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雑誌『フォトタイムス』とモダーンフォト(3) [落合]

 1930(昭和5)年8月号にのちの瑛九、杉田英夫が「フォトグラムの自由な制作のために」を執筆する。フォトグラムの実作は芸術写真家たちこそ問題にしないけれど、実業的、商業的、広告的写真界においてはその応用はなされんとしている、と杉田は述べる。木村專一が最初のフォトグラムの試作を行ってから1年を経ているが、杉田はフォトグラムを作品としてではなく、ポスターの試作として制作している点が面白い。ほかでもそうだが、単独の写真芸術としてではなく、大衆に訴求するためのメディアとして写真を応用しようとしている点は瑛九(杉田)も同様である。9月号のモダーンフォトセクションには板垣鷹穂の「機械的建造物の乾板撮影」が掲載される。

現代の藝術は、現代的環境の表現を必要とする。現代的環境の諸相の内で、最も現代らしい性格を示してゐるのは、断るまでもなく機械的建造物である。ここで、現代の藝術は、機械的建造物の性格的表現を、新しい目標として求めなければならない。

やや強引な論理ではあるが、実際の事例として堀野正雄との共作による優秀船の機械的建造物のスチール写真をあげている。板垣論文に続いて堀野正雄の「機械的建造物を撮影して」が掲載される。ル・コルビジェが現代建築の規範を大汽船に求めようとようとしたことをもとに、板垣鷹穂の新興藝術理論をもとに入港してくる大型船舶の撮影を行ったのであった。そのレポートが掲載されている。11月号、堀野は「新しきカメラへの途1」をモダーンフォトセクションに掲載する。

現代の環境を寫眞に表現することが、私の所謂「新しいカメラへの途」へ進行する一つの實驗である。一九三〇年四月から八月まで、優秀船に就いて、機械的建造物の寫眞的表現に専念した後に、一般建築、橋梁、鐵骨建造物、都會の性格描寫を行ふことが、第二の目標として選ばれた。板垣鷹穂氏の指導に基いて實驗した私の仕事を、系統的に報告したい目的から、私は此の欄を計劃した。

実際の作例として永代橋の写真が掲載されている。12月号には川崎市・三井埠頭の大型クレーン、1931(昭和6)年1月号では川崎市・東京瓦斯製造工場のガスタンク、2月号では濵松市・濵松機關庫における機關車というように実例が掲載された。この一連の連載は『フォトタイムス』編集部が考える新興写真の一つの方向性を示している。板垣の主張した機械美学を堀野が実例によって解説してゆく形式でわかりやすい。また、1930年12月号に堀野は「機械美と寫眞」という本格的な評論も書いている。
 一方、主筆の木村專一を中心に「新興寫眞研究會」が設立された。1931(昭和6)年1月号に「新興寫眞展覧會概評」が掲載されている。前年の11月15日から19日まで銀座オリエンタル階上において出品点数51点での東京展を開催した。出品者の一部が記載されているので列挙する。西山清、木村專一、堀野正雄、佐藤黒人、渡邊義雄、平野進一、伊達良雄、吉岡敏三、吉村秀也、武富達也、飯田幸次郎。

新興寫眞とは何か? それはどこまでもXであり度い、Xの答えが判然とした時、新興寫眞研究の意義は消滅される。寫眞家の美の追求は、在來の意識や、主張や、プロセスに對する解釋では、明らかに行詰つた。行詰つたばかりでなしに、社會的に、時代的に、取残された残骸でしかあり得なくなつた。藝術は時代の生産であり、一つの社會組織の上層に築かれるべきところのものであるに關らず、寫眞は時代及その社會組織無視の潮流を下らんとするに至つた。茲に於て吾等はこの残骸でしかあり得ないところの在來の意識や主張やプロセスに對する解釋の一切を解消して、時代的社會的意識を以つて新しく見直さうと云ふのが、この會を創設した主眼點である。

上記は主催である木村專一が新興寫眞研究會設立主旨について書いた文章である。さまざまな分野の写真表現を包含し、カメラの自由主義的展望が遺憾なくなされた、と自己評価している。第二囘新興寫眞研究會 寫眞展覧會は1931(昭和6)年1月20日から24日まで銀座松屋において開催された。また、第二囘新興寫眞關西展を2月20日から25日まで大阪三越別館3階を会場に開催された。そして、第二囘展を機に機関誌の発行を行うことになる。新興寫眞研究會としての活動ではないが、この時期の新興写真を論理的に定義したのもまた堀野正雄であった。『フォトタイムス』1931(昭和6)年5月号の「寫壇評論」に掲載された「寫眞に於ける性格描寫」がそれである。

今日、新興藝術の主導形式を、新らしいリアリズムに見出すことは許さる可きであらう。・・・そして現在、再び寫實主義が新らしい外貌の下に現出する。然し兩者の間に横はる相對的關係は、畢竟、其の観念に於て立脚點を相違する。即ち新しいリアリズムとは―― 一.表現形式が、具體的に簡潔明瞭でなければならない。 二.表現形式を規定する技術は、機械文明の反映する合理的な観點に立脚しなければならない。 一方、百年の歴史を有する寫眞術に於ける藝術としての寫眞を考察する時、表現形式を規定する技術的分類に依れば、次の四種類に分割することが最も新しい観點である。 1.リアルフォト 2.フォトグラム 3.フォトプラスチック、フォトモンタージュ 4.ティポフォト

堀野は写真の特質から考えて、主要な表現はリアルフォト。報道写真を含めたリアリズムの重要性と機械文明を重視する新たな美学的な視点を評価している。板垣と堀野の一連の機械美学的な写真表現である。また、その写真はフォトモンタージュされメディア化してゆく。グラフ雑誌または写真によるグラフはプロパガンダ領域で発展してゆく。フォトグラムもティポフォトもやはり商業的な活用を包含しており、ポスターや雑誌広告に応用されてゆくものだ。写真のメディアとしての活用から作られてきた新たな表現を新興写真と呼んだのではないだろうか。この時代、広告もプロパガンダも大衆を魅了するヴィジュアルを希求していた。新興写真はその要求にもこたえてゆくものであった。『フォトタイムス』が考える新興写真の海外での先行実例はバウハウスのモホイ・ナジである。堀野の前述の論文でもナジを引用している。また、6月号ではフランツ・ローの「モホリ・ナジと新しき寫眞」が掲載される。8月号、堀野が「新しい寫眞家」としてマン・レイ、エル・リシツキー、フランシス・ブルギエール、モホリイ・ナギーを取り上げている。最後に8月号に木村が書いた「その後の新興寫眞運動」をみておきたい。

傾向的には寫眞印刷、又は大量生産を前提とし。技術的にはメカニズムの認識とレンズアイの肯定。對社會的にはあらゆる社會層、又は生活層に向つての廣汎な應用寫眞術の開拓が吾等の宣言した主張であつたのである。

ここまで主にモダーンフォトセクションの論文を引用しながら新興写真とはなにか、そして『フォトタイムス』と新興写真のかかわりについて考察してきた。主筆である木村專一が1931(昭和6)年8月号に書いた「その後の新興寫眞運動」での定義が『フォトタイムス』における新興写真の定義であり、とくに写真のメディアへの拡大が大きな要素であったことがわかる。新興写真研究會を自ら組織したように『フォトタイムス』は日本における新興写真運動の牽引役であった。これに堀野正雄が論理的な部分でも実作においても補強していった感がある。『フォトタイムス』編集部も堀野正雄のスタジオも落合にあった。國際光畫協會本部もプロフォト本部も落合にあった。新興写真に関わる多くの組織が落合に関係している。落合は新興写真の故郷でもあったのだった。
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雑誌『フォトタイムス』とモダーンフォト(2) [落合]

オリエンタル寫眞工業には映画の撮影所もあり、「オリエンタルパーク」と呼んでいた。8月30日、岡田嘉子一座がロケーションを行った。カメラは堀野正雄が担当した。全長400尺のものをネガの現像からポジへの焼付までをオリエンタルのシネマ技術部が一晩でやってのけたという。また河合プロもオリエンタルパークでロケを行っている。11月号において木村專一は寫眞造型作品、つまり「ホトプラスチック」を紹介している。ホトプラスチックは広告写真に応用され、広告対象を造型的に撮影することで対象を強く印象づけることが可能になるとしている。12月号ではポスターに使われる写真を取り上げている。ここでも写真はマスに訴えかけるためのメディアとして紹介されている。1930(昭和5)年2月号では純粋に「廣告寫眞」を取り上げ、雑誌広告での写真の使用例を具体的に紹介している。また同じ号で、山内光が「ドイツで開かれたフイルムとフオトの國際展覧會に就て」を書いている。山内は「松竹蒲田撮影所、國際光畫協會員」の肩書をもって紹介されている。本名は岡田桑三、山内光は映画俳優としての芸名である。ドイツに留学、帰国後は築地小劇場や日活で役者として活躍、1928年に松竹蒲田撮影所に移籍していた。1929年は山内にとって激動の年で、3月には右翼によって刺殺された労働農民党の代議士の山本宣治の葬儀の様子を記録映画として撮影したが、この実行も大きな困難を伴った。その後、蒲田撮影所長に資金を提供させてヨーロッパへの映画技術に関する視察旅行に出かけている。モスクワとベルリンを中心に訪れた。この視察旅行を通じて山内はエイゼンシュテインやメイエルホリドと親しくなった。この旅行の際に山内は5月に南ドイツのシュツットガルトで開催された世界最初の國際映畫寫眞の綜合展覧會を観覧する機会に恵まれた。『フォトタイムス』1930(昭和5)年2月号に書かれた報告は、まさにこの展覧会の紹介であった。第一部の寫眞展覧會の撮影委員にはヤン・チヒョルトが名前を連ねており、驚いた。協働者にはモホリ・ナギ教授、アメリカのエドワード・シュタイヘン、ロシアのエル・リシツキイ教授などが名前を連ねている。出品者180名、出品数1,168点に及んでいた。マン・レイやエル・リシツキイ、エインゼンシュテイン、シュタイヘンなどの作品が展示された。この写真部門の展示のみを日本に招聘、1931(昭和6)年に「独逸國際移動寫眞展」を國際光畫協會として開催。山内はその中心的なプロデューサーとして活躍した。この展覧会は多くの写真家たちに影響を与えることになる。この展覧会を通じて山内光は木村伊兵衛と親しくなった。この出会いが雑誌『光畫』への岡田桑三の参加につながり、1933(昭和8)年の日本工房への参加につながった。岡田はのちに東方社の理事になる。東方社では木村伊兵衛とともに雑誌『FRONT』を発行することになる。この写真展で木村伊兵衛をはじめとする多くの写真家と出会ったことが、岡田の人生にとって大きな変化の起点にもなったが、日本写真界における新興写真の受容に果たした役割も大きかった。1930(昭和5)年5月号に村山知義が「寫眞帖と寫眞家團體」というエッセイを書いている。ここでは写真家団体について書いた部分を紹介したい。

随分澤山の寫眞家の團體があるが、多くは同好者相ひ會し、時に展覧會を催すと云ふ程度のものでしかない。その展覧會も自分の作品を並べる便宜上、他人も引きずり出すといふ個人主義的な展覧會で、何かのテーマのために展覧會全體をさゝげ、各個人がその為に技術を提供するといふやうなものはない。同時にその團體も、或ひは自分の名前を賣るためのものでしかない。

この定義にもっともあてはまるのは「ブルジョア寫眞家團體」だと規定している。そしてブルジョア写真家である以上は個人主義的であるのは当り前であり、「技術上の研究的な團體すら作らせない程度に迄達している」と論じる。一方、左翼の芸術家の結成は文学、演劇、映画、美術等に亘って作られているが、当然、写真家のそれも作らねばならないのにできていないのは不都合である、としている。僅かに映画同盟や美術家同盟や演劇同盟に付随して少数の技術家のあるにすぎない、これを速やかに一つの独立した同盟に成長させるべき、だと結論する。文学関係は日本プロレタリア作家同盟、略称「ナルプ」。映画関係は日本プロレタリア映画同盟、略称「プロキノ」。演劇関係は日本プロレタリア劇場同盟、略称「プロット」である。この村山の提言通り、のちに日本プロレタリア写真同盟、略称「プロフォト」が結成される。このプロフォトの初代委員長はプロレタリア文学作家である貴司山治であった。代表作は「ゴー・ストップ」である。プロフォトの本部は下落合2080番地 久保田方。中井駅から三の坂を登った高台あたりにあった。村山はこうした写真団体の実例としてソヴィエト・ロシアのスコエ・フォトやルス・フォトをあげる。ドイツでは「労働者寫眞家」という組織があって『AIZ』の労働者絵入新聞に写真をさかんに提供するなどしていた、と報告する。『AIZ』は「アー・イー・ツェット」と発音する、労働者画報雑誌。写真大判タブロイド紙の形式で週刊で発行された。その誌面はジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュが多数使用されている。これも写真における前衛のあり方であったのだろう。現に写真によるグラフ雑誌の源流をたどるとドイツの婦人解放運動の機関誌や『THE USSR IN CONSTRUCTION』に達する。『THE USSR IN CONSTRUCTION』にもジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュが使用されている。ジョン・ハートフィールドといえば弟・ヴィーラント・ヘルツフェルデ、ジョージ・グロッスらと共に1916(大正5)年にベルリンで「マリク書店」を創設している。アプトン・シンクレアの1925(大正14)年の一連の著書はジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュによる装丁がされているが、素晴らしい表紙になっている。村山はベルリン留学中にマリク書店を知っただろうし、ジョージ・グロッスとともにジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュについても知っていただろう。また、前述のグラフ雑誌も送ってもらい見ていたものと考える。
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雑誌『フォトタイムス』とモダーンフォト(1) [落合]

 オリエンタル寫眞工業が落合・葛ヶ谷において出版していた雑誌『フォトタイムス』はいちはやく新興写真の動きを紹介、誌面に「モダーンフォトセクション」というコーナーを設けた。『フォトタイムス』はプロの写真館の写真技師を読者の主な対象としているところがあり、肖像写真の撮影技術等も紹介しているが、その一方で世界的に始まっていた新興写真の動きをほぼ同時代的にフォローしようとしており、日本におけるモダーンフォト、新興写真運動を先取りして紹介した雑誌としても特筆すべきである。その萌芽は1929(昭和4)年3月にある。『フォトタイムス』にはモダーンフォトセクションが新設され、村山知義や堀野正雄などを協會員とした國際光畫協會が上落合に創立される。このとき、『フォトタイムス』編集主筆である木村專一は30歳であった。1929(昭和4)年4月号では堀野正雄が「國際光畫協會 第一囘展覧會に際して」と題して國際光畫協會展を紹介している。展覧会は2月15日~23日まで新宿紀伊国屋書店階上で開催された。この展覧会はいわゆる「写真展」とはまったく異なっていた。それは展示内容に関する堀野正雄による以下の記述をみると明らかである。

印刷に利用すべき商業寫眞の實例、ソヴェツト・ロシアの宣傳ポスターを我々は諸君に齎らした。全世界映畫界の鬼才エイゼン・シュタインの『十月』のポスター。寫眞を實用化した良き例證である。一時間に十一吋×十四吋大のものが弐千枚以上以上弐千五百枚の生産能力を有する高速度輪轉焼付寫眞の實例。G・T・SUN商會の出品である。我々の日常生活に最も密接なる關係あるニュース・フォトとして東京朝日・日日新聞社の出品。カメラ無しで複寫し得るオリエンタル製品のコマーシャル・ペーパーの操作工程の具體化を此の機會に我々は展覧することを得た。

写真の単独作品を展示する形式の展覧会でないことがよくわかる。あきらかに新しいメディアとしての「写真」を紹介しようとしている。さらに加えて、映画技術についても展覧内容に加えており、映写幕、活動写真撮影用の電球などについても言及している。写真のメディア性を前提とした展覧会を開催している点で世界同時代的にも新しい。また、それを堀野正雄に書かせた『フォトタイムス』編集部もまた新しい。そもそも國際光畫協会の顧問に木村專一とオリエンタル寫眞工業の常務取締役技師長である菊地東陽の二人は就任していたのだった。第二囘展は4月5日~11日まで東京朝日新聞社展覧會場で開催された。5月号では主筆の木村專一が「フオトグラムの製作と其の感想」をモダーンフォトセクションに書いている。モーリーナギー(木村の記載の通り)を先例として参考にし、木村自身が実際にフォトグラムを製作している。6月号では木村はさらにフォトグラムを研究、文字を加えて立派に廣告デザインの役目を果たすであろう、グラビア印刷によってポスターにするならば、在來の形式を打破したポスターを得ることができる、としている。木村もまた写真を単独の芸術作品として必ずしも見ず、メディアにつながる構成要素として見ている点が興味深く、また写真のもつマルチプル性を積極的に評価している点も興味深い。9月号のモダーンフォトセクションにおいて木村はモーリーナギーの写真作品とフォトモンタージュの作品をあらたな表現手法として評価している。商業写真におけるフォトモンタージュの可能性について言及していることも注目すべきであろう。10月号では堀野正雄が「映畫・印刷・寫眞」というエッセーを書いている。そこではスチール写真だけではなく、エイゼンシュテインが取り上げられ、「ポチョムキン」の1カットが紹介される。そして、繰り返し「映畫・印刷・寫眞です。」が強調されるのだ。ここでも大衆に流布させるメディアとしての特性をもつ写真が取り上げられている。『フォトタイムス』が志向したモダーンフォトの姿は、単独の写真という表現作品としてではなく、メディア化する写真の可能性の拡大にあったように思う。この号のモダーンフォトセクションの最後に「記者附記」があるので、引用しておく。

モダーンフォトセクションも、既に八回重ねて参りました。大体に於てこの欄が如何なるものであるかは、御了解下さつた事と存じます。併し、未だ難意に解釈してゐる方がある様に思ひますが、要するに、何物にも拘束されない處の眞に自由な寫眞の紹介・批評・又は各作家の主張・作畫法等の為に、出來るだけ多方面の寫眞家に、使用して頂きたいのであります。何卒御寄稿を願います。
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新宿・落合散歩(15) 気になるオリエンタル写真工業 [落合]

 1929(昭和4)年3月4日、オリエンタル写真学校の開校式が行われた。オリエンタル写真学校も落合工場と同様に西落合・葛ケ谷に設置された。写真技術の普及を目的とはしているが、アマチュア写真家育成を主眼とはしておらず、写真館の主、後継者など写真にプロとしてかかわる経験者のさらなる育成のための学校であった。卒業までの期間は3か月と極めて短期であったようだ。『フォトタイムス』1929(昭和4)年4月号には第一回入学生が52名であったことと全員の名前が記載されている。あわせて「オリエンタル寫眞學校規則」が掲載されている。

第一條 本校ハ寫眞ニ関スル高等ノ學術技能ヲ授ケ併テ徳性ノ涵養ニ勞ムルヲ以テ目
    的トス
第二條 本校ハ一般寫眞術ノ素養アル者ニ對シ更ニ高級ナル技術並ニ學識ヲ授クルモ
    ノトス
第三條 本校生徒ノ定員ヲ定ムルコト左ノ如シ   五十名

これをみると、カメラを知らないアマチュアを教育する学校ではなく、すでに写真撮影についてわかっているが、よりプロフェッショナルな知識、技術を学ぶための学校として設立されたのがわかる。実際に『フォトタイムス』に掲載された学生募集の広告をみると「入学資格は現に営業に従事しつつある寫眞館主及オリエンタル寫眞學校の認定せる寫眞技術者、寫眞館主の證明を有する寫眞技術者、寫眞學校卒業者にして尋常小學の義務教育を卒へたる者。」と具体的な記述がある。学費は入学金が3円、授業料は3か月で60円。寄宿舎もあったようだ。第1回の入学生がすでに定員を超えているところをみると人気があったのだろう。オリエンタル寫眞學校の第2回生は9月16日に入学式が行われた。この中にはのちに田村茂になる、田村寅重が含まれていた。オリエンタル写真学校は順調に卒業生を世に送りだしていった。植田正治、瑛九、林忠彦、映画監督の木下惠介などがその卒業生である。また、1929(昭和4)年4月27日には菊地東陽が社長に就任している。
 『フォトタイムス』はモダーンフォトセクションというコーナーを雑誌内に設けたことが特徴的であり、新興写真普及のための一翼を担った。1929(昭和4)年3月号には勝田康雄が「モダーンフォトセクション新設に就き」という文章を寄せている。「この欄が増設された原因は主として木村主幹の生活態度がこの二三年来目立つて變化して來た事で之は氏と交際して居られる方なら誰でも容易に認められる事と思ふ。」「要するに氏のかうした生活的心境の變化は遂に寫眞畫壇に於ても舊來のアカデミックな畫風を讃美されると共に所謂ボケた寫眞、それからフオトグラムの類をも認めらえるに至つたのである。」とし、直接的な原因として国際光畫協會が生まれて活発な運動を起こそうとしていること、日本光畫協會に籍をおいている伊達義雄氏を編集部に迎えたことをあげていて、興味深い。しかし、モダーンフォトを定義できているとはいいがたい文章になっていて、まだこの段階では藝術寫眞が主流であって、それ以外のなかから出てきた新たな動きを「モダーンフォト」としてくくっているようだ。ここで名前をあげられた「國際光畫協會」であるが、事務所は府下上落合百八十六番地、つまり村山知義の三角のアトリエである。協會員は、浅野孟府、堀野正雄、勝田康雄、河野元彦、村山知義、中戸川秀一、萩島安二、佐々木太郎、佐々支門。顧問には菊地東陽、木村専一も名を連ねている。堀野正雄のスタジオも上落合にあったので、オリエンタル写真工業、オリエンタル写真学校、モダーンフォトセクションを設けた『フォトタイムス』の編集部もあわせてモダーンフォトに関係する組織が落合地域に集中していたのだった。國際光畫協會は1929(昭和4)年2月15日より23日まで新宿紀伊国屋書店において第一回展覧会を開催、特に印刷に利用すべき商業写真の実例やソヴィエトロシアの宣伝ポスターへの写真の利用など写真単独の作品展示ではないところはMAVOの姿勢を踏襲しているようだ。展示の様子は堀野正雄がレポートしている。第二回展は4月5日から11日まで有楽町の東京朝日新聞社展覧会場で開催されている。矢継早な展覧会開催である。1929(昭和4)年5月号の「モダーンフォトセクション」は「フオトグラムの製作と其の感想」と題した記事を木村専一がよせている。印画紙としてオリエンタルブロマイドのホワイトスムースを使い、木村専一自身が実験的にフォトグラムの制作を行ったことをレポートしている。木村専一は1900年生まれ。森芳太郎に写真を学び、1923(大正12)年にオリエンタル写真工業に入社。1924(大正13)年の『フォトタイムス』の創刊にあたり編集主幹になっている。この木村の影響からか杉田秀夫が「フオトグラムの自由な制作のために」を書いたのは1930(昭和5)年8月号においてである。冒頭「かつて日本に於ける第一番のフォトグラムの技術報告が本誌主幹木村専一氏の手によってなされた」で始まるのちの瑛九の文章である。瑛九は自らのフォトグラムを「フォトデッサン」と命名し、フォトデッサン集を発行した。今でも日本のフォトグラムといえば瑛九の名前があげられるであろう。しかし、その源流は木村専一にあった。モダーンフォトセクションの内容であるが連載が開始された1929年のタイトルと執筆者は以下である。
   1929年3月号 伊達義雄 私の人物畫に付て
            勝田康雄 一九二九年独逸寫眞年鑑
        4月号 伊達義雄 表紙寫眞フオトグラムに就て
            伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究
            堀野正雄 国際光畫協會第一囘展覧會に際して
        5月号 木村専一 フオトグラムの製作と其の感想
            勝田康雄 ソヴイエツト・ロシアの光畫界
        6月号 伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究(二)
            木村専一 フオトグラムの研究
        7月号 田村 榮 表紙寫眞の制作に就て
            有馬光城 一九二九年度 日本光畫協會展雑感
        8月号 伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究(三)
            有馬光城 一九二九年度 日本光畫協會展雑感(二)
        9月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(一)
            伊達義雄 静物畫に就て―光村利弘氏の作品―
       10月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(二)
       11月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(三)
            堀野正雄 肖像寫眞に就て
       12月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(四)
            堀野正雄 再び肖像寫眞について
モダーンフオトセクションは1935(昭和10)年まで続いた。その執筆者たちは以下のごとくである。
 片岡伍朗、山内光、板垣鷹穂、中原三雄、古川成俊、相内武千雄、瀧口修造、五城康雄、清水光、藤代繁、渡邊義雄、モホリー・ナギ、光村利弘、ブラツサイ、ポオル・モラン、田村榮、永田一脩、原弘、稲葉熊野、アーノルト・フアンク、白鳥謙治、新井保男
この中でもっとも登場が多いのは木村専一で18回、堀野正雄が14回、板垣鷹穂と伊達義雄が7回づつ登場している。
モダーンフォトセクション以外にもプロフェッショナルフォトセクション、ステージフォトセクションがあった。とくにステージフォトが単独のセクションで構成されているのは特徴的ではないかと思う。ここでも堀野正雄の影響を感じる。堀野は築地小劇場の舞台写真を初期において数多く撮影していた。1930(昭和5)年、木村専一を中心にして新興寫眞研究會が結成された。そして機関誌『新興寫眞研究』を11月に創刊する。第1号の論文執筆者は、板垣鷹穂、木村專一、堀野正雄、佐藤黒人、平野譲、田村榮。掲載された写真作品の撮影者は、堀野正雄、伊達良雄、玉置辰夫、小川三郎、西山清、吉岡敬三、榊原松籟、鉄 末次郎、徳堂翠鳳、窪川得三郎、宮越吉松、寺川良輝である。第2号は1931(昭和6)年1月に刊行されており、論文の執筆者は、木村專一、平野進一、堀野正雄、平野譲、伊達良雄。掲載された写真の撮影者は、堀野正雄、黒沢中央、玉置辰夫、木村專一、光村利弘、渡邊義雄、石山泰久、飯田幸次郎、平野進一、寺川良輝、阪玉陽、西山清、田村榮である。第3号は1931(昭和6)年7月の刊行で、論文の執筆者は、木村專一、堀野正雄、平野譲、佐藤黒人。掲載された写真の撮影者は堀野正雄、木村專一、田村榮、窪川得三郎、西山清、吉岡敬三、渡邊義雄、平野進一、伊達良雄、古川成俊、光村利弘、寺川良輝である。機関誌は主幹の木村專一の渡欧により、この3号で終刊しているが、展覧会は通算7回、1932(昭和7)年まで開催されている。『フォトタイムス』1931(昭和6)年9月号の写真口絵には飯田幸次郎の「店頭商品(底鐵)」が掲載されており、「新興寫眞研究會第四回出品作品」であるとのキャプションが付記されている。この「第4囘研究発表寫眞展覧会」は1931(昭和6)年7月25日から30日まで上野松坂屋中二階において開催されている。ちなみに第5回は8月10日から25日まで宝塚新温泉大劇場において開催されており、1931(昭和6)年12月号において伊達義雄の「フォトモンターヂュ」と飯田幸次郎の「ビラ」が写真口絵に掲載されている。木村がヨーロッパに訪問した影響であろうか、モダーンフォトセクションにモホリイ・ナジイが登場している。新興寫眞研究會の事務所は東京市外高田町大原1-570番地の木村專一の自宅におかれ例会もそこで開催されたようだ。この時期は編集部員の田村榮が昭和通り三丁目に伊達義雄が上高田118に住むことになったので、落合ではないがオリエンタル写真工業本社のそばに全員が住んでいたことになる。研究会の同人は、西山清、窪川得三郎、寺川良輝、堀野正雄、榊原松籟、鉄 末次郎、吉岡敏三、海部誠也、小林祐史、三国庄次郎、黒田六花。幹事には玉置辰夫、渡邊義雄、田村榮、伊達良雄、平野譲、塩谷成策。
主な会員としては飯田幸次郎、宮越吉松、小川三郎、佐藤黒人、平野進一、徳堂翠鳳、花和銀吾、阪玉陽、石山泰久、黒沢中央、古川成俊、光村利弘、福田勝治、高尾義朗など総勢50名程度であった。展覧会は主に堀野正雄が段取りしていたようだ。木村專一がそのような報告レポートを書いている。1931(昭和6)年9月20日木星社書院から堀野正雄の写真集『カメラ・眼×鐵・構成』が刊行される。板垣鷹穂が監輯した一冊である。「新興藝術の最高峰、尖端的大名著!」というキャッチコピーがつけられた広告が『フォトタイムス』にも掲載されている。「新興」「モダーン」といった流れを形成した、その大きな役割をオリエンタル写真工業ならびに雑誌『フォトタイムス』は果たした。
 2015年7月4日から8月30日に新潟県立美術館、9月19日から11月15日まで世田谷美術館で「生誕100年 写真家・濱谷浩」展が開催された。濱谷は1933(昭和8)年10月にオリエンタル写真工業に就職、銀座の東京出張所に勤務した。写真技師として勤務していた渡邊義雄の手伝いをすることもあったようだ。1934(昭和9)年にはオリエンタル写真学校の講習を受講している。オリエンタル写真工業での勤務は1937(昭和12)年まで続いた。オリエンタル写真工業とオリエンタル写真学校は多くのプロ写真家を育成した。そして新興写真の流れを作ることに『フォトタイムス』は大いに貢献したのだった。これらすべては落合地域でおきた。そしてその源流は幕末の徳川慶喜からの江戸の尻尾であったのかもしれない。
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新宿・落合散歩(14) 気になるオリエンタル写真工業 [落合]

 「新宿・落合散歩」第五章で記述したように西落合・葛ケ谷にはオリエンタル写真工業があった。オリエンタル写真工業は、雑誌『フォトタイムス』を発行した主体であったこと、写真技術の普及のためにオリエンタル写真学校を設立したこと等、写真史の中で写真用材の製造、販売会社のみではない活動を行った会社として特筆すべきだと思っていた。ところが、会社自体のことを調べると会社の設立経緯も興味深いことがわかり、この文章を書いている次第である。

 オリエンタル写真工業の社史をインターネットで検索すると渋沢社史データベースにヒットした。渋沢社史データベースは明治以降日本で出版された全社史約15,000冊の中から、渋沢栄一に関連する会社の社史を中心に約1,500冊分のデータを収録しているもの。ここに『オリエンタル写真工業株式会社三十年史』(1950年5月刊行)も含まれている。つまり、オリエンタル写真工業は渋沢栄一に関連する会社であるということになる。写真という観点で見るならば十五代将軍である徳川慶喜は大の写真好き。また、若き渋沢栄一は江戸遊学の際のつながりから一橋慶喜の家臣となった。そして慶喜が将軍になってからは幕臣となり、幕末期は慶喜の弟・徳川明武の随員としてパリ万博を視察、あわせて欧州諸国を訪問したのだった。ところがこの間、日本では慶喜が大政奉還を行ってしまう。新政府から帰国を命じられた明武と渋沢はマルセイユから帰国した。帰国した渋沢は慶喜が謹慎していた静岡に赴いた。渋沢は慶喜から「お前の道をゆきなさい」の言葉をもらい、静岡で会社をおこした。その後、大隈重信に説得されて改めて大蔵省に入省したのだった。つまり、渋沢栄一は写真好きの徳川慶喜と浅からぬ縁があった(深い縁があったというべきか)ということである。
 では、なぜオリエンタル写真工業の社史が渋沢社史データベースにあるのかである。そもそもオリエンタル写真工業の設立にかかわる中心人物であるのは菊池東陽と勝精である。 
1918(大正7)年6月に勝精は渡米する。そして1919(大正8)年3月、菊地東陽と勝精とが日本に写真工業会社を設立するために帰国の途につく。二人は4月18日に横浜に到着した。菊地東陽にとっては18年ぶりの日本であった。6月19日、華族會舘において「勝伯菊地東陽氏感光乳剤実験会」が開催されている。7月頃、いよいよ写真工業会社の設立に関する協議が進行した。8月19日、赤坂区氷川の勝伯爵邸において会社設立に関する最終決定会議が行われ議決された。会社設立の出資者として菊地、勝が相談していたのは渋沢栄一であった。ところで、伯爵・勝精であるが1899(明治21)年に徳川慶喜の十男として誕生した。勝海舟は実子・小鹿が早世したため徳川慶喜、家達に申し入れ、精を養子とした。1899(明治32)年2月8日、海舟の死去に伴い精は伯爵を授爵した。勝と渋沢、そして慶喜との関係を考えるとオリエンタル写真工業の設立協議はとても興味深い。慶喜が将軍を辞してから暮らした静岡では今でも写真サークルの活動が盛んであると聞いた。何かの関連か影響があるのだろうか。勝精は趣味人であり、写真やビリヤード、猟銃、投網などを大いに楽しんだ。趣味であった写真が嵩じた結果が写真工業を学ぶための渡米であり、日本に帰ってのオリエンタル写真工業の設立であったのだろう。8月24日「オリエンタル写真工業」の社名が決定された。9月22日に勝精伯爵邸において創立総会が開催されオリエンタル写真工業は創立された。11月17日帝国ホテルにおいて首脳者の顔合わせがあり、渋沢栄一、高峰譲吉が出席した。研究部長に勝精、製造部長には菊地東陽が選任された。1920(大正9)年の初頭、菊地東陽はふたたびニーヨークにわたり写真工業会社を運営するにあたり必要な機械や技師の雇い入れに関する契約を締結するなど行っている。この時は英国にもわたり機械の調達を行うとともに英国の写真事情の視察も行っている。8月19日、工場敷地として落合葛ケ谷前耕地一区二千五百五十二坪購入のことを決定した。9月27日に起工、1921(大正10)年6月25日に本社工場は落成している。9月25日には丸の内の日本工業倶楽部においてオリエンタル写真工業株式会社製品発表会を開催している。この年の12月に人像用印画紙オリエントを発売、29日に京橋区鎗屋町一番地に東京営業所を創設、本格的な営業を開始した。順調に製品を発売していったやさきに1923(大正12)年9月1日を迎える。関東大震災によって東京営業所は壊滅。即座に東京営業所を落合工場内に移転した。そして、11月19日には本社を落合工場に移転した。震災の被害は下町では深刻であったが、落合地域は比較的被害が軽く、震災後には多くの転入者を迎えることになった。オリエンタル工業の落合工場も震災後すぐに製造を再開することができた。そして同年中に本社所在地を東京府豊多摩郡落合町大字葛ヶ谷六六〇に移転登記したのだった。一方、オリエンタル写真工業の機関誌である『フォトタイムス』は1924(大正13)年3月に創刊された。『フォトタイムス』はオリエンタル写真工業の宣伝企画課内に設置されたフォトタイムス社が発行した写真雑誌である。この時期の写真の多くはアマチュア写真家が撮影したものであったが、『フォトタイムス』は写真館の経営者を含めたプロの写真家向けの雑誌という側面が強かった。そのため初期の口絵写真はポートレート写真が中心になっている。そもそも創業者の一人である菊地東陽はニューヨークでキクチ・スタジオという写真館を経営しポートレートを主体としていた。キクチ・スタジオといえば面白いエピソードがある。キクチ・スタジオは5番街西42丁目の市立図書館の近くにあったが、1919(大正8)年、菊地東陽がオリエンタル写真工業を設立するために帰国したあとに働いた日本人がいた。のちに雑誌『光畫』で活躍する写真家・中山岩太である。中山は1895年福岡県柳川市出身、1915(大正4)年に東京美術学校臨時写真科に入学、1918(大正7)年に卒業した。そして農商務省の派遣でカリフォルニア大学に学んだ。その後ニューヨークに移住、キクチ・スタジオで働いたのであった。1921(大正10)年9月には西45丁目にラカン(Laquan)スタジオを開設、独立した。これにより安定した生活が可能な収入が得られるようになったが、1926(大正15)年夫婦してフランスに渡る。フランスではマン・レイやエンリコ・プランポリーニと知り合うことになる。1927(昭和2)年4月にパリで未来派第二世代、プランポリーニの「未来派パントマイム」を中山は撮影している。プランポリーニは機械芸術をテーマに掲げたフォトモンタージュを主な手法にしたアーティストであった。当時、パリではシュルレアリスムが未来派を駆逐しており、多くの観衆はシュルレアリスムのイベントの方に参加。未来派パントマイムは人気がなかったという。だが、同じ日に開催されていたにもかかわらず中山岩太は未来派パントマイムの方に出かけていたのである。中山が撮影していたために、その様子が想像できるのだから面白い。この年、中山は帰国。ハナヤ勘兵衛らとともに芦屋カメラクラブを結成する。そして1932(昭和7)年に雑誌『光畫』の創刊に参加する。写真におけるモダニスムを代表する中山岩太の出発点において菊地東陽が間接的にせよ関わっていたのが興味深い。
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新宿・落合散歩(13) [落合]

 プロレタリア文化全盛の時期に入ると落合は落合ソヴィエトと呼ばれる時代を迎える。村山籌子と壺井栄の家はすぐ近く。二人に加えて夫が検挙されていた女優の原泉が夫の支援のために落合を闊歩している姿を想像する。おそらくは三人がともに歩けば背後に特高の尾行がついたのではないだろうか。中野重治と妻の原泉の家は現在の月見岡八幡神社のすぐ近くにあった。その一帯はナップ本部がおかれ、プロレタリア作家同盟がおかれた場所だったので、多くの作家たちが住んでいた。壺井栄の住んだ家の近くには国際文化研究所が設置され、こちらにも多くの文化人が出入りした。ナップ(全日本無産者藝術聯盟)とは距離をおいたが、アナーキスト作家として落合に居をすえたのは平林たい子である。平林は山本虎三とともに村山知義の三角のアトリエにリャク(略奪の意味)にいった経歴をもつ。関東大震災の際には社会主義者として夫婦ともに検挙され、淀橋警察署戸塚分署に勾留された。このときに一緒だったのが柳瀬正夢であった。やがて縁があって柳瀬は平林にマヴォメンバーの高見澤路直(のちの漫画家・田河水泡)を紹介する。その実態としては見合いであった。柳瀬の自宅に築地小劇場の役者である丸山定夫と高見澤がよばれ、その場に平林も呼ばれた。柳瀬の妻の梅子が平林に高見澤のことを説明したという。二人は早々に婚約し高見澤の家で同棲を始めたが、結局のところアナーキストの平林とボルシェビキの高見澤とは合わなかったようである。慰謝料を要求された高見澤は、お金はないが男は紹介するという代替案をだし、平林も承諾した。高見澤が紹介したのは、マヴォのメンバーでありアナーキストであった岡田龍夫である。岡田も下落合に住んでおり、高見澤は平林を目白駅から岡田の家まで送っている。詩人・萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』の装丁や挿画として使われたリノカット版画に才能を発揮した岡田であったが、平林との生活はうまくいかなかった。何人かの詩人や美術家たちと出かけた千葉の海には壺井繁治や妻の栄もいた。この共同生活もうまくいかず、東京に逃げ帰った。のちに世田谷・三軒茶屋において林芙美子、壺井栄、平林たい子の三人が隣近所に住むことになった時期があるが、落合でもすこし距離はあるが同じ町内に三人が住んでいた。平林も板垣直子の批評の対象になり、厳しく論じられもしたが、それは板垣直子の期待の顕れでもあり、エールでもあったと思われる。
 雑誌『女人藝術』に執筆した、その他の女性作家たちをみておこう。まずは大田洋子である。大田洋子が上落合に住んだのは1931(昭和6)年から1933(昭和8)年頃のこと。545番地の梅田さんのところの借間だったようだ。『女人藝術』に小説を書いたが、広島出身だった大田が作家として有名になったのは、戦後。原爆に関しての作品によってであった。作品集『屍の街』(1948年刊)は特に大田洋子の代表作として有名である。次に秋田出身の矢田津世子である。矢田は秋田に生まれたが、小学低学年のときに飯田橋に引越してくる。のちに日本興銀に勤めるが、生命保険会社に勤務する兄の名古屋転勤に一家は従い、津世子も興銀を辞めて名古屋に移住した。1929(昭和4)年『女人藝術』名古屋支部の設立に津世子も参加、1930(昭和5)年には小説「反逆」を執筆、『女人藝術』に掲載された。また、『文学時代』の懸賞小説に「罠を跳び越える女」を応募、入選した。1931(昭和6)年に単身上京も、翌年には兄が東京転勤となって下落合に一家で暮らすことになった。下落合1986番地でのこと。山手通りと新目白通りの交差点に近い場所である。1944(昭和19)年3月に亡くなるまでの期間、矢田津世子はこの地に住んだ。坂口安吾の恋人であった時期もあった。1936(昭和11)年3月に発表した小説「神楽坂」が第三回芥川賞の候補となり、12月に改造社から『神楽坂』は出版された。戦後も健在ならば、また違った作品を残したのではないかと考えると残念である。宮本百合子は上落合740番地に1934(昭和9)年11月から1937(昭和12)年1月まで暮らした。夫の顕治が獄中にあった時期にあたる。宮本百合子にとっても自由な活動が許されず、厳しい時期であったろう。これ以前は事実婚であった二人であったが、面会や差し入れなどの都合から戸籍上も夫婦になった方が良いとの判断があったようだ。百合子と親しかった湯浅芳子が地下に潜ったのち、資金援助を湯浅に行ったという嫌疑で、矢田津世子は取り調べを受けている。1928(昭和3)年の衆議院議員選挙において普通選挙法に基づく選挙を行った。しかし、それは25歳以上の男子に限っていた。それでも思想的弾圧を伴っての選挙であったのだ。普通選挙といいながら、女性には参政権はなかった。女性が参政権を得たのは何と戦後になってから。1946(昭和21)年にはじめて女性議員が誕生した。『青鞜』(1911年創刊)で始まった女性の闘いは参政権獲得でいえば34年もかかってしまった。1920-30年代、落合は女性作家たちにとっても重要な土地であった。しかし、大きな戦争に傾斜してゆく中、自由な表現を制限される厳しい状況のなかでの活動でもあった。
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新宿・落合散歩(12) [落合]

 吉屋信子と尾崎翠はともに投稿雑誌の常連の二人。さきに吉屋信子が下落合の高台の上に居を構えた(下落合2108番地)。1926(大正15)年のことである。尾崎が上落合850番地に越してくるのは1927(昭和2)年のはじめのころ。親友の松下文子とともに住んだ。尾崎が上落合での生活の前半時期に書いた文章の多くは『女人藝術』に掲載されているが、松下文子もまた『女人藝術』に執筆している。尾崎が上落合に居を構える契機をつくったのは同郷の涌島義博と田中古代子夫妻の存在。ふたりは少なくとも1926(大正15)年に上落合546番地に住んでいる。これは『鳥取無産県人会報』に記載された会員名簿によって確かめることができる。尾崎と涌島夫妻は鳥取において同人誌『水脈』での同人仲間。涌島は同じく同郷の先輩である橋浦泰雄とともに足助素一の叢文閣で本作りを学び、独立して南宋書院をおこす。この南宋書院から林芙美子の第一詩集『蒼馬を見たり』は出版された(1930年)のだが、松下文子の資金提供によって実現された。妻の古代子は1921(大正10)年に大阪朝日新聞の懸賞小説に「諦観」を応募、二等入選を果たしている。1924(大正13)年に上京、大阪朝日新聞に「煙草」を連載するなどした作家。1932(昭和7)年に鳥取に帰るので、尾崎とほぼ同じタイミングで東京に来、鳥取に帰ったことになる。これも運命だろうか。この上落合の妙正寺川のほとりにあった尾崎と松下同居の850番地の家によく遊びに来ていたのが杉並妙法寺そばに手塚緑敏と住んでいた林芙美子であり、林は『女人藝術』第2号に詩「黍畑」を書いている。そして第3号には「秋が来たんだ」を執筆、第4号からはそれが連載されることとなり、「放浪記」にまとまっていった。尾崎が松下と暮らした最初の借家を出て近くの大工の家(842番地)の2階に越したあと、林芙美子が1930(昭和5)年初夏に850番地に越してくる。この借家に住んだのちに改造社の新鋭文学叢書の一冊として『放浪記』は刊行された。このシリーズはモダニスム文学とプロレタリア文学の先鋭作家を網羅、表紙を画家の古賀春江が描いている。すばらしくモダンな造本である。ちなみに改造社のこの叢書の編集者は作家・大田洋子の元夫であって、労働争議にかかわり解雇されたのちは、下落合の早くからの住人でもある画家の金山平三のアトリエでダンスを教えていたらしい。このアトリエは東北大震災前までは中井二の坂上に健在であったが、今は取り壊されてしまった。吉屋信子の家は五の坂上にあった。今でもそこに立つと新宿の高層ビル群がすべて見渡せる素晴らしいロケーションだ。当時も新宿淀橋あたりが一望できたのだろう。その吉屋信子の下落合の家には上落合に住む村山籌子が軍に拠出するために育てた犬を売りにいっていたようで、長男の亜土のエッセイにはそのときの様子が記述されている。吉屋が犬を連れて散歩する姿は目白文化村界隈で頻繁に目撃されているので、犬好きであったようだ。この吉屋の家の少し北側に1925(大正14)年には高群逸枝が夫の橋本憲三とともに越してくる。東中野からの転居であったが、この借家を探したのは同郷の作家、小山勝清であった。この時期、小山のところには歌人で映画脚本家の美濃部長行や挿絵画家である竹中英太郎が居候していたか隣人としてこの地域に住んでいた。高群の家は小山の自宅のすぐそばであって引っ越した当初の隣家には複数の詩人たちが共同で暮らしており、そのなかに春山行夫もいたと高群が書いている。名古屋のサン・サシオンのメンバーであった春山は、メンバーの中心的な存在である松下春雄や鬼頭鍋三郎などを頼って震災後に上京してきていた。春山は次の家でも同郷メンバーによる共同生活を行い、下落合での新たな借間には松下春雄も同居した。高群は『火の国の女の日記』(一九六六年 理論社)に下落合在住当時の生活の様子を描いている。この時期は下落合の家に安定した時期にあたる。高群の日記を引用しよう。
          
二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。
この家ではもはや訪問客はかたく排除された。球磨の四浦出身の小山たまえ夫人だけがときどき長女の美いちゃんを連れて故郷の話をしにやってくるぐらいだった。
彼を、夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者さんの洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。下落合の日日は幸福だった。 (『火の国の女の日記』四二 「下落合界隈」より抜粋)

「古屋さんという学者さんの洋館」はつい最近まで中井・五の坂の途中にあった。だが、取り壊されて今はない。古屋さんとは医学者の古屋芳雄。『レンブラント』の翻訳者であり、白樺派の作家でもある。古屋の肖像は岸田劉生が描いており、「草持てる男の像」と題されて東京国立近代美術館に収蔵されている。「芸術村」という俗称であるが、金山平三が「アビラ村」と呼び、芸術家村として開発しようと構想した名残なのだろう。高群は詩集『日月の上に』(1921年 叢文閣)を生田長江に評価されて世に出ていた。アナーキスト新進詩人として出発した高群であったが、下落合にあった時期、詩人は女性問題研究家へと次第にその貌を変えていった。『戀愛創生』はそうした時期に書かれた高群の著作である。萬世閣より1926(大正15)年に刊行されている。1926(大正15)年11月、橋本憲三と高群逸枝夫妻は下落合の高台をくだり、上沼袋に転居した。東京熊本県人村の住人であった小山勝清も竹中英太郎も1928(昭和3)年頃までには下落合から転居してしまう。1927(昭和2)年に越してきて以来、上落合の妙正寺川近くに居を構えたのは尾崎翠であった。その尾崎を慕って上落合に転居してきた林芙美子が売れるようになってからも、もっと交通の便利な場所への転居を編集はじめとする周囲から勧められながらも結局は落合を離れなかったのは、彼女のエッセイ「落合町山川記」にあるように妙正寺川を見て、故郷の山河を思い出すことができたからではないかと思う。居心地がよかったのだろう。このことは尾崎翠も同様であったのではなかったかと私は感じている。尾崎の故郷、岩井温泉を貫く蒲生川を思い出させる妙正寺川のそばを離れたくなかったのではないだろうか。上落合850番地で同居した松下文子が結婚によって転居した際にも、尾崎はすぐそばの貸間に転居するのである。この家の南には庭があり、その先は小川が流れていた。そして小川の先の空地には桐や桃が林をなしていたのであった。高群の日記のように下落合の高台には植木畑がひろがっていた。一帯は木々の緑と多くの川や水路が美しい景色をなしていた。そうした故郷にも似た風景の中、尾崎翠や林芙美子は素晴らしい小説を書き上げた。林はその後、五の坂途中にあった下落合の洋館に越した。尾崎は上落合に残り、「映画漫想」を書いてゆく。映画にまつわる感想を綴ったエッセイは時に詩文のような輝きを見せる。尾崎は新宿武蔵野館にゆき洋画を見、上落合の映画館「公楽キネマ」にいって邦画を見ていた。大家である大工の奥さんが阪東妻三郎の大ファンであったので、二人してバンツマの映画を見にいっていたようである。林芙美子の日記にも公楽キネマに尾崎翠と映画を見にゆき、帰りに板垣直子のところによって夜遅くまで三人で話し込んだとの記述があった。尾崎の小説「第七官界彷徨」全文が板垣鷹穂が編集主幹をつとめる雑誌『新興藝術研究』第二輯に掲載された直後のことであった。公楽キネマで映画を見るという点では、村山籌子が獄中の夫・知義へ出した手紙の中に「山内さん(山内光=岡田桑三のこと)と一緒に公楽キネマに映画(傾向映画である「斬人斬馬剣」)を見に行った」との記述がある。尾崎翠の主要な作品「第七官界彷徨」も「歩行」も「こほろぎ嬢」も「地下室アントンの一夜」も上落合で書かれた。従い、実際に歩いてみると周囲の様子を特定できない形ではあるが、描写していることがよくわかる。児童文学作家・樺山千代は尾崎と親しくつきあい、詩人生田春月は上落合に住む尾崎・樺山のところにときに遊びにきていたようだ。樺山の家は尾崎の下宿から南に坂を登ったところにあり、板垣直子の家に近かった。二人は樺山の家のそばにあった帝国湯に一緒に行ったりもするなど大の仲良しであった。
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新宿・落合散歩(11) [落合]

第八章:女性作家たちの落合

 女性作家が自覚をもって本格的に台頭してきたのは大正末期から昭和初期にかけての時期であったと考える。もちろん雑誌『青鞜』の存在は大きく、女性解放運動の先鞭をつける先進的な動きであった。平塚雷鳥や与謝野晶子、神近市子、そして伊藤野枝。このうち、落合に実際に住んだことがあるのは神近市子である。一方、昭和に入ってから創刊された『女人藝術』は自覚をもって文学と向き合おうとしはじめた女性作家たちの活動の場として重要な位置を占めた。そもそも『女人藝術』は作家にして戯曲家である長谷川時雨がその夫・三上於菟吉から平凡社の円本企画「現代大衆文学全集」の印税をプレゼントされて始めた雑誌であった。この円本企画、推進したのは社長の下中彌三郎と社員の橋本憲三であるが、下中も一時目白文化村近くに住んでいたし、橋本は妻の高群逸枝とともに1926(大正15)年に下落合に住んでいた。落合住人でもある平凡社の二人が推進した全集に取り上げられ、その印税が入った三上は妻の時雨に指輪でも買ってやろうと思ったらしい。だが、時雨は指輪はいらないから、雑誌の資金として提供してほしいと希望した。これが雑誌『女人藝術』の創刊につながるのだから面白い。1928(昭和3)年、おりしも日本は金融恐慌のさなかにあり、この年の5月、メインバンクである加島銀行倒産の影響をうけてプラトン社は倒産している。プラトン社の発行していた雑誌『女性』は終刊していた。そのような難しい時期に『女人藝術』は創刊されたのだ。時雨は後進に発表の場を開き婦人の解放を進めるため、女性が書いて編集し、デザインして出版する商業雑誌として『女人藝術』を企画した。創刊号は1928(昭和3)年7月に発行された。創刊時の発行人は長谷川時雨、編集人は素川絹子、印刷人は生田花世がつとめた。発行所である女人藝術社は牛込区左内町の時雨の自宅においた。『女人藝術』自体が落合で編集されたり、発行されたりすることはなかったが、参加した女性作家たちの多くが落合に住んでいた。思いつくままに列記してみよう。吉屋信子、村山籌子、林芙美子、尾崎翠、神近市子、高群逸枝、宮本百合子、真杉静江、窪川稲子、平林たい子、矢田津世子、大田洋子など。これらの作家のところへ頻繁に別の女性作家が訪問していたというから、落合はこの時期、女性作家たちのコロニーのような土地であったといえるかもしれない。宇野千代、戸田豊子、中本たか子などは落合地域に頻繁に出入りしていたようだ。これら作家のほかにも文藝評論家、板垣直子がいる。板垣直子は美術評論家、板垣鷹穂の妻。1933(昭和8)年に東京啓松堂から刊行された『文藝ノート』には多くの女性作家を取り上げ独自の視点で論じている。誉めるというよりも辛辣に批判している筆致こそ板垣直子らしく魅力的である。この東京啓松堂であるが、女性作家たちの著作をシリーズとして刊行しており、平林たい子の『花子の結婚其の他』、林芙美子『わたしの落書』、尾崎翠『第七官界彷徨』、城夏子『白い貝殻』など錚々たるメンバー、作品がそろっているが、これはあきらかに板垣直子のセレクトである。このシリーズは雑誌『火の鳥』に執筆した女性作家たちの作品集という形で出版されている。雑誌『火の鳥』を創刊した竹島きみ子(渡辺とめ子)は佐佐木信綱の『心の花』に所属する歌人であった。そして未亡人となった竹島に雑誌創刊を勧め資金の援助をしたのは、やはり『心の花』の歌人である片山廣子であった。『火の鳥』は1928(昭和3)年10月の創刊である。まさに同年7月に『女人藝術』が創刊されたが、その直後の創刊であった。菊判60ページの体裁、創刊号には窪川いね子、やはり『心の花』所属の五島美代子、林政江、小金井素子らが寄稿している。当時の『心の花』の代表女流歌人は下落合との関係がある。九條武子である。女性作家たちが落合地域に住むようになる時期は画家たちと同様、震災後の時期からであるが、震災直後に九條武子は下落合に越してきた。落合ではなく上屋敷(南池袋)であるが、下落合の九條武子の邸宅からそれほど遠くはない場所に親友の柳原白蓮が住んだので、これを追いかけてきたような印象すらある。1927(昭和2)年夏、九條武子は歌集『無憂華』を出版、その出版記念会が開催される。この記念会の発起人に渡辺とめ子は名前を連らねている。そして、片山廣子も出席している。片山廣子であるが、1878年2月10日、東京麻布生まれ。東洋英和を卒業、すぐに『心の花』に所属している。1916(大正5)年には竹柏会出版部から第一歌集『翡翠』(かわせみ)を刊行している。『翡翠』は歌集として秀逸である。
 NHKの朝の連続ドラマで「花子とアン」が放映され、柳原白蓮(宮崎白蓮)にばかり脚光があたったが、松村みね子の翻訳ネームでアイルランド文学を翻訳した片山廣子の存在は大きく、村岡花子にとても大きな影響を与えた。村岡が大森に居を構えたのは片山の家があったからだという。片山廣子の子息は村山知義と小学校の同級生。なにかと人脈はつながっている。ちなみに林芙美子の有名な色紙「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」の詩文はその全文が不明であったが、村岡花子にあてた林芙美子の手紙のなかに12行の詩文が書かれていたのが最近になって発見された。歌人ということであれば中原綾子がやはり下落合に住んだ。中原は与謝野晶子の門人である。
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新宿・落合散歩(10) [落合]

 これほどまでにプロレタリア文化関係者が集まり住んだ例はさすがに上落合以外にはないのではないかと考える。この時期の落合が「落合ソヴィエト」と呼ばれる所以である。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)のほか、全日本無産者藝術聯盟傘下の文化組織は日本プロレタリア劇場同盟(プロット)、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)、日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)、日本プロレタリア音楽同盟(PM)、日本プロレタリア写真家同盟(プロフォト)があった。上落合の場合、作家同盟に属する作家が多いが、プロットメンバーもプロキノやヤップメンバーも居住していた。
 村山知義と籌子が三角のアトリエにおいて共同制作したアニメ映画「三匹の小熊さん」の製作は婦人之友会、監督はプロキノ出身の岩崎昶、撮影もプロキノ出身の並木晋作であった。子供向けの技術的には稚拙なアニメではあるが、内容も作画もとても面白い。もともとは雑誌『子供之友』1924年から28年にかけて掲載されたもので、籌子が話を書き、知義が絵を描いたもの。アニメ映画は婦人之友社の会員(婦人之友会)向けの文化祭のようなイベントの際に上映されたようである。この事例でみるとおり、プロレタリア文化とくくってはいても、表現様式は多彩であり、ロシア革命の初期の段階でロシア・アヴァンギャルドの構成主義的な前衛表現が革命のプロパガンダに活用されたように、プロレタリア文化においてもアヴァンギャルドな表現要素や前衛的な表現内容も内包していたといえる。もちろん「三匹の小熊さん」はそうした前衛表現からは遠いが、子供向けのアニメをプロキノの二人がフィルム化を担当し、ナルプやプロットの二人が物語を構成するという興味深いスタッフ組になっている。監督を勤めた岩崎は映画評論の分野で後に大活躍をすることになる。

 プロレタリア文化は現在考える以上に前衛的で刺激的な表現であったのだろう、当時の新鋭文学叢書(改造社)のラインナップの約半数はプロレタリア文学が占めている。小林多喜二、中本たか子、平林たい子、黒島傳治、武田麟太郎、林房雄、中野重治、窪川いね子、岩藤雪夫、鹿地亘、岡田禎子、貴司山治、芹澤光治良、立野信之、徳永直、片岡鐡平、橋本英吉がとりあげられている。当時のモダニズム文学とともに新鋭、前衛としての位置をしめていたのであった。演劇でも映画でも美術でも同様で、演劇においては築地小劇場など、映画においては傾向映画的な表現などが現れてくる。籌子は公楽キネマにおいて「斬人斬馬剣」という傾向映画の代表作を見て、しかしやや批判的に批評した手紙を獄中の知義に送っている。

 1930(昭和5)年の弾圧において、検挙された作家や演劇人の容疑は資金提供であった。しかし、その後の弾圧や検挙は直接に治安維持法違反の嫌疑によっており、当然のごとく取り調べは苛烈を極めてゆく。作家同盟所属の作家たちもその対象になっていったが、1930年に難を逃れた蔵原ものちに逮捕、拘留された。柳瀬正夢は1931(昭和6)年のアサヒグラフに馬になって娘を背中にのせて笑顔で写真に写っていたが、その同じ年には検挙されてしまう。山田清三郎のあとを受けて『戦旗』の編集長になった壺井繁治も検挙されるに及び、作家たちの対応はあきらかに分裂を始める。林房雄のように獄中転向を表明するもの、柳瀬正夢のように転向表明はしないが、公式な活動は行わないことを条件に釈放されるもの、小林多喜二のように転向をせず地下に潜って活動を続けることを決意し、共産党に入党するものなどに分かれていった。蔵原惟人や小林多喜二は地下に潜伏し活動を継続することを決意、特別高等警察の執拗な追及をかわしていった。周囲もその逃亡に協力し、たとえば籌子は自分の口からいったことは一度もないが多喜二への連絡役として多喜二を支えた。籌子は『少年戦旗』の編集などを仕事にしながら夫の帰りを待ちながらという状況であったが、危険な連絡役も行うなど社会主義運動をかげで支えた一人であった。おそらく、特高警察にしてみれば、常に追い続け、自由が次第になくなって追いつめられているはずの小林多喜二が、そのような状況にあっても雑誌に文章を新たに書き、掲載してゆく事実に耐えられなかったであろう。多喜二は地下に潜ってからも書き続けていた。その執念は鬼気迫るものがある。

 上落合に住んだ評論家・板垣鷹穂が編集主幹をしていた雑誌『新興藝術研究』第1輯はプロレタリア文学の特集号であったし、尾崎翠の「第七官界彷徨」が掲載された第2輯には「壁小説と「短い」短篇小説」という小林多喜二の文章が掲載されている。この雑誌の発行は1931(昭和6)年6月である。おそらく、この時期の上落合は夫たちが警察にひっぱれてしまい、その留守宅を守りながら同盟員の帰還への活動を続ける妻たちの姿が見られたことだろう。村山籌子、壺井栄、中野重治の妻である女優の原泉、後に宮本百合子もそれに加わる。落合は震災の被害が少なかったために郊外住宅地として開発が進み、多くの文化人たちも集まり住むようになった場所であるが、震災を契機に成立した治安維持法によって住民でもある作家や文化人たちが追いつめられてゆくという結果につながった。背景には日本という国家の植民地政策と欧米諸国との対立、それに伴う戦時国家体制への変化がある。まさに1931(昭和6)9月、満州事変が勃発する。満州事変は軍事的には一見大成功を短期間に手中にしたようにみえ、独断実行した陸軍の発言力が強まり、その後の日本の針路を狂わせてしまう。日本は中国北部の権益を守るためのきわめて厳しい外交交渉を結果として放棄、一気に戦時体制にころがり落ちていった。結果は悲惨な敗戦と多くの戦死者、それ以上の市民の犠牲者の数であった。まさに戦時体制に向かう道筋に上落合を中心にしたプロレタリア藝術家たちは巻き込まれてしまったのだった。最終的に時代の転換点を示す事件は、小林多喜二によってもたらされた。落合の住人ではないが、小林多喜二のこの時期を見てみよう。「蟹工船」を書いたのは1929(昭和4)年。1930(昭和5)年春には東京に転居している。5月中旬から関西に講演にゆき、大阪で検挙。6月にいったん保釈、出獄するが立野信之宅にて再逮捕、治安維持法違反の容疑で豊多摩刑務所に収監された。1931(昭和6)年1月下旬に保釈、出獄。10月に非合法の共産党に入党している。まさに満州事変勃発直後のことである。これは、戦時体制の整備と無関係ではない。対中国侵略戦争を行うと同時に国内においては労働運動、左翼思想家、社会主義的な考え方、つまり戦争反対の声をたたきつぶしておく必要があったのだ。この目的に天下の悪法といわれた治安維持法は使われていった。多喜二の例をみていただきたい。小樽では彼は北海道拓殖銀行の銀行員であった。仕事をしながら文章を書き、活動を行いという二足のわらじをはく状態。拓銀を解雇され上京してからは、作家同盟の書記長となり、講演に関西にいっている間に検挙され、ほとんど普通の生活をしないまま地下に潜伏することになってしまっている。本格的に地下に潜ったのは1932(昭和7)年のことであるが、非合法の共産党入党の時点で地下潜伏に近い状態であったものと思われる。多喜二のすごいのはこうした経験も作品にしてしまうことで、地下潜伏の経験をもとに8月には『党生活者』を執筆した。これも特高警察には許せなかっただろう。まるであざ笑われたと感じただろう。多喜二が検挙されたのは1933(昭和8)年2月20日。赤坂で検束され築地署に連行され拷問されたすえ、19時45分に築地署裏の前田病院において死亡が確認された。
 多喜二死亡は獄中の村山知義にもしらされた。それは籌子によってである。村山亜土の『母と歩く時』の「小林多喜二」の一節を引用したい。

前年四月、父は治安維持法違反ということで投獄されていたのだ。長髪の父しか知らない私が、別人だと思って、一瞬、ポカーンと見上げていると、母が「お父さんよ」と背中を押した。私は戸惑い、「えーっと、これ」と、オーバーのポケットに持っていたキャラメルを差し出した。父の顔が困ったように笑った。すると、看守が立ち上がり、「だめだ、だめだ!」と手を振った。私が立ちすくむと、母が私をうしろ抱きにして、ハンドバックを私の胸に押しあてて、じっと静止した。そのイギリス製のハンドバックは、母が自由学園の学生の頃からのもので、やわらかい黒皮、縦二十センチ、横三十センチほどであった。それを見て、父の目がカッと大きくなり、宙を泳ぎ、暗く沈んだ。母はわざと、本や、下着や、弁当の差し入れについて早口に話していたが、ハンドバックには白墨でこう書いてあったという。「タキジコロサレタ」。

戦時体制への急激な落下、その過程においてプロレタリア文化は圧殺された。のみならず「自由な表現」そのものが圧殺されたのであった。
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新宿・落合散歩(9) [落合]

第七章:落合ソヴィエト

 村山知義の妻、籌子から獄中の知義への手紙を読むと(『ありし日の妻の手紙』)、二人の間の長男である亜土のことを書いており、「最近アドちゃんはピオニール活動に夢中で・・・」というくだりがある。革命後のソヴィエト連邦においては、共産党の下部に10歳から15歳までの少年少女たちを構成した組織が形成され「ピオニール」と呼ばれ、さまざまな活動を行ったが、上落合地域においても日本版ピオニールが形成され活動が行われたのであろうことがわかる。治安維持法違反の疑いで村山知義が獄中にいたのは1930(昭和5)年5月20日からであり、この頃の上落合は「落合ソヴィエト」と呼ばれるようにプロレタリア文学者、美術家、演劇人、映画関係者などが集まり住んでいた。この集合の発端は1928(昭和3)年にある。関東大震災後の日本は一方で普通選挙を約束しながら、他方で治安維持法を成立させ、年々その適用範囲を広げ、罰則を厳罰化していった。1928(昭和3)年は初めての普通選挙が行われるタイミングであったが、同時に労農党や労働組合を弾圧する機会にもされていた。小林多喜二が小説「一九二八・三・一五」に書いたように3・15事件がおき、党員や組合幹部は検挙され、苛烈な拷問にさらされることになった。この動きに呼応するようにプロレタリア陣営は蔵原惟人の呼びかけのもと結集し、全日本無産者藝術聯盟をつくった。この本部が置かれたのが上落合であった。場所は村山知義と籌子の三角のアトリエの家から下落合駅の方に向かう道に沿った場所である。もともと村山知義は純粋芸術志向であって社会主義的ではなかった。前衛芸術集団マヴォの時期、社会主義的志向をもっていたのは柳瀬正夢であり、村山をオルグしていたのも柳瀬であった。だが、初期の村山は社会主義に関心をもたなかった。村山に変化が生じるのは籌子と結婚した後である。籌子は詩人にして童話作家であり、雑誌『婦人之友』の記者であったが、社会主義的な志向を強くもってもいた。煮え切らない夫を叱咤激励したものと思われる。また、知義も震災後の築地小劇場に関わり、社会主義的な考え方に接する機会が増えていた。柳瀬は初期の社会主義思想家たちのよってたつ基盤となった雑誌『種蒔く人』の同人であり、「無産者新聞」や長谷川如是閑や大山郁夫の雑誌『我等』に深くかかわってゆく。また『文藝戦線』の同人でもあった。『文藝戦線』は1927(昭和2)年7月に分裂結成された労農芸術家連盟の機関誌である。いわゆる「労藝」は日本プロレタリア芸術連盟を除名された蔵原惟人、葉山嘉樹、小堀甚二、前田河広一郎などが中心になってつくったグループ。ここには村山や柳瀬、落合在住の山田清三郎や平林たい子などが参加している。山田清三郎は『文藝戦線』の編集としてこの機関誌に深くかかわっていた。平林は小説を執筆、柳瀬や村山は表紙を描いたりしている。この当時小樽にいた小林多喜二は分裂後の労藝に加わっている。11月、編集に携わっていた山田が山川均に依頼したエッセーをめぐって内部対立が生じ、掲載に反対の立場をとった蔵原惟人、山田清三郎、藤森成吉、村山知義などが脱退、前衛芸術家同盟を新たに結成した。機関誌は『前衛』である。それから数カ月後に3・15事件を迎え、蔵原の提唱により全日本無産者藝術聯盟が成立したのだった。ここには日本プロレタリア藝術聯盟の鹿地亘や中野重治、左翼藝術同盟の壺井繁治や三好十郎、上田廣なども参加することになった。まさに左翼各団体が結集する形になったのであった。この本部が上落合におかれた。また近隣には日本プロレタリア作家同盟や国際文化研究所、戦旗発行所などが配置され、多くの関係者が上落合に越して来た。この地域に入ってくる時期に多少の前後はあるが、下落合側から中井側にたどるならば、住所は戸塚ながら窪川稲子、芹沢光治良、佐々木孝丸、中野重治、武田麟太郎、鹿地亘、村山知義、村山籌子、神近市子、黒島伝治、壺井繁治、壺井栄、蔵原惟人、小川信一、立野信之、宮本百合子、山田清三郎、上野壮夫、小坂たき子、今野大力、片岡鉄平、画家の柳瀬正夢、松山文雄などがいる。また、労藝に残った平林たい子も落合地域に居住していた。純粋なプロレタリア文学者ではないが、林芙美子も1930(昭和5)年に上落合に越してきたので、三軒茶屋で軒をならべていた林、平林、壺井という3人の女性作家がふたたび上落合において結集したことになる。また、今まで落合散歩に登場させた人物との関係でいえば、佐々木孝丸を取り上げる必要がある。佐々木は演劇人であるが、『種蒔く人』に参加、同人になっている。ちなみに『種蒔く人』の表紙を描いたのは柳瀬正夢であり、爆弾がデザインされた過激なものだった。佐々木は新宿中村屋サロンでの朗読や演劇などのつながりから秋田雨雀や有島武郎と交流があり、第二回メーデーの際には秋田雨雀の紹介で鳥取出身の橋浦泰雄や涌島義博と知り合っている。橋浦は鳥取出身者によって発行された『壊人』にかかわっていたので、秋田の『種蒔く人』と鳥取の『壊人』とが出会った瞬間ともいうことができる。何冊かの翻訳の著作がある佐々木であるが、革命歌「インターナショナル」の日本語訳詞も佐々木孝丸のもの。佐々木は村山の家のすぐ近くに住んでいた。1898年北海道・標茶の生まれ。戦前の演劇人、思想家の印象が強いが、戦後も役者を続け、数多くの映画やドラマに出演している(仮面ライダーにも出演)。佐々木の『風雪新劇志 わが半生の記』にはこの時期の落合での生活ぶりが描かれている。佐々木は落合への愛着が深かったのか、ペンネーム「落合三郎」名義での執筆もしている。この佐々木孝丸、橋浦泰雄、柳瀬正夢との関係は面白く、演劇での佐々木と柳瀬、絵画における橋浦と柳瀬(橋浦は日本画家である)、生協活動における橋浦と柳瀬など協力関係や協業、共通点などがある。作品頒布会という仕組みで、絵画作品を販売する方法でも橋浦も柳瀬も共通して頒布会を運営されたが、橋浦の購入者には柳田國男が常にいた。橋浦泰雄は民俗学者として柳田の弟子であり、柳田は橋浦を大切に考えていたに違いない。

 全日本無産者藝術聯盟の下部に組織された日本プレタリア作家同盟の会合は上落合の村山の自宅でも開催されたようで、東京に出てきてからの小林多喜二も出席していた。このことは村山知義と籌子のあいだに生れた長男、村山亜土の『母と歩く時』にその記述がある。三角のアトリエで開催された例会の際に多喜二の膝にだっこされた思い出が書かれていて、ほほえましい。後に多喜二が非合法な共産党の党員になり、地下にもぐった際には、その連絡係を母である籌子が担当したことを思うと、余計に印象深い描写である。
 のちに直木賞作家となる立野信之は機関誌『戦旗』の編集に関わっていた。『青春物語・その時代と人間像』には当時のことが書かれており、上落合の国際文化研究所に居住していたこと、蔵原惟人から小林多喜二の「一九二八・三・一五」の原稿を預かり、立野が一部を伏字に直して『戦旗』1928(昭和3)年11月号、12月号に掲載した際の経緯が書かれている。これによれば、蔵原も国際文化研究所に立野と同居していた時期があったようだ。1930(昭和5)年、村山知義、立野信之、中野重治、小林多喜二といったプロレタリア作家同盟のメンバーたちは次々に検挙されていった。共産党への資金提供の容疑であった。もちろん『赤旗』は非合法であり、ひそかに回し読みされていた。このとき、蔵原はソ連を訪問していたために検挙を免れた。ソ連からひそかに帰国した後、村山籌子の手引きにより釈放された立野信之と小林多喜二とは蔵原と面会している。多喜二は蔵原との面会を強く望んでいたが、籌子の仲介により実現できたのだった。

 全日本無産者藝術聯盟の機関誌である『戦旗』。表紙は村山知義、柳瀬正夢、松山文雄などが描いた。とくに柳瀬のものは傑作であった。初代の編集長は山田清三郎、のちに壺井繁治が担当する。『戦旗』にはプロレタリア文学の傑作といわれる、徳永直の「太陽のない街」や小林多喜二の「一九二八・三・一五」や「蟹工船」などが掲載された。落合の地名は妙正寺川と神田川が合流する場所に由来する。この合流点は現在の西武新宿線の下落合駅の少し東側にあった。このそばに窪川稲子は住んでいた。ここを起点に落合ソヴィエトを歩いてみよう。現在の下落合駅の西側を通る上落合中通りを南に向かい、中通りと八幡通りの間の土地に全日本無産者藝術聯盟本部がある。その道をはさんだ向かい側にプロレタリア作家同盟があり、ここには武田麟太郎が住んだ。すぐ南側には佐々木孝丸が、すこし西側に中野重治がいた。八幡通り側には芹沢光治良や鹿地亘がいた。現在の月見ヶ丘八幡宮の前を通り進むと村山知義、籌子の住む三角のアトリエの家がある。その先の昭和通り(現在の早稲田通り)には籌子や作家の尾崎翠、林芙美子が訪れていた映画館、公楽キネマがあった。籌子は山内光とともに「傾向映画」を公楽キネマで見ていた。三角のアトリエから西に向かうと上落合中通りにでるが、その下落合駅よりには神近市子が住んだ。中通りを突き抜け、さらに西へと向かうと左手に黒島伝治、壺井繁治、栄がいた。右に路地を入ると国際文化研究所があり、蔵原惟人や立野信之、小川信一がいた。通りをさらに西へむかうと中井にでる。中井の妙正寺川にそった場所には戦旗発行所がおかれていた時期がある。中井駅を超えて小学校の南側に宮本百合子は住んだ。山手通りにでて板垣鷹穂の家の前には柳瀬正夢が一時住んだ。板垣邸の北の路地を西に入り、道なりにさらに北にむかうと山田清三郎がいた。さらに北に向かうと落合火葬場に向かう道にでる。少し西にむかい北に入ると尾崎一雄が「なめくじ横丁」と呼んだ長屋があった地域にでるが、ここには壇一雄や尾崎一雄も住んだが、上野壮夫・小坂たき子が住んでいた。さらに北に向かうと坂をくだり低地になる。ここは三ノ輪と呼ばれる場所で尾崎翠や林芙美子がいた。そこからさらに北に向かうと妙正寺川を美仲橋で渡り、中井五の坂を登ることになる。坂の途中には林芙美子が住んだ洋館があり、さらに坂を登ると坂の中腹に古屋芳雄の洋館がある。坂を登り切った高台の上には吉屋信子がいた。1925(大正14)年にはこの台地にアナキストの橋本憲三、高群逸枝、挿絵画家の竹中英太郎、作家の小山勝清が住んでいた。さらに北の地域に平林たい子や片岡鉄平がいた。また画家の松山文雄や出獄後の柳瀬正夢が住んだアトリエ(急逝したサンサシオンの松下春雄のアトリエ)があった。
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