高い大空を見上げるとき―小林多喜二と村山籌子(3) [村山籌子]
3.立野信之と多喜二
『戦旗』の編集委員であった立野信之の『青春物語・その時代と人間像』(昭和37年 河出書房新社)には小林多喜二の小説「一九二八・三・一五」の『戦旗』掲載にいたる経緯が綴られている。
ある日、蔵原惟人が国際文化研究所のわたしの部屋にやってきて、風呂敷包みの中からキチンととじた分厚い原稿を取り出しながらいった。「北海道の小林多喜二という人から送ってきた原稿だが、『戦旗』へのせられるかどうか、読んでみてくれないか」 「ああ、小林多喜二か」 わたしは、その名前に記憶があった。というのはわたしが年にして―十八歳頃―「文章倶楽部」や「文章世界」などに投稿していた頃には、小林多喜二もまた北海道からコマ絵や短文や小説を投稿していたことがある。お互いに入選したことはあまりなかったが、時折り佳作などに入ったりして、しじゅう名前がチラチラしていたので、何となく記憶に残っていたのである。もっとも、小林は、その後山田清三郎の編集していた「新興文学」にも短編小説を投稿して、掲載されたりしたので、一そう記憶に残っていたのでもあった。
蔵原から渡された小林多喜二の原稿は、例の有名な「一九二八・三・一五」―小樽市における三・一五事件の弾圧の模様を克明に描いたもので、事件そのものが真新しかっただけに感銘も生々しく、作者の息づかいがそのまま聞こえるようなはげしい作品であった。しかし肩をそびやかして無理やり背のびをしたような所があり、言葉づかいや表現にもナマな誇張が目立った。筆づかいも荒削りであった。
とはいいながら、この作品のことを、立野は十分に『戦旗』に発表できるものだと思い、そう推薦した。立野があきらかにまずいと思う箇所を伏字に直した上で、ついに小林多喜二の代表作「一九二八・三・一五」は『戦旗』の1928(昭和3)年11月号、12月号に掲載されたのであった。もともと多喜二は28年3月のナップ成立を迎えて、同年5月にナップ小樽支部を組織して、機関誌『戦旗』の配布を受け持った経歴をもつ。そして、上京して蔵原惟人に会って、大いに啓発された経緯をもっていた。従い、「一九二八・三・一五」を8月に完成させると、すぐに蔵原に送ったのだった。それほどに多喜二は蔵原に傾倒していたのだろう。多喜二が上京した1930(昭和5)年には多喜二を含めた作家同盟の作家たちの一斉検挙が行われたが、蔵原はソヴィエトに行っていて無事だった。
再び立野信之の『青春物語』の記述に戻ろう。立野は上落合で蔵原と、南阿佐ヶ谷では多喜二と短い期間ではあるが同居していたことがある。日本におけるプロレタリア文化史において最重要な二人、蔵原と小林多喜二とを結ぶ接点に立野はおり、その意味でも重要な証人の一人である。それは、村山籌子においても同様であるが、地下活動に潜ったのちの二人の連絡係を担当した点からも、おそらくは立野以上に二人の行動を知るチャンスもあっただろうが、戦後すぐに亡くなったためなのか、それとも語れない事実があったためか、この時代を証言する著作がないのは全く残念である。以下は立野の記述である。
その頃わたしの家には村山知義の細君で、すぐれた詩人であり童話作家であった村山籌子が、しじゅう遊びに来ていた。彼女との付き合いは、わたしたちが蔵原惟人と上落合に住んでいた頃であったが、特にわたしの家にシゲシゲと来るようになったのは、わたしが小林と一緒に、検挙されたことを知って、すぐさまわたしの留守宅に駆けつけてくれた時からである。
小林多喜二と村山籌子とは、その救援活動の差入れや、激励慰問の手紙の往復などで親しくはなっていたが、まだ友達というほどの間柄ではなかった。わたしの家で顔をあわせることがあっても、二人だけではあまり話題がなかった。
さて、村山籌子が、ある日ブラリとやってきて―いつも彼女はブラリとやってきた―わたしに、蔵原惟人がひそかにソヴェトから帰っている旨を打ち明け、「・・・・会いたがっているわよ」といつもの主格を抜いたいい方でいった。
立野信之『青春物語』の目次
山田清三郎『プロレタリア文学史』上巻
『戦旗』の編集委員であった立野信之の『青春物語・その時代と人間像』(昭和37年 河出書房新社)には小林多喜二の小説「一九二八・三・一五」の『戦旗』掲載にいたる経緯が綴られている。
ある日、蔵原惟人が国際文化研究所のわたしの部屋にやってきて、風呂敷包みの中からキチンととじた分厚い原稿を取り出しながらいった。「北海道の小林多喜二という人から送ってきた原稿だが、『戦旗』へのせられるかどうか、読んでみてくれないか」 「ああ、小林多喜二か」 わたしは、その名前に記憶があった。というのはわたしが年にして―十八歳頃―「文章倶楽部」や「文章世界」などに投稿していた頃には、小林多喜二もまた北海道からコマ絵や短文や小説を投稿していたことがある。お互いに入選したことはあまりなかったが、時折り佳作などに入ったりして、しじゅう名前がチラチラしていたので、何となく記憶に残っていたのである。もっとも、小林は、その後山田清三郎の編集していた「新興文学」にも短編小説を投稿して、掲載されたりしたので、一そう記憶に残っていたのでもあった。
蔵原から渡された小林多喜二の原稿は、例の有名な「一九二八・三・一五」―小樽市における三・一五事件の弾圧の模様を克明に描いたもので、事件そのものが真新しかっただけに感銘も生々しく、作者の息づかいがそのまま聞こえるようなはげしい作品であった。しかし肩をそびやかして無理やり背のびをしたような所があり、言葉づかいや表現にもナマな誇張が目立った。筆づかいも荒削りであった。
とはいいながら、この作品のことを、立野は十分に『戦旗』に発表できるものだと思い、そう推薦した。立野があきらかにまずいと思う箇所を伏字に直した上で、ついに小林多喜二の代表作「一九二八・三・一五」は『戦旗』の1928(昭和3)年11月号、12月号に掲載されたのであった。もともと多喜二は28年3月のナップ成立を迎えて、同年5月にナップ小樽支部を組織して、機関誌『戦旗』の配布を受け持った経歴をもつ。そして、上京して蔵原惟人に会って、大いに啓発された経緯をもっていた。従い、「一九二八・三・一五」を8月に完成させると、すぐに蔵原に送ったのだった。それほどに多喜二は蔵原に傾倒していたのだろう。多喜二が上京した1930(昭和5)年には多喜二を含めた作家同盟の作家たちの一斉検挙が行われたが、蔵原はソヴィエトに行っていて無事だった。
再び立野信之の『青春物語』の記述に戻ろう。立野は上落合で蔵原と、南阿佐ヶ谷では多喜二と短い期間ではあるが同居していたことがある。日本におけるプロレタリア文化史において最重要な二人、蔵原と小林多喜二とを結ぶ接点に立野はおり、その意味でも重要な証人の一人である。それは、村山籌子においても同様であるが、地下活動に潜ったのちの二人の連絡係を担当した点からも、おそらくは立野以上に二人の行動を知るチャンスもあっただろうが、戦後すぐに亡くなったためなのか、それとも語れない事実があったためか、この時代を証言する著作がないのは全く残念である。以下は立野の記述である。
その頃わたしの家には村山知義の細君で、すぐれた詩人であり童話作家であった村山籌子が、しじゅう遊びに来ていた。彼女との付き合いは、わたしたちが蔵原惟人と上落合に住んでいた頃であったが、特にわたしの家にシゲシゲと来るようになったのは、わたしが小林と一緒に、検挙されたことを知って、すぐさまわたしの留守宅に駆けつけてくれた時からである。
小林多喜二と村山籌子とは、その救援活動の差入れや、激励慰問の手紙の往復などで親しくはなっていたが、まだ友達というほどの間柄ではなかった。わたしの家で顔をあわせることがあっても、二人だけではあまり話題がなかった。
さて、村山籌子が、ある日ブラリとやってきて―いつも彼女はブラリとやってきた―わたしに、蔵原惟人がひそかにソヴェトから帰っている旨を打ち明け、「・・・・会いたがっているわよ」といつもの主格を抜いたいい方でいった。
立野信之『青春物語』の目次
山田清三郎『プロレタリア文学史』上巻
いつも、ありがとうございます。
by abika (2009-07-28 16:11)
abika様:こちらこそ、です。
by ナカムラ (2009-07-28 17:41)
ご訪問ありがとうございます。
いつも興味深く読ませていただいています。
by Mineosaurus (2009-07-29 11:41)
ご無沙汰してます。
お手紙ありがとうございました。
さすがアーティスティックなブログですね!
折々に訪問させていただきます。
by Shun_Kameda (2009-07-29 13:03)
この度は、ご心配おかけいたしました。
いろいろとありがとうございました^^
by abika (2009-07-29 18:36)
Mineosaurus様:私もいつも興味深く拝見させていただいています。楽器ならばチェロ、ピアノが好き。現代音楽も聴きます。今後とも宜しくお願いします。
by ナカムラ (2009-07-29 19:02)
Shun_Kameda様:ご訪問、コメントありがとうございました。本当にご無沙汰ばかりで。懐かしいです。何かの折にお目にかかれれば幸いです。
by ナカムラ (2009-07-29 19:05)