲地獄」挿絵

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『クラク』昭和2年11月号 本田緒生「罪を裁く」のタイトルカット

2.プラトン社専属の話
 竹中英太郎の長男、労の出生は1928(昭和3)年3月30日であるから、このときすでに最初の妻である伊津野八重子には労がやどっていたわけで、安定した収入をなんとしても稼がねばならない事情が竹中にはあったと考えられる。竹中がデビューした1927(昭和2)年11月号の挿絵執筆陣をみると、大橋月郊、和田クニ坊、刈谷深隍、吉田眞里、竹中英太郎、山六郎、山名文夫と目次に記載されている。12月号はといえば、岩田専太郎、鳥居清忠、大橋月郊、小田富彌、和田クニ坊、刈谷深隍、吉田眞里、山六郎、山名文夫、堤寒三、福岡青嵐、佐川珍香となっており、竹中はこの号に限って仕事をもらっていない。11月号の評判をみて次の依頼を編集部は考えていたのだろう。竹中が次に挿絵を描くのは1928(昭和3)年新年号の山口海旋風「興安紅涙賦」のタイトルと挿絵3点であった。『クラク』への挿絵デビューは成功だったわけだ。圧巻は次の2月号である。夏目漱石の小説「虞美人草」をもとに「名作繪物語」と名付け、竹中英太郎が10点の絵をつけている。そして、松本泰の探偵小説「嗣子」に5点の挿絵を描いているのだ。この時点でもまだ1点5円のランクであったとしても合計75円の挿画料となったはずだ。臨月間近の妻を抱えた竹中にとってはありがたかっただろう。プラトン社が月給100円で専属の挿絵画家にならないかと誘ったというのは、おそらくこの時期のことであろうと思う。妻の八重子、熊本に残している母など家族のことを考えればプラトン社のこの誘いは断る理由がなかったであろう。
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『クラク』昭和3年2月号名作繪譚「虞美人草」の竹中英太郎挿絵

3.プラトン社の倒産
 続く3月号では大泉黒石の「葵花紅」にタイトルと挿絵6点を、4月号では三上於菟吉の「早稲田應援歌」に挿絵1点、渡邊均の「祇園の春」にタイトルと挿絵2点、押川春浪原作の「名作繪物語 怪人鐵塔」に挿絵8点、近松秋江の「春と女」にタイトルと挿絵4点と合計17点も描いている。5月号でも田中貢太郎の「殺人鬼横行」にタイトルと挿絵4点、永松浅造の「五大疑獄事件眞相」にタイトルと挿絵9点の合計15点を描いている。雑誌『家の光』のときも同様であったが、編集者にとって竹中は使いやすいのか、デビューしてしばらくすると、かなりの数の挿絵の依頼を受けることになる。『クラク』でも前述の通りである。編集長である西口の「使える」という直感もさることながら、才能を即座に見破った山名文夫の「眼」を感じないわけにはいかない。後に挿絵を竹中に依頼する立場になる横溝正史が「困ったときに原稿を走り読みさせて編集部の席その場で挿絵を描いてもらうなど」と普通では頼めない仕事も竹中は嫌な顔もせずに受けたと回想されていたが、竹中のそうした柔軟な対応が仕事を増やしていったのだと考える。この量の仕事を順調にこなし、プラトン社の専属挿絵画家の話を受けるつもりだった竹中に思いがけない事態が待っていた。それはプラトン社の倒産だった。長男の労が生まれ、熊本の母親も呼ぼうとしていた矢先のことだった。実に竹中英太郎22歳のことである。この1928(昭和3)年は激動の年で、昭和恐慌による銀行倒産もあった(プラトン社倒産も銀行倒産が引き金に)し、2月には第一回普通選挙が実施されたが、その直後の3月15日に労農党、共産党への一斉検挙があった転換点の年でもあった。これに対抗する形で上落合に全日本無産者藝術連盟(ナップ)が結成されたが、この時点では竹中英太郎はすでに下落合を離れてしまっていた。
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雑誌『家の光』における竹中英太郎挿絵 [竹中英太郎]

 雑誌の実売部数は日本ABC協会によって公表(協会加盟分のみだが)されている。これが公表実売数字として最も信用ある統計数字である。嗜好が多様化し、誰にでも読まれる怪物のような雑誌が少なくなってしまった現在、日本ABC協会に登録されている月刊雑誌の一位は685,132部の『家の光』だそうだ。雑誌『家の光』はJAの家庭雑誌という現在の位置づけであるが、その創刊は1925(大正14)年5月のことであり、JAや農協の前身である産業組合中央会の発行であった。農村向けの家庭雑誌として企画、発行された。1935(昭和10)年以降の10年間は発行部数も100万部を超えており、創刊から80年を経過してもなおトップの実売を誇る稀有な雑誌であるともいえる。
 挿絵画家、竹中英太郎のデビューはすでに書いたように雑誌『人と人』(産業組合協調会が発行)であった。従来の多くの紹介では、雑誌『クラク』という一般総合誌デビュー以前については、『人と人』に挿絵を描いたこと、『家の光』で熊本出身の作家・小山勝清の小説に挿絵を描き・・・・と簡単に書かれることが多いために、私は『家の光』において小山勝清の小説に挿絵を少し描いただけ、くらいの認識でいた。しかし今回、『家の光』を創刊号から順にみていくことができ、その認識は大きな間違いであったと気付くことになった。『家の光』に竹中英太郎が登場するのは1925(大正14)年11月号のこと。この号に平凡社主の下中彌三郎がペンネームである的間雁二で創作「かくて村は甦る」を書いている。これに6点の挿画を描いたのが竹中英太郎であるが、このときはペンネーム「草山 英」を名乗っていた。このコーナーは面白くて、雑誌の巻頭近くにおかれたエッセーの見開き2ページの一部にページ全体とは関係なく小さな囲み部分があり、それが12ページにわたり6つの小コーナーとして展開されている。この掲載の形式は、1926(大正15)年7月号の小城庄三原作、竹中英太郎畫「死の鐘」に至り、初めて“挿絵小説”と名うっての掲載となっている。竹中は的間作品への挿絵提供を皮切りに挿絵を本格的に描き始めている。12月号では小山勝清の連載長編小説「山國に鳴る女」の連載が始まり(大正15年8月号まで)、これに挿絵を添えている。

竹中英太郎挿絵 「家の光」 大正14年12月号 的間雁二1.jpg
『家の光』大正14年11月号挿絵小説    

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年4月号挿絵小説 木下秀盛「母は強し」1.jpg
『家の光』大正15年4月号挿絵小説

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年6月号 小山勝清「山國に鳴る女」1.jpg     
『家の光』大正15年6月号「山國に鳴る女」タイトル


竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年3月号 小山勝清「山國に鳴る女」3.jpg
同3月号「山國に鳴る女」の挿画       

小山勝清の小説への挿絵からかなり本格的な挿絵となっており、力の入り方があきらかに変化している。本文ページに作家の名前のほかに挿絵画家として“竹中英太郎”の文字が印刷されたのは1926(大正15)年4月号からであり、この時から世間的にも『家の光』の挿絵画家としての評価が与えられたと考えるべきだろう。この時の竹中英太郎は1924(大正13)年末、18歳のときに小山寛二らと筑豊炭鉱へオルグとして潜入、挫折し、勉強のために上京してから1年以上が経過していた。上京の際には、熊本で交流の深かった(というか入りびたりだったようだ)田代倫を頼ったのではないかと思うが、1926(大正15)年6月号では、その田代の劇曲「山科の秋」に見事な挿絵を描いている。大正14年の竹中は熊本での友人であり歌人の美濃部長行と小山勝清のところに居候同然にころがり込んでいたようだが、美濃部が映画の脚本を書いており、小山の知己であり帝大出の映画監督である牛原虚彦に売り込んでいたので、牛原虚彦経由小山勝清というつながりも想像されるところである。美濃部は竹中よりも3歳年上なので、この時は21歳、牛原への再三にわたる売り込みにより「象牙の塔」が牛原の監督作品として1925(大正14)年秋に松竹蒲田作品として完成している。主演は鈴木伝明、英百合子。オムニバス三部構成の第三篇のタイトルは「黒猫魔術団」とあり、なんとも気になる作品である。9月18日に封切られている。また、1938(昭和13)年には「怪猫謎の三味線」という映画を牛原は制作しており、可能ならばこれも観たい。また、この映画「象牙の塔」は1926(大正15)年1月に牛原がハリウッドに映画留学した際に持参し、ハリウッドの映画人を集めての試写会で上映した作品2本のうちの1本であったし、評判もよかったようだ。小山、牛原は竹中より10歳くらい年上である。また、近所の借家には小山らと同じ世代の小山の友人二人が住んでいた。それは平凡社社員の橋本憲三と詩人の高群逸枝夫妻である。こうした熊本出身者が小山を中心として1925(大正14)年秋から1926(大正15)年までの約1年の間、下落合の一画に集まって暮らしていたのであった。
この頃の『家の光』の表紙は毎号、杉浦非水が描いていた。しかし、杉浦は表紙のみであり、表紙を飾る杉浦のタッチとは関係なく、デビューしたての竹中英太郎の挿絵やカットの独特のタッチが結果として初期の『家の光』全体のビジュアルな印象を次第に作っていった。それは同時代でいえば、雑誌『女性』の印象を山六郎や山名文夫の美しい線による完成したカットが形作り、同じく雑誌『苦楽』の印象を岩田専太郎、小田富彌、山名文夫の繊細な挿絵が形成し、とプラトン社発行の二つの雑誌のたたずまいを専属画家やデザイナーの画業が決めていたように、この創刊まもない『家の光』を竹中英太郎という挿絵画家がデザイニングしていったように私には見える。それだけの挿絵を描いているし、1928(昭和3)年8月に雑誌『新青年』におけるデビューをし、江戸川乱歩の「陰獣」の挿絵によって大変な評判を得るが、その萌芽はすでに『家の光』においても発揮されているし、すでに竹中英太郎独特の味を醸し出している。1926(大正15)年8月号では、前扉のイラスト、挿絵小説への挿絵6点、終篇となった小山勝清の「山國に鳴る女」への挿絵3点、傳説ページに2点、小城庄三の「聚楽夜話」への挿絵3点とさながら竹中英太郎挿絵集のようになっている。また9月号には「沙羅双二」という画家が突然登場する。だがタッチは竹中英太郎そのものである。目次カットも前扉のイラストも、加藤武雄の小説「野茨」の挿絵も「双二」のサインで描かれている。8月号まで竹中が彼の名前のサインをいれて描いていた小城庄三の「聚楽夜話」の挿絵も「沙羅双二」になっている。唯一竹中英太郎という名前のままなのは、前号の続きである小城原作の挿絵小説のみ。想像にすぎないが、あまりに竹中ばかりの挿絵になってしまっていること、評判だった小山勝清の小説が終わり、それに続くかたちで加藤武雄の小説の連載が始まり、これも竹中が描くことになったことから、編集者の意向または指示によって、別の挿絵ネームを使うことにしたのではないかと思う。この時代にはそうした例が他にもあったようだ。

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年9月 加藤武雄「野茨」1.jpg   
『家の光』大正15年9月号 加藤武雄小説のタイトルカット 目次には画家名記載はない

そして、10月号の目次には加藤武雄の「野茨」の挿絵画家として「竹中英太郎」と印刷されているが、実際の「野茨」のページには「沙羅双二畫」と印刷されているのである。1927(昭和2)年2月号には「沙羅双二畫」となっているがサインは「英畫」とある。昭和2年3月号の「沙羅双二畫」のページに「Ta E」のサインが入った挿画が登場している。こうした混乱からか尾崎秀樹は「『野茨』の挿絵は竹中英太郎と沙羅双二の合作」とみなしたようであるが、沙羅双二はタッチから考えても竹中英太郎の別名であろう。

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年10月 目次2.jpg      
『家の光』大正15年10月号 「目次」(部分)

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年10月 加藤武雄「野茨」1.jpg
同号の本文のタイトル部分

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年10月 加藤武雄「野茨」2.jpg
同号の挿絵

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和2年3月 加藤武雄「野茨」1.jpg
『家の光』昭和2年3月号の「野茨」のページ     

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和2年3月 加藤武雄「野茨」2.jpg
※サイン部分のアップ

竹中が挿絵の中に描いたサインを拾い出してみよう。「英」「ET」「EITARO」「EITA」「EITRO」「ei」「英太郎」「英太郎畫」「英畫」「英写」「aitaro」「A」「Eisua」「双二」「沙羅双二」「竹中英太郎」「eitaro」「soji」「SARA」「沙羅双二畫」「沙羅双二絵」「Tatusuburo」「S.SARA」「Soji SARA」「SARA SO2」「Ta E」「EITARO.T」など様々なバリエーションのサインを使っている。『家の光』デビューの時にはサインは「ET」であるが印刷された画家としての名前は「草山 英」であった。竹中は、1927(昭和2)年11月にプラトン社の『クラク』で大下宇陀児の「盲地獄」に挿絵を描いて一般総合誌にデビューした、と私は認識していた。つまり『家の光』は本格デビュー前の前哨戦くらいに思っていたのであるが、そうではなかった。そればかりか、『クラク』に挿画を描くようになってからも『家の光』の挿絵を竹中はやめていない。1927(昭和2)年8月から1928(昭和3)年5月まで掲載された前田曙山の連載長編小説「清き罪」に竹中英太郎畫の名前表記で挿絵を描いている。

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和2年11月 前田曙山「清き罪」2.jpg
『家の光』昭和2年11月号 前田曙山「清き罪」の挿絵 ※雑誌『クラク』へのデビュー時期の挿絵作品であるが、後に『新青年』に掲載された江戸川乱歩「陰獣」の挿絵を彷彿とさせる筆致である。

1928(昭和3)年5月は竹中にとっても日本の文化史においても重要な転換月となる。『クラク』を発行していたプラトン社が倒産したのだ。また、壺井繁治や高見順、三好十郎らとともに雑誌『左翼藝術』の創刊に参加した。そして全日本無産者藝術連盟、通称「ナップ」が誕生した。できたばかりの左翼藝術同盟は発展的に「ナップ」に吸収された、などなど。時代は大きな転換点にあった。竹中は『家の光』への挿絵提供は続けていたが、これに加えて雑誌『クラク』の発行会社であるプラトン社とは専属契約の話が進んでいた。この話がなくなったのだから、別の雑誌社の仕事をみつける必要に迫られた。平凡社の『現代大衆文学全集』にも挿絵を描いていた竹中は橋本憲三を通じて白井喬二の紹介状を得て、博文館に横溝正史を訪ねることになる。横溝は当時、雑誌『新青年』の編集長であり、竹中の挿絵を見て、ひらめくところがあったのだろう、手元にあった江戸川乱歩の「陰獣」の原稿を渡したのだった。江戸川乱歩の「陰獣」は『新青年』の1928(昭和3)年8月増刊号、9月号、10月号と掲載され大変な評判を得たが、竹中の挿絵もそれを助けたものといえるだろう。『クラク』『新青年』を通じて、今で言う推理小説、当時の探偵小説とコラボする独特なタッチの挿絵スターの一人になっていったのであった。『新青年』でデビューする直前、面白いことに竹中は『家の光』1928(昭和3)年7月号において探偵小説に挿絵を描いている。野良雲夫という作家の「葉書の血痕」という作品である。竹中英太郎にとって雑誌『家の光』の経験は大きかったに違いない。下落合での小山、橋本、高群、美濃部との生活と同様に若き才能に大きな刺激を与え、生活の糧を稼ぐ基礎を作った。挿絵画家になるということ、それは竹中にとって志と異なる展開であったのかもしれない。しかし、後世の我々にとってはありがたい変節であったといえるだろう。竹中英太郎の描いた挿絵を楽しむことができるのだから。

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和3年7月 野良雪夫「葉書の血痕」2.jpg          
『家の光』昭和3年7月号 野良雪夫「葉書の血痕」の挿絵

※※竹中英太郎の挿絵原画の多くは甲府市にある竹中英太郎記念館が所蔵、展覧されている。生誕100周年の記念画集も発行されており、その内容は素晴らしい。HPは http://takenaka-kinenkan.jp/ ぜひ実際に訪れて実物をみていただきたいと思う。※※

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竹中英太郎のデビューのころ [竹中英太郎]

 雑誌「新青年」で活躍した竹中英太郎のデビュー作はどのような作品だったのだろうか。そんな興味をもって調べ始めた。さまざまな形で参考にさせていただいている鈴木義明の『夢を吐く絵師 竹中英太郎』(2006年 弦書房)67ページには「産業組合協調会発行の労働雑誌『人と人』大正十四年七月号「天保快挙録」(作・筑波四郎)第五回に挿絵を描いたのが、商業誌での画家デビューであった。これは翌年四月号の「最終回」まで英太郎が担当したが、挿絵の上手さはすぐに評判になり編集者の覚えもよく、仕事は途切れなかった。」とある。しかし、雑誌『人と人』を手に取る機会はなかったのであったが、最近になって、『人と人』の1925(大正14)年7月号と、それ以前の3月号を手にとる機会に恵まれた。たしかに7月号には筑波四郎の「天保快挙録」の第五回が掲載されており、そのタイトル部分には挿絵画家として「日野 永」と記されている。しかし、誌面全体を見た際に素朴な疑問も浮かんだ。ほかにも挿絵があるにもかかわらず、画家の名前が記載されているのは「日野 永」のみである。この時、竹中英太郎は若干18歳。この時点ではプロとは呼べないだろうし、名前も通っていない。だのに竹中のみなぜ名前が記載されたのだろう。これは大きな疑問である。前述書において鈴木義明が書いているように、熊本で竹中がいりびたっていた田代倫の紹介によって『人と人』に仕事を得た可能性が高いと私も思うのではあるが。

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「人と人」大正14年7月号表紙 

おそらく田代倫の存在がこの雑誌にとっては大きかったのだろう。それにしても、なぜ竹中のみという疑問は残る。この7月号に田代倫は「赤い樽」という創作をよせている。1980年8月1日熊本日日新聞夕刊に掲載された「竹中英太郎メモワール 『熊本シネマ巷談』」の時代」での竹中英太郎と『熊本シネマ巷談』の著者である藤川治水との対談には、田代倫とのつながりが竹中自身によって述べられている。「水平社運動に加わられたのも同時期?」の質問に「ええ、家を出て、春竹にいりびたり。田代倫という人物をご存じでしょう。その『異邦人の散歩』の作者が熊本の春竹の一角に、ノブエさんという女性と住んでいた。ハイカラな人でね、長髪にアゴひげを生やし、頭ははげてて、いまでも、その面影が浮かんできますよ。」と答えている。その後、竹中は小山寛二にスカウトされて浅原健三が組織した筑豊炭鉱組合に加わるも挫折、1924(大正13)年の秋に小山と別れて勉強のために東京に出て来ることになる。

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         「人と人」大正14年7月号掲載の日野 永名義の挿絵

おそらく東京に着いたのは暮れ近い時期であったのではないかと想像する。上京にあたっては、再び東京に戻っていた田代倫を頼ったものと思われる。さて、デビュー作だといわれる挿絵であるが時代物を描くときの竹中スタイルの特徴の一つが出ている。それは雑誌『新青年』」で活躍している時期においても継承されている描き方であった。竹中というとどうしても探偵小説、それも江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史につけた幻想怪奇な挿絵が有名であって、時代ものの挿絵は忘れられがちである。しかし、竹中自身が対談でいっているように絵に関して専門的な教育を受けていない竹中が手本にしたのは熊本の映画館にかかった時代ものの絵看板であった。そういわれて竹中の初期の挿絵をみると映画の1シーンを象徴的に表す絵看板の影響を感じる。映画はこの時代にとってニューメディアであったのであろう。左翼思想、モダニズムなどと並んで映画それ自体が時代の前衛であったものと考える。従い、多くの若者の心を捉えた。竹中の若き日の仲間である小山寛二は筑豊での別れ際、竹中に「活弁にでもなろうかな」と言ったという。活弁とは活動写真の弁士のこと。活弁も花形だったのだろう。小山は、しかし活弁にはならず、1928(昭和3)年に上京、三上於菟吉に弟子入りして大衆作家となった。

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「新青年」昭和4年1月号 夢野久作「押絵の奇跡」への竹中英太郎の挿絵
美濃部長行は脚本家になって「象牙の塔」という映画の原作・脚本を書く。この作品は1925(大正14)年9月に松竹蒲田撮影所において同じく熊本出身の映画監督、牛原虚彦によって映画化された。そして牛原のハリウッド留学の際に持参され、ハリウッドで上映された。映画という新しいメディアが若く才能にあふれている表現者たちを刺激したのだ。『熊本シネマ巷談』(藤川治水著、昭和53年 青潮社刊)には熊本県内の映画館各館のプログラムが復刻、収録されていて大変貴重であるが、1922(大正11)年7月11日発行の『熊本 世界館画報』第十六號には「眞慕露志事 竹中英太郎」が「切に畫報改造を望む」なる一文を寄せていて興味深い。熊本唯一のキネマ雑誌としては余りに内容外観ともに貧弱すぎるので改造すべきだというのが主旨。「それは先第一に体裁の改造である。第一が表紙畫。従来の表紙畫を評すれば紙一杯に拡がった毒々しい感じのする繪である。もちとさばつしたキネマ誌らしい表紙畫を希望する。」とまっさきに表紙画を変更するよう要求しており、さすがに後に挿絵画家となる竹中英太郎らしい。1967(昭和42)年に発行された『大衆文学研究』(南北社)の18号には竹中の「「陰獣」因縁談」が掲載されている。この文章、もともとは平凡社の『名作挿画全集』第四号へのしおりとして挿入された『さしえ』四號より再録されたものである。ここで竹中は「私は自分の勉強の資を得るために、せめて、幼い時分に活動館や芝居小屋の繪看板を眞似て一生懸命に石川五右衛門釜入の圖や猿飛佐助忍術の巻などを描いて喜んでゐた記憶をなりと呼び戻して、挿繪といふようなものでも描いてみるより、他に手近な方法もなかったのだ。」と述べている。竹中にとって映画、映画の絵看板、映画の雑誌といった新しいメディアの周辺事象からの影響が大きかったことがわかる。
 さて、竹中英太郎のデビュー作であるが、もし「日野 永」が竹中英太郎のペンネームで間違いがないとすれば1925(大正14)年の3月号にも挿絵作品がある。この3月号は筑波四郎が「天保快挙録」の連載を始める号である。この小説のタイトル部分には「日野永畫」の記載がある。この3月号は2月20日の印刷納本となっているので、挿絵を描いたのは早ければ大正14年の1月中であった可能性があり、大正13年の暮れ頃に九州から東京に出てきたことを考えると、上京後ほどなくして挿絵の仕事を始めたことになる。ここでも私は若き竹中英太郎一人のみが挿絵画家として名前をクレジットされていることに違和感を感じるが、事実三月号でも「日野 永」のみが記載されている。不思議な事実ではある。

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「人と人」大正14年3月号表紙 
竹中英太郎挿画「人と人」大正14年3月号 筑波四郎「天保快挙録」第1回.jpg
同号の「天保快挙録」タイトル部分

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「人と人」大正14年3月号 筑波四郎「天保快挙録」第一回の日野 永名義の挿絵

3月号の挿絵は7月号と比べると少し稚拙な気もするが、『家の光』初期の竹中の挿絵をみると似たようなタッチの挿絵がある。雑誌『家の光』にデビューするのは1925(大正14)年11月号からで、平凡社の社長である下中彌三郎のガンジーにちなんだペンネーム、的間雁二名義の創作「かくて村は甦る」の挿絵が最初だった。このときのペンネームは「草山 英」である。『人と人』での「日野 永」から、『家の光』での「草山 英」へ。そして本名の「竹中英太郎」へと変化してゆく。すると、どうやら竹中英太郎の商業雑誌へのデビューは『人と人』1925(大正14)年3月号ということになるようだ。
 ところで、竹中のデビュー作にあたる「天保快挙録」を書いた筑波四郎であるが、1922(大正11)年11月10日講談社刊行の『探偵事實奇譚』の著者であり、日本のコナン・ドイルといわれた初期の探偵作家であり、探偵実話の紹介者である。後に山名文夫が「探偵小説の挿絵にぴったり」だと感じ、現に雑誌『新青年』において江戸川乱歩や夢野久作との名コンビぶりを発揮した竹中英太郎のデビューにおいて、まるで因縁であるかのように探偵作家が登場するのであるから、不思議なことである。但し、『人と人』での筑波四郎は探偵小説を書いたわけではない。歴史小説としての「天保快挙録」を書いている。しかし、幻想怪奇の画家と呼ばれた竹中英太郎のデビューが探偵小説でなかったけれども、日本のコナン・ドイルと呼ばれた筑波四郎であったことは偶然とはいえない何かを感じた。ところで、「天保快挙録」の連載は雑誌『人と人』1926(大正15)年5月号まで続いた。そして、この時点では竹中英太郎の名前で挿絵を描いている。そして、同じ号の小林生男の長編小説「落葉の道」の挿絵を描いているので、以後も担当した可能性があるが、未調査である。
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『人と人』大正15年5月号「天保快挙録」終編への挿絵
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竹中英太郎と落合ソビエト [竹中英太郎]

 挿絵画家 竹中英太郎の長男にしてルポライターである竹中労の文章に、1955(昭和30)年秋、壺井繁治が新日本文学会・山梨県支部を結成するために甲府に来た際、竹中英太郎の消息を聞き、会いたいと希望されたことがあったと回想されている。しかし、この時に壺井と竹中は再会していない。労が壺井の希望を伝えたにも関わらず、竹中は壺井がわざわざ家まで訪ねてくれたとき不在であった。労が「もしや」と思い近くのパチンコ屋を覗くと、知らぬ顔で玉を弾いていたという。来るのをわかっていながら避けてしまったのである。この時の様子は竹中労の著作『美空ひばり 民衆の心をうたって二十年』(弘文社 昭和40年)に「竹中英太郎小伝<<番外>>」と題するエッセーがあり、その中に記述されている。壺井繁治と竹中英太郎、二人がどの時期にどこで出会っているのかであるが、二人の接点が確実に露出しているのは1928(昭和3)年4月末に創刊された雑誌『左翼芸術』(発行日はメーデーである5月1日)誌面においてである。この『左翼芸術』は壺井繁治を発行人として刊行された雑誌で、主要な同人として三好十郎、高見順、上田進などが参加している。この若きアナーキスト詩人たちの雑誌に竹中も参加している。竹中英太郎21歳の時のことである。竹中は表紙を描き、時勢を揶揄する漫画を1ページ、そして「貧乏絵描きが一団となって」と題したエッセーまで書いている。

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『左翼芸術』創刊号67ページに掲載された竹中英太郎の漫画

二人の出会いはおそらくは作家・小山勝清とのつながりによる。1925(大正14)年当時、東中野に住んでいた、やはり熊本出身の橋本憲三・高群逸枝夫妻の家には壺井や三好などアナーキスト詩人がたむろしていた。小山と橋本夫妻とは、熊本時代からの知己であり、小山は東中野の家にもよく訪問していた。小山は時に居候に近い状態で転がり込んでいた竹中を橋本のところに伴った。竹中も上京する前、熊本において左翼運動を実践していたし、直前には筑豊の炭鉱に細胞として潜入、挫折した経験をもっていた。橋本憲三のところで、竹中英太郎は壺井や三好、高見らとどのような理想を語り合ったのだろうか。大正14年秋から大正15年秋にかけての約1年間、下落合(現在の中井)において小山、橋本、高群、竹中、美濃部は向う三軒両隣のようなご近所となった。5人に共通するのは、熊本との関わりと左翼思想であった。「東京熊本人村」という表現はこの事象をさしてのことである。熊本時代からの友人・美濃部長行は下落合の竹中のところに転がり込んできて同居していた。そして美濃部の書いた脚本「象牙の塔」を映画化したのが小山の知己にして、熊本出身の映画監督である牛原虚彦であった。
 日本における左翼思想、プロレタリア芸術運動の始点の一つに雑誌『種蒔く人』がある。『種蒔く人』はアンリ・バルビュスが提唱した反戦運動「グループ・クラルテ」に大きな影響を受けた小牧近江がその日本への移植を構想し、故郷である土崎港で小学校時代の同級生、今野賢三、金子洋文とともに1920(大正10)年に創刊、3号までを発行したが休刊していた雑誌であった。そしてこの『種蒔く人』東京版には、小牧も属していた「フランス同好会」を通じて村松正俊と佐々木孝丸が参加することになる。そして、新宿・中村屋主人の相馬愛蔵、黒光夫妻も東京版の発行に関わっている。
1920(大正9)年、関西で開催された秋田雨雀の脚本朗読会の話に触発されて佐々木たちは自分たちも脚本朗読会をやろうということになる。相馬黒光の好意により中村屋の二階に集まることにし、会の名前を秋田の代表作「土」三部作にちなんで「土の会」としたのだった。会には秋田、佐々木、佐藤青夜、能島武文、黒光、娘の千賀子、神近市子などが参加し、創作戯曲を朗読した。会の聞き手は相馬愛蔵、盲目の詩人エロシェンコであった。ときには日本最初の映画女優である花柳はるみが朗読指導に来たりもした。『種蒔く人』の同人である小牧、金子は東京で雑誌を再刊することを企てていたのだが、政府に納める保証金がないためにできないでいた。しかし、着々と準備を進め、1921(大正10)年9月ついに『種蒔く人』創刊号を出すまでにこぎつけた。同人は前記5人のほかに松本弘二、山川亮、柳瀬正夢の合計8人。名をつらねた寄稿家には秋田雨雀、有島武郎、アンリ・バルビュス、ワシリー・エロシェンコ、江口渙、藤森成吉、平林初之輔、神近市子、白鳥省吾、山川菊栄、吉江喬松などがいる。印刷・製本が出来上がったはいいが、この期に及んで印刷屋に払う金がない。発売前日、佐々木が中村屋に駆け込んで愛蔵に借金を申し込んだのだった。愛蔵は翌日社員に支払う給料となるはずの現金から二百円を融通してくれたという。創刊号の表紙は柳瀬正夢によるもの。表紙の上に、赤い紙に「世界主義文芸雑誌」と印刷してまいた。愛蔵の支援があったればこそ創刊号の発行ができたのだった。同人もその後、平林初之輔、津田光造、松本淳三、青野季吉、上野虎雄、前田河広一郎、中西伊之助、佐野袈裟美、武藤直治、山田清三郎と号を重ねるごとに増加した。創刊号からさっそく発売禁止になったにも関わらず『種蒔く人』は20号まで継続し、関東大震災の被災によって廃刊となるが、その同人や影響を受けた周囲、読者などが、その後のプロレタリア芸術運動の一つの核となっていった。また脚本朗読会は相馬が買った麹町平河町の大名屋敷の土蔵を小劇場とする「土蔵劇場」で上演する「先駆座」という劇団にまで発展、実際に観客をいれて演劇を上演するまでになった。
 ところで佐々木孝丸であるが、ネットで検索すると「仮面ライダー俳優名鑑」の中に登場する。1974年「仮面ライダーX」の堂本博士の役である。だが佐々木はバルビュスの著作『クラルテ』の翻訳者(小牧との共訳)であり、『種蒔く人』東京版の創刊時の同人であり、1925(大正14)年に創立された「日本プロレタリア文芸聯盟」の初代議長であったのだ。佐々木の出生地は北海道の標茶町。1898年に生まれ1986年に88歳で没している。
柳瀬正夢装丁『クラリテ』.jpg  『クラルテ』表紙(装幀は柳瀬正夢)

古賀春江装丁『海と飛魚の子と』林房雄・昭和5年・改造社.jpg林房雄『海と飛魚の子と』表紙(装幀は古賀春江)

震災後に廃刊となった「種蒔く人」の後継雑誌『文芸戦線』が青野季吉、小牧近江、武藤直治らによって1924(大正13)年5月に創刊されている。そして、『戦闘文芸』『解放』『文芸市場』東京帝国大学社会文芸研究会などによって翌年10月4日に日本プロレタリア文芸聯盟の発起人総会が実施され、12月6日には佐々木孝丸を議長に、『戦闘文芸』の岩崎一、山田清三郎、佐々木孝丸を大会委員に創立大会を80余名の参加のもとに行なった。第二回大会は1926(大正15)年11月14日に牛込神楽坂倶楽部で開催され、委員長を山田清三郎、文学部委員に中野重治、林房雄、演劇部委員に佐々木孝丸、久板栄二郎、美術部委員に柳瀬正夢、小林源太郎、音楽部委員に小野宮吉、書記長に小堀甚二を選出している。「東京熊本人村」に竹中らが集まっていた時期はまさに日本プロレタリア文芸聯盟の発起人総会から第二回大会の期間にあたる。文学部委員である林房雄は熊本の五高社研で竹中と関わりがあったはずであるが、この時期の東京での関わりはわからない。
経緯は不明であるが、プロレタリア文芸関連諸氏が落合に移ってきだすのは1927(昭和2)年頃以降のことである。現在の西武新宿線が下落合駅を始発駅として開通したのが昭和2年である。藤森成吉が『何が彼女をそうさせたか』を発表したのが同年1月。この本の装幀は村山知義である。11月には「前衛劇場」が小野宮吉、久板栄二郎、関鑑子、村山知義、小川信一、辻恒彦、柳瀬正夢、仲島淇三、佐藤誠也、野村康、村雲毅一、山田清三郎、青野季吉、林房雄、前田河広一郎、葉山嘉樹、佐野碩、千田是也、佐々木孝丸を同人として結成されている。さて、1927(昭和2)年当時、落合に移住していたのは、片岡鐵兵、山田清三郎、佐々木孝丸、小川信一。それ以前から村山知義は上落合に住んでいた。1928(昭和3)年1月、雑誌『前衛』を創刊するが発行所は上落合215番地の佐々木孝丸の自宅であった。上落合<前芸>派と呼ばれたのは、川口浩、山田清三郎、村山知義、小川信一、佐々木孝丸、橋本英吉、立野信之、本庄睦男、中村雅男、蔵原惟人であった。
1928(昭和3)年10月28日国際文化研究所を発行元、大河内信威を編集人として雑誌『国際文化』が創刊された。ちなみに、大河内信威は子爵にして理化学研究所の3代目所長である大河内正敏の長男、ペンネーム小川信一のことである。
 そして、それまで分裂を繰り返していた団体を一つにまとめる動きが出始める。1927(昭和2)年12月21日、無産者新聞編集局の肝煎りで、本郷・赤門前の一白荘という喫茶店で合同促進第一回協議会が開かれた。これには、日本プロレタリア芸術連盟から中野重治、谷一、鹿地亘、森山啓、佐藤武夫、佐野碩、久板栄二郎が、前衛芸術家同盟からは蔵原惟人、林房雄、川口浩、村山知義、永田一修、山田清三郎、佐々木孝丸が参加。中立な立場の無産者新聞の門田博が議長を務め、労農党本部から代表がオブザーバーとして出席した。第二回の協議会は1928(昭和3)年1月10日に上落合の前芸本部つまり佐々木孝丸の自宅を会場に開かれた。合同の機運はこうして徐々に高まったのである。
 一方、1928(昭和3)年には初の普通選挙が行われた。2月20日のことである。労農党候補は二人の当選者以外は全て落選だった。そして3月15日、共産党に対する大検挙が行われた。後に小林多喜二が『一九二八年三月十五日』に描いた弾圧である。この3・15事件が一つの契機となり、3月25日「全日本無産者芸術連盟」として合同されることが声明された。略して「ナップ」の誕生である。そして合同声明発表から4月28日の創立大会までの間に小規模な左翼芸術団体が一斉に新組織になだれ込んできた。その中の一つに「左翼芸術聯盟」があったのである。本稿の冒頭で竹中が参加したと記述した機関誌『左翼芸術』の壺井繁治、三好十郎、高見順、上田進らのメンバーである。竹中とナップとの関わりは『左翼芸術』への関わり以外には見出せないようである。この合同によって、プロ芸の機関誌『プロレタリア芸術』は10号をもって、また前芸の機関誌『前衛』は4号をもって廃刊し、新たにナップの機関誌『戦旗』が刊行されることになった。『戦旗』創刊号は山田清三郎を責任編集として1928(昭和3)年5月5日に創刊された。『左翼芸術』の壺井繁治は山田清三郎のあとを受けて1930(昭和5)年9月号より責任編集を担当する。

「文芸戦線」昭和2年9月号.jpg『文藝戦線』昭和2年9月号 「戦旗」1930年4月号.jpg『戦旗』1930(昭和5)年4月号表紙

 1928(昭和3年)、ナップ作家同盟や国際文化研究所は上落合の月見岡八幡神社のそばにおかれた。また『戦旗』発行所は一時、中井駅から下落合駅に向かう妙正寺川沿いにおかれた。蔵原惟人、永田一修、立野信之なども上落合に移住、この頃、上落合地域は「落合ソビエト」と呼ばれた。獄中の村山知義にあてた妻・籌子の手紙の中には息子の亜土が「ピオニール」活動に夢中であるとの記述がある。ソビエト連邦にならって、落合ソビエトにもピオニールが組織されていたのだ。『戦旗』11月号、12月号には前述した小林多喜二の「一九二八年三月十五日」が掲載された。翌4年3月、戦旗発行所に小樽の小林多喜二から「蟹工船」の原稿が届き、5月号から掲載が始まった。1930(昭和5)年11月27日ソビエトから帰国した中條百合子がナップに加盟した。1931(昭和6)年には中野重治、壺井繁治・栄夫妻、井汲卓一、野川隆、今野大力、中條百合子などが上落合の住人となった。だが、時代は大きなうねりの中にあった。関東大震災後の混乱がふたたびないようにとの名目で、政府は治安維持法を1925(大正14)年4月22日に成立させていた。治安維持法は「国体変革・私有財産制否定を目的とした結社運動の取締り」を主たる目的とする法律である。しかも、普通選挙法とセットに同時に可決された法案であった。1928(昭和3)年2月20日の選挙は普通選挙法下で行われる最初の選挙だった。この選挙直後に大規模な検挙を始めたのであった。そして6月29日には勅令129号によって治安維持法は大幅に改定、強化された。7月、全国の府県警察に特高警察が設置された。本格的な思想弾圧の始まりである。蔵原や小林は地下に潜ることを余儀なくされる。1933(昭和8)年2月、地下にもぐっていた小林多喜二が密告により築地署に連行され、拷問によって殺された。多喜二30歳のことであった。思想弾圧を激しくするのに並行するように日本は泥沼のような日中戦争から太平洋戦争、第二次世界大戦という全面戦争へと突き進んでしまう。その前夜のことであった。

戦旗発行所近くの民家.JPG   
戦旗発行所近くの民家

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ナップ本部のあった場所

<参考文献>
竹中労『美空ひばり 民衆の心をうたって二十年』 弘文社
鈴木義明『夢を吐く絵師 竹中英太郎』 弦書房
目白学園女子短期大学国語国文科研究室『落合文士村』 双文社出版
山田清三郎『プロレタリア文学史』上・下 理論社
佐々木孝丸『風雪新劇志』 現代社
村山籌子 村山知義編『ありし日の妻の手紙』 櫻井書店
村山知義『演劇的自叙伝』2・3 東邦出版社
村山亜土『母と歩く時』 JULA出版局

※※一連の竹中英太郎に関するエッセーは札幌で発行されている雑誌「がいこつ亭」に書いたものです。直近のものは竹中英太郎ではなく、村山知義の三角の家に関して、そしてまだ発行されていない次号(42号)では尾崎翠について書いています。年間購読料は1,000円で4回発行。別途送料がかかります。  申込みは:〒062-0041 札幌市豊平区福住1条7丁目3-15 三神恵爾さんあてにお願いします。 ※※   

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下落合にいた竹中英太郎 [竹中英太郎]

 竹中英太郎の挿絵は江戸川乱歩、夢野久作の小説の効果を増加させるものとして触れていたし、識っていた。竹中は雑誌『新青年』の挿絵画家であり、戦前の一時期にのみ活躍した人という認識だった。生誕100周年ということで、弥生美術館で竹中英太郎展が開催されたのは2006年9月30日から12月24日までの期間。会場の展示パネルに「下落合に住んでいた」旨の記述をみつけ興味をもった。わが住む街の過去の歴史のことゆえ、本やエッセーにあたって調べてみると、たしかに竹中は「下落合のいわゆる熊本人村」に住んでいたという記述にあたる。だが、誰にきいても肝心の「熊本人村」など知らない。地元に昔から住んでいる住人はもちろん、熊本の友人・知人、文化史に詳しい方にきいてもご存知なかった。昭和初期の竹中の挿絵は江戸川乱歩や夢野久作、横溝正史といった独特の推理小説を彩ったために、その代表作も怪奇幻想の世界を体現している。が、この「闇」を体現するような作風を誇り、十年というきわめて短い活動期間しかもたなかったため、幻とまでいわれた挿絵画家のデビュー前後のことがまさか「闇」の中にあろうとは思わなかったのであった。
 まずは最初の疑問。果たして竹中英太郎は本当に落合地区に住んでいたのだろうか、である。これについては竹中自身が語ってくれていた。熊本日日新聞1980年8月1日夕刊に「竹中英太郎メモワール 『熊本シネマ巷談』の時代」という対談記事が掲載されている。これは『熊本シネマ巷談』の著者である藤川治水と竹中英太郎との対談であるが、この中で竹中は「彼(美濃部長行)を東京・落合の私の家に住まわせたことがある。畑があって、その向こうが作家の小山勝清さんの家。何度か遊びに行っているうちに美濃部は小山さんの娘と仲が良くなり、後で二人で台湾に渡った。」と言っている。対談では何年の事だったのかは語っていないが、美濃部の脚本によって「象牙の塔」という映画(松竹蒲田)が製作されたのは1925(大正14)年のこと。美濃部が竹中のところに身を寄せ、従い二人して落合の住人であったのはこの時期のことであろう。ちなみに竹中英太郎、若干19歳のことであった。また、この映画「象牙の塔」の監督は牛原虚彦であるが、牛原もまた熊本出身であり、帝大卒業後に小山内薫の紹介によって松竹蒲田撮影所に入社している。小山勝清とは知己であったようだ。
 次にこの時期の小山勝清である。小山は1920(大正9)年に単身上京している。無産運動、共産思想に共感した小山は堺利彦の書生となる。そして足尾や釜石の労働争議に関わる。しかし次々に挫折。一旦は郷里の熊本に帰るも、本になるだけの原稿を書き上げて再度上京、妹夫婦のいた下落合に居を構えた。この時の小山の著作は『或村の近世史』(大正14年 聚英閣)。奥付に住所はないが、序文には「下落合二一九四 著者」とある。この旧番地を大正15年当時の住宅地図「下落合事情明細図」にあたると、今の新宿区中井・四ノ坂を上りきった台地の上にあたる場所である。今現在のその周辺地域をみると四ノ坂の登り口には林芙美子記念館があり、近くには画家松本竣介の家がある。また西には目白大学があり、近くの五ノ坂は目白大学生の通学路になっている。地図にみる1926(大正15)年当時は、五ノ坂上部に古屋芳雄邸があり、その北や東の土地は植木畑である。そもそも五ノ坂の道は省線・東中野駅から中井地域に入ってくる街道になっており、五ノ坂を登った道は椎名町を経由して目白駅の方へと続いている。その五ノ坂を登ったあたりを少し四ノ坂の方へ行ったあたりが小山勝清の住んだ場所、つまり竹中英太郎が住んでいた場所である。

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竹中は雑誌挿絵の仕事で知り合った小山の世話によって下落合に越してきたのであるが、近くには、小山と同郷の橋本憲三・高群逸枝夫妻も東中野の家から小山の仲介で越してきていた。このときの生活の様子は高群の『火の国の女の日記』(1965年 理論社)中に「下落合界隈」と題して記載されている。しばらくは高群の日記をたどりたい。

「二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にあたる長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので、小山さんの近所だった。」
「この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。」
「居間は南面し、すぐ前は植木畑であるのが私たちを和ませた。」
「この家ではもはや訪問客はかたく排除された。球磨の四浦出身の小山たまえ夫人だけがときどき長女の美いちゃんを連れて故郷の話をしにやってくるぐらいだった。勝手口から少し離れたところに四世帯共同の井戸があったが・・・・」
「夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者の洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。」

などとある。1925(大正14)年9月19日、アナーキスト詩人たちのたまり場となっていた東中野の家を高群は家出し四国へと向かう。しかし、この家出は中途半端に終わり橋本のもとに条件つきとはいえ戻ることになる。この時、新たな家を探して準備したのが小山勝清であった。小山と橋本、高群は三人がまだ熊本に住んでいた頃からの知己であった。平凡社の社員となっていた橋本憲三のために、関東大震災後に会社に通いやすい借家を探したのも小山である。この時は上落合に新築の家を借りている。この『火の国の女の日記』には竹中についての記述は一度も登場しないが、それは関わりの深さや当時の年齢差(小山・橋本・高群は竹中よりも10歳以上も上の世代)などによるものであると考える。実際には、お互いに極めて近所に住んでおり、小山という共通の知人の存在、熊本との縁ということもあり確実に交流はあったものと考えてよいと思う。いくつかの竹中英太郎に関するエッセーや研究論文にあるような「いわゆる熊本人村」には疑問符があるものの、1925年から26年にかけての約1年間という短い期間ではあるが熊本に縁をもつ小山、橋本、高群、竹中、美濃部がご近所さんであったのは事実であると判断できた。
 私は小山勝清の長女の名前は「ナヲエ」だと聞いていたので、高群がなぜ「美いちゃん」と書くのだろう、と思った。しかし、長女の「ナヲエ」はもともと「みどり」と名づけられる予定であったが、手違いによって勝清の母の名前である「ナヲエ」が戸籍に登録されたのだったことを知った。そして、親しい者の間ではよく「みいちゃん」と呼ばれていたとの事がわかった。改めて実際の地図、現地を歩きながら高群の文章を読むと、地理感覚に矛盾がない。従い、この日記の記述は信憑性が高いと思う。橋本・高群の家はその南側が植木畑である二軒長屋であるので、地図上ではみるかぎり、道に面した二軒のどちらかが橋本・高群夫妻の自宅であろうと考えられる。ここから古屋芳雄邸は歩いてすぐ。植木畑を抜けていった先という点でも矛盾はない。
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      現在の古屋芳雄邸 

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      現在の下落合2194番地

1926年の地図にある古屋芳雄邸は今も同じ場所にそのままに建っている。古屋芳雄のことを高群は「古屋さんという学者」とさりげなく書いているが、改めて調べてみると古屋はただの学者ではない。画家・岸田劉生には1916(大正5)年に描いた『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』という有名な絵がある。このモデルがほかならぬ古屋芳雄である。描かれた当時は東京帝国大学医学部を出たばかりの頃のこと。一方、古屋は白樺派の小説家、劇作家でもあった。1919(大正8)年12月には岩波書店から『暗夜』という著作を刊行、倉田百三に捧げている。またベルハーレンの『レンブラント』の翻訳をし、雑誌『白樺』に連載、1921年に岩波書店から出版している。この多彩な人物はなんと北海道にも縁がある。1932(昭和7)年日本学術振興会が設立され、そこにいくつかの小部会が設置されたが、その一つが「アイヌの医学的・民族生物学的調査研究」をテーマにしたものだった。座長は東大の生理学者・永井潜。その他のほとんどの参加学者が北海道大学在籍であったが、民族生物学部には金大教授の古屋芳雄が名を連ねていた。そして1935(昭和10)年に北海道において行なわれたアイヌの墓の調査では民族衛生学の研究者として発掘にも参加したのだった。道南の長万部から森にかけての地域にあるアイヌの墓の調査発掘を行なった調査隊の一員としてであった。実は古屋芳雄について知りたくてインターネットで検索した時にヒットしたページに北海道大学の図書館があり、数多くの著作を所蔵しているのに驚いた。その理由は、こうしたフィールドワークを共同で行なったことがあるからなのかもしれない。
 話を橋本・高群夫妻に戻そう。古屋芳雄邸のところで夫の帰りを待っていた高群逸枝。前述のように橋本憲三はこの時、平凡社の社員として働いていた。平凡社の創業者である下中彌三郎も震災前の時期、下落合にあった第二府営住宅に居を構えていたことがある。しかし、大震災により住居を関西に移転、帰京の際には雑司ヶ谷に住み、下落合には戻らなかった。平凡社は橋本が献策し実現させた『大西郷全集』により生気を得たが、まだ小さな出版社にすぎず、起業にあたり理想とした社にするため多数の読者を獲得できるような「売れる」企画が必要な時期であった。また世の中は経済構造の大きな転換点を迎えており、改造社の円本全集の刊行によって出版界も変化しようとしていた時期にあたる。第一次世界大戦後の好景気が一気に後退しデフレ局面にあった。平凡社は橋本を中心に『現代大衆文学全集』という新たな円本全集を企画、起死回生を計る。橋本は下中から企画の一切をまかされ、この企画を作家である白井喬二に相談、ともに進めることとなる。結果として『現代大衆文学全集』は多くの予約を獲得することに成功、まさに平凡社のその後の飛躍の土台となったのであるが、平凡社への出資者は当初この企画に反対、取締役会で否決をした。下中の黙認のもとで橋本がついに新聞広告を出した時には、「これで破産だ」と上野駅で泣いたというエピソードがあるくらいだから冒険ではあったのだろう。白井喬二は、この全集に収録する作家を自ら選択、多くの作家への依頼でも橋本を援助した。下中不在の白井、橋本二人の会談において、白井は全集に挿絵をいれることを提案、橋本は下中に相談せずに独断でこれを了承してしまった。1926年から27年にかけての時期のことである。橋本と竹中はさすがにこの時期には知り合っていたであろう、竹中もこの『現代大衆文学全集』のいくつかの巻の挿絵を担当している。私の手元には25巻の『伊原青々園集』と35巻の『新進作家集』の二冊、竹中の描いた挿絵が掲載されたものがあるが、このほかにも推理作家、小酒井不木の巻にも挿絵を描いている。この『現代大衆文学全集』への挿絵の提供は企画を担当した橋本憲三との関わりが大きかったのだろうと思う。『現代大衆文学全集』の刊行は1927(昭和2)年に始まっているが、雑誌『クラク』へ掲載された挿絵と実際にはどちらが先に描かれたのだろうか。竹中の雑誌『クラク』への登場は1927(昭和2)年11月号からである。『現代大衆文学全集』の装丁は山六郎が担当している。山六郎はプラトン社が発行していた当時の高級文芸雑誌『女性』のイラストレーター兼デザイナーである。また岩田専太郎、小田富彌、山名文夫などとともに大衆文学雑誌『苦楽(のちの『クラク』)』の挿絵も担当していた。竹中がデビューした当時の『クラク』編集長であった西口紫溟(この人も熊本県の出身)の『五月廿五日の紋白蝶』(1967年 博多余情社)によれば佐賀出身の一刀研二と二人してプラトン社を竹中は訪ねたようである。もちろん自分の挿絵見本を持参してである。西口は竹中の挿絵の判断を山名文夫に委ねた。山名は竹中のセンスを評価、岩田専太郎や小田富彌といった挿絵界のスターでもあり、プラトン社の専属でもあった画家たちが去った後任として抜擢されたのであった。そして、プラトン社は竹中を専属挿絵画家として迎える決心をする。しかし、1928(昭和3)年5月、メインバンクの倒産に伴い資金繰りに窮したプラトン社は雑誌に使う紙を差し押さえられて倒産。竹中は収入面での大きな支えを失う。月給100円という莫大な金額の専属画家料の契約を控え、喜んで故郷に帰り、母や家族を東京に呼び寄せる約束をした竹中は途方にくれたであろう。このとき、定職を失った竹中を救ったのは、橋本憲三であった。橋本は出版社への紹介を白井喬二に依頼、白井は『新青年』編集長であった横溝正史あての紹介状を書き、竹中に渡したのであった。竹中は白井の紹介状があったために横溝正史と会えた。初めての出会いなのに、横溝は竹中の挿絵で江戸川乱歩の「陰獣」を飾ることを企画、これが大きな評判になったのである。こうした経緯をみても下落合での小山、橋本、高群との近所付合いがその後の竹中にあたえた影響は決して小さなものでなかったと思うのである。幻想とか怪奇とかいわれる竹中の絵であるが、全ての絵が幻想的、怪奇的ではない。結果として『新青年』で江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史の幻想怪奇的小説に対する挿絵を描いたために獲得した画風だったのだろうと思っているが、その幻想怪奇な世界が今もって魅力的なのであるのも事実である。

<竹中英太郎の挿絵>
竹中英太郎挿絵 伊原.jpg
『現代大衆文学全集』「伊原青々園集

竹中英太郎挿絵・城昌幸「怪奇の創造」平凡社大衆文学全集昭和3年12月1日.jpg
『現代大衆文学全集』「新進作家集」 
          
<参考文献>
『夢を吐く絵師 竹中英太郎』 鈴木義明 2006年 弦書房
『五月廿五日の紋白蝶』 西口紫溟 1967年 博多余情社
『われ山に帰る』 高田宏 1990年 岩波書店
『火の国の女の日記』 高群逸枝 1965年 理論社
『熊本シネマ巷談』 藤川治水 1978年 青潮社
『さらば富士に立つ影-白井喬二自伝』 1983年 六興出版
『或村の近世史』 小山勝清 1925年 聚英閣
『下中彌三郎事典』 1965年 平凡社

<参考論文>
竹中労「百怪わが腸に入らん-竹中英太郎小論」(「芸術生活」73年8月号)
藤川治水「怪奇絵のなかの青春 竹中英太郎推論」(「思想の科学」74年5月号)
尾崎秀樹「現代挿絵考9 竹中英太郎」(「季刊みづゑ」89年3月号)
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