村山籌子 ブログトップ
- | 次の10件

高い大空を見上げるとき―小林多喜二と村山籌子(3) [村山籌子]

3.立野信之と多喜二

 『戦旗』の編集委員であった立野信之の『青春物語・その時代と人間像』(昭和37年 河出書房新社)には小林多喜二の小説「一九二八・三・一五」の『戦旗』掲載にいたる経緯が綴られている。

ある日、蔵原惟人が国際文化研究所のわたしの部屋にやってきて、風呂敷包みの中からキチンととじた分厚い原稿を取り出しながらいった。「北海道の小林多喜二という人から送ってきた原稿だが、『戦旗』へのせられるかどうか、読んでみてくれないか」 「ああ、小林多喜二か」 わたしは、その名前に記憶があった。というのはわたしが年にして―十八歳頃―「文章倶楽部」や「文章世界」などに投稿していた頃には、小林多喜二もまた北海道からコマ絵や短文や小説を投稿していたことがある。お互いに入選したことはあまりなかったが、時折り佳作などに入ったりして、しじゅう名前がチラチラしていたので、何となく記憶に残っていたのである。もっとも、小林は、その後山田清三郎の編集していた「新興文学」にも短編小説を投稿して、掲載されたりしたので、一そう記憶に残っていたのでもあった。

蔵原から渡された小林多喜二の原稿は、例の有名な「一九二八・三・一五」―小樽市における三・一五事件の弾圧の模様を克明に描いたもので、事件そのものが真新しかっただけに感銘も生々しく、作者の息づかいがそのまま聞こえるようなはげしい作品であった。しかし肩をそびやかして無理やり背のびをしたような所があり、言葉づかいや表現にもナマな誇張が目立った。筆づかいも荒削りであった。

とはいいながら、この作品のことを、立野は十分に『戦旗』に発表できるものだと思い、そう推薦した。立野があきらかにまずいと思う箇所を伏字に直した上で、ついに小林多喜二の代表作「一九二八・三・一五」は『戦旗』の1928(昭和3)年11月号、12月号に掲載されたのであった。もともと多喜二は28年3月のナップ成立を迎えて、同年5月にナップ小樽支部を組織して、機関誌『戦旗』の配布を受け持った経歴をもつ。そして、上京して蔵原惟人に会って、大いに啓発された経緯をもっていた。従い、「一九二八・三・一五」を8月に完成させると、すぐに蔵原に送ったのだった。それほどに多喜二は蔵原に傾倒していたのだろう。多喜二が上京した1930(昭和5)年には多喜二を含めた作家同盟の作家たちの一斉検挙が行われたが、蔵原はソヴィエトに行っていて無事だった。

 再び立野信之の『青春物語』の記述に戻ろう。立野は上落合で蔵原と、南阿佐ヶ谷では多喜二と短い期間ではあるが同居していたことがある。日本におけるプロレタリア文化史において最重要な二人、蔵原と小林多喜二とを結ぶ接点に立野はおり、その意味でも重要な証人の一人である。それは、村山籌子においても同様であるが、地下活動に潜ったのちの二人の連絡係を担当した点からも、おそらくは立野以上に二人の行動を知るチャンスもあっただろうが、戦後すぐに亡くなったためなのか、それとも語れない事実があったためか、この時代を証言する著作がないのは全く残念である。以下は立野の記述である。

その頃わたしの家には村山知義の細君で、すぐれた詩人であり童話作家であった村山籌子が、しじゅう遊びに来ていた。彼女との付き合いは、わたしたちが蔵原惟人と上落合に住んでいた頃であったが、特にわたしの家にシゲシゲと来るようになったのは、わたしが小林と一緒に、検挙されたことを知って、すぐさまわたしの留守宅に駆けつけてくれた時からである。

小林多喜二と村山籌子とは、その救援活動の差入れや、激励慰問の手紙の往復などで親しくはなっていたが、まだ友達というほどの間柄ではなかった。わたしの家で顔をあわせることがあっても、二人だけではあまり話題がなかった。

さて、村山籌子が、ある日ブラリとやってきて―いつも彼女はブラリとやってきた―わたしに、蔵原惟人がひそかにソヴェトから帰っている旨を打ち明け、「・・・・会いたがっているわよ」といつもの主格を抜いたいい方でいった。

立野信之「わが青春」の目次.jpg
立野信之『青春物語』の目次

プロレタリア文学史 上巻.jpg
山田清三郎『プロレタリア文学史』上巻
nice!(24)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

高い大空を見上げるとき―小林多喜二と村山籌子(2) [村山籌子]

2.幼い村山亜土の見た多喜二

 村山知義と籌子との間に生まれた村山亜土の『母と歩く時』(2001年JULA出版局)は「小林多喜二」というタイトルの文章で始まる。ちなみに亜土は1925年の生まれである。

村山亜土「母と歩くとき」.jpg
村山亜土『母と歩く時』の表紙

多喜二は、子供の私にとってもまことに忘れがたい人であった。痩せて小柄、色白で頬が赤く、むしろ女性的な感じであったが、夏の日、我が家での作家同盟の会議に、彼は浴衣にカンカン帽という姿で、肩を振り振り、下駄音高くあらわれた。そして、私を見つけると、「ケケケ」と笑い声をたてながらすばやくつかまえて、アグラの中に抱き込んで、誰よりも盛んに発言し、時々「異議なし!」などと叫んだりした。頭の上のあのキンキンと甲高い声は、私の耳になまなましく残っているし、突き出した喉仏のコリコリと動く、くすぐったいような感触を、私の後頭部がはっきりおぼえている。その幼い思い出は、なつかしく、誇らしく、痛く、悲しく、今も私の胸をしめつける。

1930(昭和5)年3月末に小樽から上京した多喜二は他人の何倍ものスピードで仕事をこなしてゆく。小説の執筆、出版、ナップの仕事、『戦旗』巡回講演、あげくには大阪での検挙と落ち着く暇などなかっただろう。故郷を思う手紙は、刑務所にいた6月末から釈放される31(昭和6)年1月22日までの間、刑務所にいたからこそ落ち着いて考える時間がもて、手紙を書く余裕ができたのだと思うと少し悲しい。そして、この保釈出獄から共産党員として地下活動に移った32(昭和7)年4月上旬頃までの間、上落合の村山知義の自宅に何度も訪れ、アグラに小さな亜土を抱きこんだのだろう。村山知義の『演劇的自叙伝2』(昭和46年 東邦出版社)には上落合の家に関しての述懐がある。

この家(上落合の「千円で建つ家」)には十七年後の1937年まで私たち家族が住んでいた。ここではマヴォの運動が起こり、プロレタリア演劇運動が経過し、人形劇団プークも、その初期にはここに根をおいていた。この小さな家の食堂の作りつけの机で、妻の籌子の童話の大部分は書かれた。また、この狭い客間の窮屈な椅子に、小林多喜二も蔵原惟人も山田清三郎も杉本良吉も柳瀬正夢もその他多ぜいのプロレタリア文学運動の闘士たちがひっきりなしに訪れて、愉快に話し合い、時のたつのも忘れたものだった。

村山知義「演劇的自叙伝3」東邦出版社昭和49年.jpg
村山知義『演劇的自叙伝3』昭和49年東邦出版社の前扉

この時期、上落合には村山知義の三角アトリエの家のそばには、佐々木孝丸が住み、ナップの本部がおかれ、中野重治や壺井繁治が住んでいた。少し中井よりには国際文化研究所があり、立野信之がいた。そして戦旗社があり、山田清三郎がいたりした。つまり、当時の上落合はプロレタリア文学運動の中心であったのである。

佐々木孝丸「風雪新劇志」.jpg
佐々木孝丸の『風雪新劇志』の表紙
nice!(32)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

高い大空を見上げるとき―小林多喜二と村山籌子(1) [村山籌子]

1.多喜二の故郷・小樽

 ちょうど30年前、当時18歳であった私は歌人の福島泰樹やそれを迎えた北海道の若手の歌人たちと一緒に小樽に行ったことがある。大学で登山のサークルに属していた当時の私は、岩登りのゲレンデである赤岩にはすでに訪れていたが、小樽という街自体を目的に訪問した初めての機会だった。寒風の中、伊藤整の詩碑の前に立ったことを鮮明に記憶している。私の記憶違いでなければ、この時に小樽名物として初めて「ぱんじゅう」を食べたのだと思う。「ぱんじゅう」は大正時代に東京・神田から全国に拡大した食物。それが生きた化石のように小樽には残っていたのである。30年前の小樽は大正12年に完成した運河を埋め立ててしまうかどうかについて議論している最中であり、運河周辺は全く観光化されておらず、静かなものだった。運河のそばには小林多喜二の小説『工場細胞』のモデルになった北海製罐工場の第三倉庫が灰色の壁をみせ、一方『不在地主』の地主のモデルが所有していたレンガ倉庫はビショップ山田の「北方舞踏派」の拠点になっていた。私たちは戦前のミルクホールの内装の面影を残す「ロール」という(「健全晩酌の店」と看板にあった)店に入って冷えた体を酒で温めたのであったが、小樽はいたるところに大正から昭和初期にかけての空気感があり、不思議な街だと思った。そのときには訪問しなかったのであるが、山側、小樽商大方向の高台の上、旭展望台には小林多喜二の文学碑がある。この文学碑のデザインは彫刻家の本郷新。見開きの本を象って制作したもの。私の手元には新興出版社が1946(昭和21)年5月に出版した『1928.3.15 黨生活者』があるが、この本の装丁は本郷新である。デザインがとても気にいり、特に本郷の装画が好きで手に入れた一冊である。

小林多喜二「党生活者」.jpg
本郷新装丁・装画による『1928.3.15 黨生活者』(新興出版社)

 文学碑には小林多喜二の手紙の一節が刻まれている。それは多喜二が1930(昭和5)年11月11日に収監されていた豊多摩刑務所から、さまざまなかたちで支援していた村山籌子にあてた手紙の中に綴られたものである。

冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて、深い感動に捉えられている。そこには、運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは、人は重ッ苦しい空の下を、どれも背をまげて歩いている。ぼくは何処を歩いていようが、どの人をも知っている。赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を、ぼくはどんなに愛しているか分からない。

この詩文のような故郷・小樽を思って書かれた文章は、しかし、通常の詩を書くように書かれたわけではない。刑務所の中から投函された手紙なので、紙にびっしりと書き込まれている。この文章の前には東京の秋についての多喜二の思いが綴られているが、こちらも素晴らしいので以下に紹介したい。
     
東京の秋は何処まで深くなるのですか。ぼくは二十四ヵ年北の国を離れたことがない。それで、この長い、何処までも続く、高く澄んだ東京の秋を、まるで分らない驚異をもって眺めている。今日は実によく飛行機がとぶ。ぼくが残してきた北の国では、一台の飛行機が飛んで来ようものなら、何処の家からも、大人も子供もみんな飛び出して、高い大空を見上げる。

この文章に続いて「冬が近くなると・・・・」となるのだ。実に美しい望郷の文章だと思った。だが、村山籌子はそうとばかりは思わなかったのか、多喜二の30(昭和5)年12月26日付の戦旗社あての書簡には「村山籌子さんに従えば、ぼくが何時でも北の国のことばかり考えているから、古ぼけた小説しか書けないそうだが、これも亦恐ろしく本当のことだ。」と述懐している。村山籌子にあてた何通かの手紙には、北の国・小樽の思い出が何度も繰り返し綴られている。籌子はちょっとウンザリしたのかもしれない。そして、国家と闘っているのだからしっかりしなさいよ、と思ったのかもしれない。この30年の一斉検挙では籌子の夫である村山知義も中野重治や立野信之、壺井繁治などが検挙され未決囚のまま収監され続けた。これら刑務所にいた「ナップ」(全日本無産者藝術聯盟)のメンバーたちを村山籌子や壺井栄や原泉は、差し入れや手紙、面会などを通じて支援したのである。

「戦旗」1930年4月号.jpg
『戦旗』1930年4月号の表紙 柳瀬正夢による
nice!(22)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

雑誌『女人藝術』をめぐって―村山籌子と小林多喜二を中心に(5) [村山籌子]

7.函館生まれの松本惠子

 次に松本惠子であるが、父親の伊藤一隆は札幌農学校の第一期生にして初代の北海道庁水産課長。インディアン水車の日本への紹介者である。一期生なので直接クラーク博士の教えを受けた数少ない学生でもある。惠子は伊藤一隆の次女として函館で生まれた。青山女学院在学中にイギリスに遊学、在英中に慶応出身の松本泰と結婚した。松本泰はイギリスに渡る前から『三田文学』に作品を書いていた作家である。帰国後は精力的に探偵小説を書いている。夫妻は東中野駅と中野駅の中間あたりにあたる谷戸に10軒以上の借家を建て、それらは谷戸文化村と呼ばれた。住人には「谷譲次・林不忘・牧逸馬」の一人三役作家の長谷川海太郎、ペンネーム地味井平造で推理小説を書いた画家の長谷川潾二郎、評論家の小林秀雄、漫画家の田河水泡らがいた。田河水泡は本名を高見沢仲太郎といい、村山知義の「マヴォ」には高見沢路直として参加している。また、マヴォ・メンバーの柳瀬正夢の紹介によって一時、『女人藝術』の参加作家の一人、平林たい子と同棲したこともあった。田河水泡の妻は小林秀雄の妹、潤子であり、仲人は松本泰・惠子夫妻である。松本惠子は、大家であると同時に、田河水泡夫妻や長谷川海太郎夫妻の仲人でもあり、日本での最初期の女性探偵小説作家であり、アガサ・クリスティーの日本への紹介者であった。とても重要な位置を占める作家なのである。

松本恵子.jpg
『女人藝術』に掲載された松本惠子のポートレイト

 『女人藝術』でも創刊二號となる1928(昭和3)年八月號にマジヨリイ・ライネルの「窮鳥」の翻譯を掲載している。そして1929(昭和4)年三月號には「黒い靴」という創作を書いている。舞台はロンドン。黒い靴をはいているのは・・・・実は「レナ」という犬である。六月號では「密輸入者と「毒鳥」」というエッセーを書いている。シベリア鉄道での旅の際の出来事をつづっていて面白い。八月號ではシルバア・ソオンドラリイ作の翻訳「浴用香水」を、十月號では「無生物がものを云ふ時」という探偵小説を掲載しており、実に多彩な活躍ぶりである。1930(昭和5)年新春號は翻譯特集で、オルツイ夫人の「公園の殺人」を、1931(昭和6)年九月號にはウヰリアム・フランシス作の「風」の翻譯を掲載している。尾崎翠とともに上落合に住んでいた松下文子は詩を『女人藝術』に書いているが、彼女は旭川の出身だから戸田豊子、松本惠子とあわせて北海道出身の女性作家が活躍した雑誌でもあったとの評価も可能だろう。『女人藝術』からは多くの女性作家が育った。その意味では長谷川時雨の思いは達せられたのかもしれない。しかし、後半の『女人藝術』は時雨の当初の思いを反映していたのだろうか。私にはそうとは思えない。ただ、最後まで時雨は『女人藝術』を放棄しなかった。1932(昭和7)年四月號の編集後記に「くたびれて気分すぐれず」と時雨は書いている。発行所は前年暮に赤坂区檜町三番地に移転していた。『女人藝術』は、時雨の体調と何より雑誌の左傾化による発禁処分、それに伴う資金難により六月號をもって廃刊となった。だが、もはや自由にものが言える状況ではなくなったというのが真相であったろう。小林多喜二が虐殺される8ヶ月あまり前のことであった。

女人芸術昭和4年11月号前扉.jpg
『女人藝術』昭和4年11月号前扉  

「女人藝術」2-10号 昭和4年10月號 村山かず子写真.jpg
『女人藝術』に掲載された村山籌子の写真
nice!(24)  コメント(8)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

雑誌『女人藝術』をめぐって―村山籌子と小林多喜二を中心に(4) [村山籌子]

5.『女人藝術』における村山籌子

 『女人藝術』には村山籌子の足跡もある。その最初は1929(昭和4)年三月號のこと。「私を罵った夫に與ふる詩」という詩一編である。

  「1/私の夫よ、/あなたは私を豚と罵った、/私は豚です、全く豚です、/アルカリ性の声を持った/あの人の頬に接吻するまでは/2/ああ私は、/私を拒むあの人の鼻から吹き出す/しめった温室の空気の/又、もつれたブロンドの息を吸いたい!/それはくさった花束の中にのこった/花の匂ひです。/3/私を浄めるものは/少しばかりくさった聖なるものばかり/4/豚よ、豚よ、/みんなはお前を憐むだろう、/たとへお前が/清浄に洗はれた/コンクリートの上に住んでゐても/豚は豚らしさが故に軽蔑されるであろう。/5/つまりは/愛人の息を吸ふにある。/その中に私は見る、/悲しさを/美しさを、/又楽しき夢を。/6/私の夫よ、/あなたのたった一言の侮蔑は/私をかく轉生させる。/7/永遠の愛人よ、/子供らしき私よ/私の夫よ/萬歳!!」

「私を浄めるものは、少しばかりくさった聖なるものばかり」とは。かなり複雑な構造をもった詩である。村山籌子というと、独特の童話が思い浮かぶが、なかなか優れた詩人であることが感じられる一編である。続いて、創刊一周年の記念号である七月號では「部屋の中の散歩」という随筆を書いている。前述の尾崎翠と同様に、村山籌子も「匂ひ」について鋭い感性をもって書いている。この時代の女性に共通の感性だったのだろうか。

  「さっき夫は外出した。/私はその時、新しく敷いた青くさい匂ひのする畳の上を、赤いスリッパをはいたまゝ理由もなくぶらぶら歩きまわつてゐた。」

  「青い葉はこんなに濃く、そして重り合って熟した匂ひをこぼしてゐる。つゝじの葉はかさかさした肌に赤い生ぶ毛をはやしてゐる。其匂ひは遠くへは廣がらないおもちやのパラシユートに似てゐる。それから、雑草の匂ひはアメイバの様に單純で、かげば頭痛がする。それはもはや匂ひではなくて鼻の粘膜を刺激する綿毛みたいなものだ。」

  「コップをかいだら、それはフキンの匂ひがしみてゐた。何度も水をかけて、その不快な匂ひを消して、一杯の水にフルーツ・ソルトを入れて、鼻の中に飛び込んで来る小さい白い泡を避け乍ら飲み干した。」

この文章を読みながら、私は少し不安な気持ちになった。翠も籌子もみずみずしい感性をもっているのだけれど、臭覚を文学に取り込むような才能には、ある種のパラノイア気質のようなものを感じてしまった。考えすぎだろうか。十月號では「健康な女の子」という創作を書いている。ちなみに、この号では創作の特集が組まれており、窪川いね子、葵イツ子、眞杉静枝、村田千代、大田洋子、長谷川かな女、山川朱實、大谷藤子、戸田豊子、中本たか子、松本惠子、水嶋あやめ、長谷川時雨が小説を掲載している。評論欄には上田文子と八木秋子が文章を寄せている。

「女人藝術」2-10号 昭和4年10月號 村山かず子写真.jpg
 『女人藝術』昭和4年10月號掲載の村山籌子のポートレイト

「女人藝術」2-10号 昭和4年10月號 真杉静枝写真.jpg
 『女人藝術』昭和4年10月號掲載の眞杉静枝のポートレイト

nice!(25)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

雑誌『女人藝術』をめぐって―村山籌子と小林多喜二を中心に(3) [村山籌子]

3.多喜二の機械美学への共感

 小林多喜二から板垣鷹穂への手紙は冒頭にあげた一通だけだったのかもしれないが、雑誌『戦旗』の初期の発行所から板垣鷹穂の家までは歩いて5分くらいだし、上落合といっても東中野駅に近い方だから、村山知義の三角のアトリエや佐々木孝丸の自宅で開催されたナップ(全日本無産者藝術連盟)の会合の前後に立ち寄っていたのではなかったろうか。多喜二の葬儀に参加した数少ない参列者の名簿の中には板垣夫妻の名前がある。
 一方、多喜二は、その評論「「機械の階級性」について」(1930.1.23『新機械派』)において「私たちは「プロレタリア・レアリズム」の1つの条件として、「機械と芸術の交流」を私たちの「形式」への1つの努力として、考察しなければならないところへ来た。」と述べている。1929(昭和4)年に岩波書店から出版された『機械と芸術との交流』は板垣鷹穂の展開した機械美学を最も的確にとらえた一冊であるが、多喜二はあきらかに板垣のこの本を手にしている。機械美学へのちょっぴりの批判とその何倍もの共感を感じていたのだろう。意外な組合せで二人の感性が共鳴しあっていたのであった。

機械と藝術との交流2.jpg
板垣鷹穂『機械と藝術との交流』

4.『女人藝術』での多喜二の足跡

 意外にも『女人藝術』には小林多喜二の足跡がある。1932(昭和7)年一月號に掲載された「故郷の顔」というエッセーである。『女人藝術』は当初は女流文学者を結集したユニークな雑誌であった。しかし時代なのだろうか、次第に左傾化し、後半時期になるとナップの機関誌『戦旗』のデザインを彷彿とさせるようになる。初期のグラフページには女流作家たちのポートレートが掲載されたが、後期にはソ連の様子を記録した写真が掲載されたり、ピオニールの活動の様子などがレポートされていたりする。付録には「女人大衆」という冊子がつけられた。『女人藝術』は「女人大衆」としてナップに吸収されるべきだとの論文が掲載されるなど後期には先鋭化していった。中條百合子や中本たか子が執筆した時期にあたる。そうなると、必ずしも女性作家である必要はなく、小林多喜二も執筆したようだ。1930(昭和5)年の豊多摩刑務所収監時に書かれた手紙には小樽への思いが綴られることが多かった。だが今回は生まれ故郷の秋田と育った小樽との「故郷」のダブルキャストである。そして小説「1928.3.15」に関する背景のことを伏字いっぱいで綴っている。「故郷の紹介を書けといふのに對して、少し見當外れのことを書いたと云ふ人がゐるかも知れないが、私はかういう形で故郷を書いたことが最も小樽の顔を描いた事になるのではないかと思ふ。今ではこの街も「女人藝術」を讀んでゐるからと云つて、―――――神經質になり出してゐる・・・。」これを書いた数ヶ月後には多喜二は地下に潜ることになる。

女人芸術昭和3年9月号前扉.jpg
『女人藝術』昭和3年9月号の前扉

女人芸術昭和6年10月号.jpg
『女人藝術』昭和6年10月号のページ


nice!(26)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

雑誌『女人藝術』をめぐって―村山籌子と小林多喜二を中心に(2) [村山籌子]

2.板垣直子の『女人藝術』への登場と尾崎翠

 小林多喜二の手紙の中にあった板垣直子の小林多喜二論は1930(昭和5)年2月に執筆され、『女人藝術』第三巻四月號に掲載されている。そのタイトルは「小林多喜二氏の作品」である。板垣直子の『女人藝術』への登場作である。その一部を以下に引用する。

  「現今のプロレタリア文学も文学である限り、藝術的価値を問題にしないわけにはゆかない。こゝに小林氏の作品が問題にされるのも、氏の作品が藝術的価値の上で優れてゐるからである。現在のプロレタリア作家の中で、イデオロギーの確乎としてゐる事と、描寫の形式の優れてゐる點との故に、氏の作品は広く注目を受けてゐる。」

とべたぼめである。もちろん、厳しい批評精神を有する板垣直子は多喜二の全ての作品をほめちぎっているわけではなく、個々の作品については、それぞれに批評し、注文をつけてもいる。ただ、イデオロギー一辺倒ではない、文学作品としての質をきちんと評価しているのが印象的だ。特に『一九二八年三月一五日』には高い評価を与えている。

  「「一九二八年三月一五日」は、一人の作家の処女作と考へられぬ様な、落付いた、筆力に圓熟さを示す作品である。作者の意圖するとしないとに拘らず、形式は「ノイエ・ザハリヒカイト」を持ってゐる。」

この評論の掲載された『女人藝術』は1930(昭和5)年四月號であるから、ちょうど多喜二が上京したばかりの時期の発行号にあたり、多喜二にとっても印象深かったのかもしれない。

 この板垣直子の評論の直前のページには尾崎翠の「映画漫想」が掲載されている。そして、この尾崎による映画に関するエッセーは九月號まで6回にわたる連載となっている。小説のモチーフに臭覚=匂いをとりあげた稀有な感性をもった作家である尾崎翠が『女人藝術』に登場したのは、1928(昭和3)年十一月號のこと。「匂ひ」というタイトルの小品作品である。

  「これは匂ひで、林檎そのものではありません。匂ひは林檎が舌を縛るほど鼻を縛りません。だから私の舌の上の林檎より、鼻孔のあたりを散歩してゐる林檎の方が好きです、  ゲエテ閣下。」

何という斬新さだろう。今読んでも鮮しい。尾崎翠は板垣鷹穂、直子夫妻の家から歩いて10分もかからない上落合850番地、842番地に住んでいた。よく板垣家を訪れていたようである。また、林芙美子が1930(昭和5)年に上落合に越してくるが、大好きな尾崎翠の紹介があったからのようだ。また尾崎翠の代表作「第七官界彷徨」の全編版は板垣鷹穂が編集主幹であった雑誌『新興藝術研究』第2号に掲載されたものだった。ちなみに、この第2号には小林多喜二も「壁小説と「短い」短編小説」という評論を書いている。

新興芸術研究2.jpg
「第七官界彷徨」全編が掲載された『振興藝術研究』2号。体裁がユニーク。まるで単行本のような厚さ。昭和6年6月発行。

「女人藝術」創刊号 番付.jpg
『女人藝術』創刊号に掲載の番付

「女人藝術」創刊号昭和3年7月號作家番付.jpg
新興文壇番付

雑誌『女人藝術』をめぐって―村山籌子と小林多喜二を中心に(1) [村山籌子]

1.板垣鷹穂あての小林多喜二の手紙から

 「こんな処から、始めてお便りを差上げます。二、三日前、此処の独房で、あなたの「美術史の根本問題」を、大変面白くよみ、急に、何かを書きたくなったのです。」で始まるこの一節は、1930(昭和5)年12月、豊多摩刑務所から小林多喜二が美術評論家の板垣鷹穂に送った書簡の冒頭部分である。この時分の板垣の著書には住所の記載(上落合559番地)があったので、そこにあてて手紙を書くことができたのだろうと思う。そして、「何時かの『女人芸術』に、ぼくの作品について、非常に細々と批評をされた板垣直子さんというのは、あなたの奥さんなのですか。ぼくは、たしか誰かゝら、そのようにきゝました。岩波から出ている『レオナルド』の訳者と同じ方だと思いますが。あの時そう思ったのですが、今のところぼくの最後の作品になっている『工場細胞』が出てからの批評であったら、もう少し板垣直子さんも喜んで筆をとられたろうにと考えました。」と綴っている。『女人藝術』、それは私にとって、ずっと気になっていた雑誌であった。発行人である長谷川時雨が夫の三上於菟吉とともに、友人である直木三十五を大阪に訪ねた時、その場所は雑誌『苦楽』『女性』を発行していたプラトン社の編集部であったこと、そして時雨に「いつまでも年齢を名前にして、一年ごとにペンネームを変えてゆくのは辞めなさい」と忠告されたので、直木の名前は三十五に固定されたという逸話を何かの本で読んだからであった。三上と直木は同じ早稲田中退で、一緒に出版社を経営したこともある間柄である。三上といえば『雪之丞変化』で有名な当時の流行作家。三上からの金銭的な支援によって時雨が創刊したのが『女人藝術』であり、1928(昭和3)年7月1日の創刊である。この年の5月には出版社であるプラトン社が倒産、雑誌『女性』が廃刊となったばかりの時期にあたる。時雨は若手の女性編集者を起用し、牛込区左内町31番地に女人藝術社をおき発行所とした。発行者は長谷川時雨、編集者は素川絹子、印刷者は生田花世という布陣。創刊号では山川菊榮、神近市子、望月百合子、岡田八千代、生田花世、岡本かの子、柳原燁子、今井邦子、深尾須磨子、ささきふさ、平林たい子、眞杉静枝、長谷川時雨など世代としても傾向としても広範囲にわたる女流文学者を結集したきわめてユニークな雑誌である。同じ年の十月號では林芙美子の『放浪記』の連載が始まっている。この時期の女性の意識の変化を考えるとタイムリーな企画であったといえるだろう。

女人芸術初期座談会.jpg
『女人藝術』初期の座談会

芸術的現代の諸相表紙.jpg
板垣鷹穂著『藝術的現代の諸相』の表紙

山六郎装丁『首都』三上於菟吉著プラトン社昭和3年4月5日発行表紙.jpg
プラトン社から刊行された三上於菟吉の『首都』

『苦楽』大正14年12月号 山名文夫による表紙「薔薇」.jpg
プラトン社発行の雑誌『苦楽』

『女性』大正14年1月号 山六郎による表紙.jpg
雑誌『女性』
nice!(24)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:
- | 次の10件 村山籌子 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。