たいせつな風景・S市点描「十年後を待ちながら」(2) [小説]

 SUSUKINOの交差点でタクシーを降りると、指定された雑居ビルにあるジャズバーに急いだ。ドアをあけると二人は同時にこちらをみてめいっぱい手を振った。口々になにか叫んでいるようだったが聞き取れなかった。そんな二人のもとに行くのは少し恥ずかしかった。店内にはマイルス・デイヴィスのスケッチ・オブ・スペインが響いていた。会釈をして二人の坐るカウンターにゆくと那美さんはひとつ席をずらし僕を真中にはさんだ。

「待っていたのよ。全速力で走ってきてくれたかしら・・ねえ」
「那美さんの呼び出しですから全力で・・タクシーに乗ってきました。」
「馬鹿ねえ、歩いてきてもよかったのに。お金つかわせちゃったわねえ。」
「大丈夫。家庭教師のバイト代が入りましたから・・・」

そんな冗談を言いあいながらも那美さんは上機嫌だった。僕が全力で駆け付けたのがうれしかったようだ。僕を直接呼び出した張本人であるKohseiさんはかなり酔っていて、目がすこしうつろだった。僕の肩を軽くたたきながら「よく来た、よく来たなあ・・」と繰り返した。聞けば二人は夕方からこのジャズバーに入り、バーボンを飲み、文学について議論し、バーボンを飲み、ジャズについてありったけの知識を披露し、酩酊したKohseiさんはバーボンを吐きながら、那美さんにプロポーズまでしていた。少し困った那美さんは僕を呼ぶようにKohseiさんに命令したのだった。Kohseiさんは僕が駆け付けるまでの間にバーボンをふたたび飲み、機嫌を直していたのだった。しばらくは僕を真ん中にしてKohseiさんは那美さんを口説いていたが、いつの間にかカウンターに倒れ込んで寝息をたてはじめた。

「ごめんね、少しだけ困ってしまって・・・思わず君を呼んでしまって・・ごめん。」
「いいんです、やることがなくて退屈していたんですから。那美さんに呼ばれてうれしかったんですよ。でもkohseiさんは酔っていたからって冗談でプロポーズしたわけじゃないと思いますけどね。シャイだからこうでもしないと気持ちを伝えられないんだと思うけど・・・。」
「でも、それは困るわ。イベントの企画パートナーとして仲良くはやりたいけど。それ以上の関係は考えていないもの。」

僕たちはKohseiさんの話はそこまでにして、これからのイベントについて話し合い、それが終わると文学や演劇について話し始めた。那美さんとそんな話をするのは楽しく、過ぎてゆく時間のことを忘れた。Kohseiさんが復活したときにはすでに夜が明けていた。バーのドアをあけると鳥のさえずりが聞こえ、あたりはちょっと明るくなっていた。

「那美さん、もう朝になってますよ。風が気持ちいいですよ。」
「うーん、本当だ。気持ちいい。・・・ねえ・・・私ね、君の十年後を見てみたいな。十年後の君はどんなになってるんだろうね。興味があるなあ。今はまだ19歳だよね。どんなになってんだろうねえ。」

朝日は斜めに光線を送ってくる。Kohseiさんは「ヨーイ・ドン」というなり歩道を一人で走った。足元から砂埃がたったが、そんな状況でも、僕たち三人ともにそれぞれの未来を信じることができていた、少なくともそう僕は信じた。そんな朝だったのだ。
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たいせつな風景・S市点描「十年後を待ちながら」(1) [小説]

 初夏の心地よく乾燥した空気に包まれ学校から夜遅く帰った僕に電話がかかってきた。時計をみると11時をすぎていた。下宿なので大家さんの取次だ。ちょっと恐縮しながら受話器をとった。電話線の向うから酔った声で「なあ出てこいよ。話をしようよ。」との誘いだった。KohseiさんはSUSUKINOにあるジャズバーにいた。
Kohseiさんの隣には誰かがいるらしい。女性の声が聞こえてきた。

「那美さんも一緒なんですか」
「うん、一緒一緒。那美さんが君を呼べとうるさいんだよ、なあ来てくれよ。」

電話を切ってから仕方なく出かけることにした。着替えをして大きな通りにでてタクシーをとめた。「運転手さん、SUSUKINOまでいってください」。

 那美さんとは、あるホテルのロビーで初めて会った。文学者でもある大学教授から紹介されたのだった。那美さんは東京の大学を卒業、大きな広告代理店にコピーライターとして採用されて活躍していたが、実家の都合でS市に帰ってきたばかりだとのことだった。その席にKohseiさんもいた。Kohseiさんはすでに文学に関する新人賞を受賞していて、僕たちの先輩格としてその場に呼ばれていた。その日は顔合わせみたいなものだったので、自己紹介をしただけで約束の時間が来てしまい、実質的な話し合いは、その後お互いに連絡を取り合ったり、集まったりして個別に行った。あるイベントを一緒に企画しようとの話になり、那美さんの家に僕たちは集まることにした。Kohseiさんと僕は那美さんの家のそばにできたばかりのコンビニエンスストアで待ち合わせた。まだ当時は朝7時に開店、夜11時までひらいているというコンセプトが目新しかった。店内は妙に明るく白々しく感じたが、今ではそれが普通になってしまった。コンビニに行くにはバス停から橋を渡るのだが、きれいな水の美しい流れが下にはあり、まわりには気持よさそうな川原がひろがっていた。この川の堤防にそった河川敷に林檎の樹は並木のように植えてあり、花は満開に咲いているのだった。風にのって花の香りが僕らのところまで漂ってきていた。僕は最初なんの花なのかわからずKohseiさんに聞いた。Kohseiさんは「あれは林檎だよ。見たことない?」と不思議そうな顔をした。南の地方で育った僕は林檎の花をそれまで見たことがなかった。那美さんの記憶は、結果としてこの初めて見た林檎の花とともに僕の脳裏に刻まれたようだ。かなり朝早くの待ち合わせだったが、那美さんは何かの原稿の締切で最初から徹夜覚悟の仕事があって、朝寝る前に僕らとの打ち合わせを済ませておこうと考えて彼女が決めた時間だった。那美さんの部屋にあがって打ち合わせたのだが、那美さんの部屋はまるで仕事部屋で女性の部屋に入ったという感じを与えないものだった。

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たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(5) [小説]

 最近は風邪気味で調子が悪い、とシオンが咳こみながら電話してきた。かわいそうだが、簡単に変ってやることもできない。姉さんに頼んで看病をさせてもらうことにした。ふとんにくるまったシオンはなさけない表情をみせていた。病気の時は皆がそうするようにシオンも僕に甘えた。僕はできるかぎりシオンのわがままにまかせた。姉さんは気をきかせて僕たち二人にしてくれた。熱があるのでタオルを濡らして額にのせていた。顔色の悪いシオンの寝顔を見るのはつらくもあったが、僕はずっとシオンをみて過ごした。寝息がリズミカルで僕も少し眠くなった。シオンが目をさますとリンゴをむいて食べさせた。水を飲ませた。熱はまだひいていなかった。このときにはシオンの本当の病名は姉さんだけが知っていたのだった。もちろん今になればということであるが。

 シオンはその後徐々に衰弱していった。そしてS市の北側にある大きな総合病院に入院することになった。シオンはまだ風邪をひどくこじらせたと思っているようだった。さすがに僕もおかしいと思い始め、姉さんにきいた。姉さんは顔を曇らせ困った表情をみせていた。「あなたには話しておかないといけないわね。」と本当の病名を話してくれた。僕はショックを受けた。顔いろが蒼白になったのだろう、姉さんは僕を軽く抱きしめていてくれた。しばらくして涙が流れてきた。これじゃ子供だと思いながらも、抱かれるままにした。涙もふかなかった。「今は思う存分にシオンのために泣いて。でも、シオンの前に行ったら気付かれないように演技をしてほしいの。できる・・・」と念をおされた。シオンと僕との時間は大きな鉄の扉を落とすように閉められてしまった。季節は冬を迎えていた。雪が続き、それが寝雪に変っていた。シオンは最後には小さな木箱にいれられてしまった。悔しかったし悲しかった。故郷の高台にあるシオンの家族の墓には雪解けをまって姉さんと僕とで行った。シオンの骨を納めるために。眼下に海が見えるよい場所に墓石はあった。青空が眩しかった。シオンの笑顔を思い出していた。故郷の海とこの春の青空をシオンにもう一度見せたかった。いや、僕はシオンと二人で見たかった。となりにいる姉さんの長い髪が風に揺すられ僕のほほをたたく。シオンとの出会いを不意に思い出した。そうだ、はじまりは平手打ちだったのだ。あれから1年たっていないのにシオンはいない。僕はあの時よりも大人になったのだろうか。S市に戻る車の中で運転する姉さんとシオンのことを話した。もちろん僕のしらない子供のころのシオンのことをいろいろに聞いた。「でもねえ、シオンはあなたに素晴らしい夏をもらったと話していたわ。」と涙声になった。悲しさに満ちた姉さんのことをある日のように抱きしめてあげたかったが、運転する彼女を抱きしめることはできない。まどの外の夜空には大きな丸い月が昇ってきた。S市につくまでの結構長い時間を僕たちはシオンの思い出を抱きしめながら無言ですごすだろう。そして静かに別れてゆくだろう。それぞれの眠りにつくために。そして生きてゆくために。

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たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(4) [小説]

 S市に遅い夏がきた。さすがに強い日差しが照る。夜は冷房はいらないが日中はそれなりに暑い。気温があがるのに比例するようにシオンと一緒に過ごす時間が長くなっていた。大学は違うけれど、僕の行きつけの喫茶店でシオンはよく待っていた。そして市営のプールに泳ぎにいった。シオンは泳ぎが得意で見事なクロールでいつまでも泳いでいた。それはとても美しく、見とれてしまうほどだった。普段はヤマネだと思ったが水の中ではイルカに変化するのだなと思った。泳いだ帰りには必ずスーパーマーケットで夕食の買物をして僕の家で二人して料理を作り一緒に食事をした。夏休みの最盛期には毎日のように二人で買い出しに行った。魚屋のおじさんは僕たちを夫婦だと思ったようで、シオンのことを「奥さん」と呼んでいた。シオンはそれも楽しんでいるようだった。花屋ではバラをよく買った。S市は乾燥しているので、バラは枯れずにドライフラワーになって二度楽しむことができた。僕たちがサンマを買ってバラを抱えて腕を組んで歩く姿はたしかに新婚の若い二人に見えただろう。それほどに僕たちは幸せだったのだろう。

 秋になって冷たい雨が続いた。夏の終わりごろに僕は故郷に帰り、両親としばらく過ごした。ときどき電話でシオンと話した。シオンは相変わらず元気だった。いつ帰るのかと何度もきかれた。泳いでいるかと聞いたが、僕がいないので泳いでいないとのことであった。電話で小さな咳をしていた。苦しそうではなかったが、少し気になる咳の仕方だった。

S市に戻ったのは木々が色づいてからで、シオンとは羊が鈴を鳴らして行進する丘で会ったのだった。羊が吐く息が白く見え、早すぎる冬がそこまで迫っている錯覚を覚えた。シオンは元気がなかった。僕のヤマネはもう冬眠を始めたのだろうかとも思った。考えてみれば僕はシオンに愛の告白を一度もしたことがなかった。ちょっと人恋しくなる秋、僕は羊をみながらシオンに初めての告白をした。「愛している」と。「今さら何を言っているの」と言われるのかと思ったけれど、シオンは真剣な目で僕を見つめていた。そして「わたしも」と言った。少し目を伏せて、シオンの体が震えていた。シオンの赤い傘に僕ははいり、傘のなかで僕たちは肩を寄せあった。シオンはとても冷たい手をしていた。冷たい秋がシオンのエネルギーを少しずつではあるが奪い取っているように思った。

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たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(3) [小説]

 意外にもシオンがこわごわ揚げていたライラックの花の天婦羅はきわめて美味だった。「どんなもんだい。」とふざけて力瘤を作っていた。姉さんは、北の港町から短大に通学するためにS市に移り住み、今は大きなホテルのフロントで働いていた。シオンはそんな姉を頼ってS市に出てきて学生生活を送っているのだ。姉さんはシオンに「あなたたちはどこで知り合ったの」と不思議がった。シオンは必死でとめたが僕は一部始終を話した。姉さんは聞きながら、大笑いしていた。「それはかわいそうね。シオン、あなたひどいわよ。」「わたしも実はそう思う。ただちょっと似ているというだけだったのにね・・・。」地下鉄の駅までシオンではなく、姉さんが送ってくれた。買物に行くついでがあるからということだった。「わたしたちの故郷のことはシオンに聞いた」と首をかしげた。「なにもない町なんだけどね。冬はほんとに厳しい吹雪が続くのよ。父は漁師だった。風の強い日に漁にでたまま帰らなかったわ。」僕はどんな言葉をかければいいのか全くわからなかった。うなずくこともできなかった。かなしい感情だけがわけもわからずに僕の胸の中で波打っていた。急に目の前の姉さんがいとおしくなって抱きしめてしまった。ちょっと驚いた表情をみせたが、姉さんは抱かれるままにしていた。「sayounara」「サヨウナラ」。

 そのころは二百海里問題が表面化したころで、S市にも遠洋漁業の船に乗れなかった出稼ぎの臨時雇いの船乗りさんたちが流れ込んでいて、駅のベンチなどで寝泊まりしていた。多くは東北から来ているようだった。それは各地であったようで、太平洋側のT市に行った時には路上で寝泊まりしているという漁師さんから握り飯をもらった。ところがその握り飯はすでに腐敗していて激しく臭った。僕は吐きそうになるのをこらえるがせいいっぱいだった。かくしてそばのゴミ箱にこっそり捨てた。申し訳ないと思いながら。また、炭鉱が事故によって閉山に追い込まれ失業者があふれ始めていた。S市や周辺の地域はこうしたやりきれない「思い」が充満し、ある種の倦怠感を感じさせるような空気が満ちていた。日本全体には違う空気感があったが、S市には確実にある「影」があったように思う。

今になるとそれを愛おしく感じている。

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たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(2) [小説]

 シオンと僕はそれからたびたび会うようになった。北側に住んでいるとS市の南側にはあまり来ることがないようで、僕が南に住んでいることを知ると、南に行ってみたいと笑った。S市には梅雨がない。だから6月は気持ちのよい晴天が続く。シオンは地下鉄で街の中心部に出てきた。そこで待ち合わせて路面電車に乗った。電車ははじめ西に向かうがやがて南にむかって左折する。そのあたりは平屋の民家がつらなっている生活感のあふれる住宅地だった。青い空のした道路の脇に植えられたライラックの花が咲く。「リラ冷え」の季節でもあるが、晴れれば気持ちのよい気候だ。南に直進する路面電車の窓にM山の裾野が間近にひろがると電車はふたたび左折する。その手前でおりた。目の前の道は急な坂になる。シオンは目をみはっていた。「S市にも坂ってあるんだね。北の方に住んでいると山があるなんてわすれてしまうものね。」と微笑んだ。M山に登るこの道はさらに険しい坂になり、やがてロープウェイの乗り場になるのだ。乗り場のまわりにはライラックが何本もあり、美しく花を咲かせていた。その香りにむせてしまいそうだった。シオンは僕の腕にしがみつくようにし、「ねえ、ロープウェイ、乗るよね」とうれしそうに笑っていた。平日の日中のためなのかゴンドラにはシオンと僕の二人きりだった。窓からはS市の全景がひろがって見えていた。思いのほか美しい光景だった。眼下の山肌には新緑が萌え、所々に花も咲いていた。僕の腕の中で後ろ向きに抱かれながらシオンは眼下のS市にみとれていた。巣篭もりしているヤマネのようだった。ゴンドラの窓からの光が僕のヤマネを暖かく包んでいた。僕たちは幸せな気持ちを感じていた、のだと思う。

 シオンからの電話に呼び出されて彼女の家に出かけたのはライラックの花が満開になった晴れた日だった。僕に食べさせたいものがあるということだった。呼び鈴を押すとドアを半分開けて「はいって。はいって。」とうながされた。シオンの姉さんもいて、笑顔で僕を迎えてくれた。シオンのリクエストでドイツ産の白ワインを持参していた。窓からは満開になったライラックの香りがはいってきていた。「ライラックって何科に属しているか、ご存知かしら」と姉さんにきかれたが、僕にはわからなかった。「彼らはねえ、紫蘇科なのよね。だから食べられるのも当然かしらね。」さっきからシオンが台所で格闘しているのはどうやらライラックらしい。そのうち、油で何かを揚げる音が聞こえてきた。「へえ、じゃあ料理しているのはライラックの天婦羅ですか。珍しいですね。」「そうね、あなたの地方ではライラックの花を見ることも少ないでしょうからね。花の天婦羅なんて想像できないかもしれないわね。」S市に移り住んでからというもの空気感や気温ばかりではなく文化の差や言葉の差も感じた。最初に気がついたのは町の色だった。それは屋根が瓦ではなく鋼板に着色がされていたことが原因でのことだった。ひとめ見渡した時の町全体の色彩が南の地方とは違っているのだ。それほどあちこちに原色が点在しているのだった。あるとき「こわい。こわい」といわれたので、真剣に「幽霊でも見たの」と質問をし、大笑いされたものだった。そうして失敗をしながら、ひとつひとつ学んで順応してきたのだ。窓からは心地よい風が吹き込んできて姉さんの髪を揺らし、シオンの首に吹き付けた。それは、まるでライラックの風だった。

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たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(1) [小説]

 バシッ。いきなり平手でたたかれた。僕の右頬は湯をかけられたように熱くなり、ひりひりと痛んだ。そのとき風のように現れ、面前に立った少女の真っ赤な靴の色が目に今も焼きついている。SUSUKINOとよばれるネオンあふれる町にある大きなディスコの玄関だった。急に激しい雨がよこなぐりに降ってきたので、路面電車の終点の駅から走ってきたばかりだった。事情がまったくのみこめなかった。「何をするんだ」と叫ぶと意外にも「ごめんなさい。・・・どうしよう」とおろおろした声。どうやら人違いをしたらしい。顔をあげると鼻がツンと痛んだ。

 シオンとの出会いはこうした誤解から始まったのだった。彼女は僕に似た男に裏切られたらしいのだ。そこで、そいつを待ちかまえてバシン。ところが人違いで僕がたたかれたというわけだった。シオンはS市の北の方に姉と二人で暮らしていた。S市は中心部から北側がまったくの平野。その先には海がひろがっている。「ハンカチ」を差し出されてはじめて鼻血が流れていることに気がついた。少しあおむけに休んでいるとシオンが不安そうにのぞきこんだ。おおきな茶色の瞳がゆれていた。僕はディスコで踊るつもりだったけれどやめた。シオンがあまりになさけない泣き顔をしているので、仕方なく大きなホテルのロビーにあるちょっと高級なケーキショップに行った。僕はイチゴのミルフィーユ、シオンはマスクメロンのショートケーキを頼んだ。向かいあう二人が映り込む大きなガラス窓のむこうを緑色の路面電車が走ってゆく。まるでシオンの頭ごしを走っているようにも見えた。シオンはしばらく黙っていた。さすがに複雑な思いで僕に接しているようだった。まあたしかに、彼女をだましてすてた男と僕は似ているのだからな・・・。できれば今さら思い出したくもないだろう。それなのにシオンの前に僕は座っているのだ。シオンはS市のはるか北に位置する海沿いの小さな港町に生まれた、しばらくして僕にそう話した。僕の耳にはずっとウミネコの声がなぜだか聞こえていた。雨の宵はネオンの光る夜の帳に変り、タクシーのクラクションの音に僕らは包まれていった。時間のたつのがすごく速く感じた。シオンは次第に笑顔に変わっていった。

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たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(4) [小説]

 Satoshiと僕が天狗岳に向かったのは翌週末のことだった。きちんとテントや炊飯道具、食器、寝袋など登山用の必需品を備えて出かけた。二人だけですべての装備を持つので普段にくらべてザックが大きく重くなったが、テントから山頂にいって同じルートを降りて来る予定なのでテントを張ったままにできる。つまり山頂へは必要最低限の装備で行くことができると考えたのであった。S市のバスターミナルからバスに乗った。南西の温泉街に行くバスであった。日頃は夜更かしのSatoshiも僕もさすがに山登りを計画している時には体調に気をつける。前夜はきちんと早寝をするのだ。僕もいつもよりも3時間は早寝をした。また、いつもはモノトーンの服装をするSatoshiが今日は赤のシャツを着ていた。山登りの時は万が一ということがあり得るから目立つかっこうをする癖がついたんだろうな、と彼は笑った。僕もザックは赤だったし、シャツもかなりはでなチェック柄だった。もちろんウール100%である。ズボンはグレーのものであったが、こちらもウール。下着もウールを着ていた。春山に登るので完全装備というわけであった。
バスはS市を南北に貫く通りを南に走り、オリンピックのスケート会場になった地域を抜けて山間の道に入った。S市を流れている大きな川の上流にそって道は伸びていた。川の流れをさかのぼるようにして標高をあげてゆくのだった。温泉街に至る直前の林道の入り口でバスをおりた。Satoshiは大きな伸びをするとザックを担いだ。「さあ、歩くとしますか」と振り返った。軽くうなずくと林道に入った。天狗岳の入口までは林道を歩いた。登山道の入口は吊橋があったのだが、今はそれが壊れて痕跡だけがあった。それが登山道の入口の目印になっていた。まだ冷たい水であり、雪融けの激しい水流ではあったが、ザイルをむすんで渡渉した。何とか無事だった。二人ともに経験者なのでよかった。対岸にあがると森への入口になっていた。そこから先は大きなドイツトウヒの森になっていた。風にトウヒの幹が揺すられると独特の音がした。まるで船がきしむような音がするのだ。しばらく耳を澄まして森の声を聞いた。トウヒはかなり高くまで茂っていた。その先には小さな青空が見える。下草はほとんどなかった。光がベールのように差してきて、幻想的な光の風景が広がっていた。登り道になる直前でテントが張れる平坦地まで歩いた。そこはまた違った光景がひろがっていた。小さな沢があって水の確保が可能な場所の向うにはドイツトウヒが少しまばらになっている場所があってピンクの可憐な花が一面に咲いていたのだ。それはカタクリなのだった。これほどの量のカタクリの群生を見たのは初めてだった。美しかった。Satoshiも茫然としていた。「きれいだな」と絶句した。僕も全く同感だった。カタクリは食べることができる。少しだけ花と葉をいただいて夕食に添えることにした。この群生はあまり人の目に触れたことがないのかも知れないと思った。登山口の入口の吊橋が壊れてしまっていたし、夏はともかくも少しシーズンに早いこの時期に入山する者は少なかったのかもしれない。この環境でカタクリの満開にあてるのは難しく、ごく稀なことであったのかもしれなかった。だから、天狗岳にカタクリの群生があるとのうわさを聞いたことがなかったのかもしれない。ふたりはカタクリの花の香りに包まれて眠った。翌日も快晴で、残雪を踏んで険しい岩峰に登頂した。帰りは雪の壁をすべって下った。僕が持っている写真の中にはガッツポーズをとったSatoshiの姿がある。彼の赤いシャツが青空に映えていた。

 その夏、S市からみて東方向にあたる炭鉱の町で大きな事故がおこった。登山サークルの先輩が就職した鉱山だったので心配したが、その先輩は無事だった。しかし、悲劇はSatoshiの身に振りかかってきていた。Satoshiの父は炭絋夫としてその鉱山で働いており、事故の日も坑道の中にいたのだった。最初は大学の学友の父兄が事故に巻き込まれたというニュースをきいた。皆、顔色を変えて帰郷していった。まさかその事故にSatoshiの父親が巻き込まれていようとは思っていなかったので、Satoshiの不在を事故と関係づけて考えはしなかった。Satoshiは母親からの連絡を受けてすぐに生まれ故郷である炭絋の町に帰ったのだった。結局、Satoshiの父親を含んだ多くの炭鉱夫が命を落とした。それが契機となってこの炭鉱は閉山を決めた。落ち着けばSatoshiはS市に帰ってくるものと僕は思っていたのだが、雪が降り始めても彼は帰ってこなかった。帰ってくることができなかったというのが本当だったのだろう。寝雪には決してならないが、牡丹雪が降り始めた晩秋の夜、真鍮のノブを回して赤い扉を引いた。だけど、そこにSatoshiはいなかった。白い十字架もなく、黒い十字の形をした激しいタッチのドローイングがそこにはあった。それはスペインのアントニ・タピエスの作品だった。Satoshiのモノトーンの服装を想った。

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たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(3) [小説]

 Satoshiの個展はそれから2週間、時計台のそばの画廊で開催された。僕も何度か顔を出してSatoshiと一緒に十字架を動かしては構成を変化させ、それを写真に撮影した。個展の間のSatoshiも変わらずモノトーンの服装をしていた。「出来上がったよ」と渡された個展会場の写真もモノクロだった。Satoshiの手焼きのプリントであった。彼の個展の2週間は雪融けの時期にあたり、S市の中心地である個展会場のまわりは次第に雪が消えていった。それとともに町の色も蘇ってくるように感じた。花が咲き始めるのも間近に迫っていた。
 Satoshiからの呼び出しがあって時計台の裏にあるモノトーンの喫茶店で会ったのは桜が咲き始めた夜だった。Satoshiは一番奥にあるカウンターにいた。コーヒーのお湯割りを頼むとSatoshiは用件を話し始めた。

「個展も終わったからさ、都合がつけばどこかの山に登らないか」という誘いだった。
春になったとはいえ、標高の高い山は残雪が深い。二人で相談してS市の南西にある天狗岳という山に決めた。まずは標高の割に峻峰であること、登山道が荒れてしまったままなので登山者も少ないだろうという点で選んだ。また下から望んでも、すがたかたちのよい山容である点でも選んだ。つまり登って良いだろうが、見ても良い頂というわけである。さすがに日帰りは無理なのでドイツトウヒの森になっているという麓にテントを張って一泊することにした。久しぶりにカウンターに座ったのでマスターに話がつつぬけに聞こえ、
「山に行くのかい。いいんだろうなあ、二人だけでかい。」と聞かれた。
「たぶん素晴らしいよ。上は雪が深いかもしれないけれど、下はもう雪がないだろうし、花の山とも言われているからね」とSatoshiが答えた。

僕は「マスター、お湯割りをもう一杯ください」とおかわりした。Satoshiはクロワッサンとザクロサラダを注文した。
「個展の白い十字架の構成はよかったね。なんだか自由に動かしていると自分が造形しているような気持ちになれたよ。」
「うん、ありがとう。楽しんでもらえたのが一番うれしいよ。」

時計台が時刻を知らせる鐘をならした。心地よい夜だった。

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たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(2) [小説]

 冬の間、登山には行かなかったが、それによって自由になる時間が大幅に増えたわけではなかった。東京から歌人が来てそのアテンドをしたり、学業があったり、映画に行ったり、本を読んだりと僕なりに忙しく過ごした。もちろん大学の仲間との飲み会にも参加したし麻雀もやった。雪は降り積もり、降り積もりして見たこともない高さの壁となっていった。しかし3月ともなれば日足が伸びて、あいかわらず雪は降ってくるが、春の気配も確実に感じられるのだった。Satoshiからは時々電話があった。画廊ですれ違うことや喫茶店で出会うこともあった。彼の頭の中は次に開催する個展のアイディアで占められていたようで、それを僕がどう感じるかと聞いてくることが多かった。十字架の形をした大きな白いオブジェを部屋に構成、それを観客に自由に動かしてもらい、観客も作品構成に直接参加してもらおうというアイディアだった。

「面白いんじゃないか」と告げるとうれしそうに笑った。
「じゃあ、手伝ってくれるよね」と言われると断れなかった。

町の中心からみると西側にある彼のアトリエというか作業場に通って作品制作を手伝った。彼のアトリエも色彩的にはモノトーンだった。それに、この日もSatoshiはモノトーンな服装だった。僕が着て行ったエメラルドグリーンのセーターが部屋の中では浮いてしまい、全く場違いな空気を醸し出していた。しかし彼はそんなことは全く気にしていないようだった。合成材を電動ノコギリで切断、それを箱状に組み上げて形に作ってゆく。それを組み合わせて十字架を作るのだが、僕は彼の指示通りに組み上げていった。それが終わると十字架を白いペンキで塗る作業を手伝った。Satoshiのアトリエの窓にぶらさがっている大きな氷柱は、通っているうちに日中の強い日差しに溶けだしてきていた。水の落ちる音が雨の時とは全く異なる音で、そしてリズミカルに聞こえていた。それは春の足音であるとも考えられた。

 僕たちは何日もかけて白いモノトーンの大きな十字架をいくつも仕上げてゆき、その間に一緒にご飯を食べ、ラーメンをすすった。何杯もコーヒーを飲んだ。最後の十字架の作成作業は会場への搬入の前夜になり、深夜までかかって白く塗りあげたのだった。僕はそのままソファで横になって寝た。短い眠りの中で空を飛ぶ夢を見ていた。だが夢はモノクロだった。空は青く感じるのだが、実際の映像ではグレーだった。昔、白黒テレビを見たり、モノクロの映画をみたりしても空の青さを実感できたが、そんな感じだった。空を飛んでいる僕は誰かと手をつないでいたが、それが誰なのかはわからなかった。手は女性の手であった。いくつもの分厚い雲を飛び抜けると眼下に大きな町がみえた。そこで急降下してしまい教会の尖塔にぶつかりそうになったが、つないでいた女性の手が強く僕のことを引き上げてくれ、かろうじて衝突を免れた。ジェットコースターに乗っているような感覚を覚えた。そこで目がさめた。Satoshiはすでに起きていてフレンチトーストを作っていた。

「おはよう。コーヒーでいいかい。それとも紅茶にする。」キッチンから笑顔でSatoshiが聞いた。窓からは明るい日差しがさしていた。アトリエには個展会場に搬入・展示する十字架が50本も整然と並んでいた。自分たちで作ったモノでありながら、こうして部屋に十字架が並んでいるのは全く不思議な風景であった。外は快晴で、雪に日光が反射して二倍ほどに眩しく感じた。さっそく氷柱は溶けていた。リズミカルな水の落下音が耳に心地よかった。僕たちは十字架を運搬してくれる運送会社のトラックが来るのを待った。

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