新宿・落合散歩(7) [落合]

 その後の新興写真の流れは雑誌『光畫』に集約されてくる。『光畫』の創刊は1932(昭和7)年5月。野島康三の発行雑誌に近かった『光畫』であるが、木村伊兵衛、中山岩太が同人として参加していた。新興写真研究会の飯田幸次郎も創刊号から参加している。掲載された写真は名作「看板風景」。自宅は浅草であったが、新宿の路地を撮影した一枚であった。創刊時の飯田の役割には堀野正雄をこの雑誌に参加するように勧誘することもあったようで、創刊号には飯田に誘われながらなぜ参加しなかったのか、についての理由書が掲載されている。しかし、その理由が解除されたのか、第2号から堀野正雄は『光畫』に登場、常連のようになる。1巻3号から6号まで「グラフ・モンタージュの実際」を連載した。つまり『光畫』では新興写真の中でもドキュメンタリー的なストレートな表現領域で、すぐれた写真をとっていた木村伊兵衛、堀野正雄、飯田幸次郎の3人がそろい踏みしたことになるのだ。しかし『光畫』は長くは続かなかった。1933(昭和8)年12月発行の2巻12号をもってその幕をおろした。通算18冊を発行、やりたいことをやりつくしての廃刊だという。落合関係者としては、板垣鷹穂と山内光が参加している。主な参加者を列挙すると新興写真の構図全体が垣間見える。野島康三、木村伊兵衛、高麗清治、佐久間兵衛、飯田幸次郎、中山岩太、伊奈信男、堀野正雄、堀不佐夫、花輪銀吾、ハナヤ勘兵衛、三浦義次、中井正一、清水光、紅谷吉之助、鹿児島治朗、光墨弘、安井仲治、原弘、山内光、富本憲吉、板垣鷹穂、古川正三、佐瀬五郎、長谷川如是閑、吉澤弘、山脇巌、名取洋之助、佐々木太郎、長峰利一、高田保、中河與一、土方定一。私はその後の戦時体制に大きく傾斜していった時期を1933(昭和8)年春を境と考えてきた。新興写真も『光畫』を白眉にして戦時体制に組み込まれていったのではないだろうか。木村伊兵衛、堀野正雄、原弘、山内光、名取洋之助などが日本工房によって対外宣伝に使われ、表現は高度化したが、戦時体制の一環に組み入れられていったのであった。堀野正雄はフリーのプロカメラマンとして1940年に上海に移り、陸軍報道部嘱託として記録や宣伝を担当するようになる。そして敗戦とともに堀野は写真表現を捨てる。引き揚げ後はストロボメーカーを立ち上げ、その経営に集中した。新興写真家にしてプロカメラマン堀野正雄を戦時体制という怪物が殺したのだ。
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