黒い光と闇の感触―辻潤と竹中英太郎(2) [落合]

 竹中英太郎のご近所で東京熊本人村の重要な住人に橋本憲三・高群逸枝夫妻がいる。関東大震災のあと、同郷である小山勝清を頼り、1924(大正13)年2月から上落合に住む。そして25(大正14)年のはじめには東中野の新築の借家に移転している。高群の日記(『火の国の女の日記』理想社65年刊)には、この東中野の家に住んでいた頃のことが記述されている。夫の橋本憲三は食いはぐれの知り合いたちを平気な顔で居候させたのだが、東中野の家にはどうやら若手のアナーキスト詩人たちがたむろしたようなのだ。村山知義もこうしたアナーキストたちに「リャク」されないよう気をつけていたという。「リャク」とは「略奪」のことに他ならない。刃物や場合によっては拳銃をもって「リャク」に来る輩もいたようだから物騒な時代である。そんな連中が飯代も宿代も払わずに何人も居候しているのであるから高群はたまらない。ついに今風にいえば切れてしまう。怒った高群は家出をし、四国に向かった。だが橋本が新聞広告を出し、公然と迎えに行った時、まるでそれを待っていたかのように連れ戻されたのであった。このときも小山勝清が家を世話する。今度の借家は小山の家のすぐそば。従い竹中英太郎の家のすぐそばであった。

 さて、前述の小島きよの日記の時期、つまり1925(大正14)年6月頃は、まさに東中野にいて若きアナーキスト詩人たちの溜まり場になってしまい苦悩する日々を高群が送っていた時期にあたる。アナーキスト詩人たちの溜まり場といえば、有名なのは白山上にあった書店・南天堂の2階にあったレストランである。常連として南天堂2階にいたのは萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、高橋新吉、小野十三郎、神戸雄一、野村吉哉など。もちろんそこには辻潤も小島きよもいた。高群の日記には東中野の家に誰がたむろしていたのか記述はない。ただ若い詩人たちであったようだ。南天堂2階レストランにたむろしていた常連たちの中で確実に竹中英太郎との接点が確認できるのは壺井繁治である。壺井は1924(大正13)年11月には雑誌「DAMDAM」創刊に萩原恭次郎、小野十三郎らと参加、もとはアナーキスト詩人として出発するが後にボルシェヴィキへと立ち位置を変えた。昭和初期、ナップ機関誌「戦旗」の編集の中心を担う一人となる。1928(昭和3)年5月1日発行の雑誌「左翼藝術」第1巻第1號は発行編集兼印刷人が壺井繁治であるが、次号は雑誌「戦旗」に吸収されてしまう、たった一冊のみ発行された「左翼藝術」に竹中英太郎は表紙、漫画の他随筆一篇をよせている。「左翼藝術」には三好十郎、上田進、高見順、西村喬などが参加している。東中野の高群のところにたむろしていたのは、はたして彼らだったのだろうか。また「左翼藝術」には松隈研二がカットと漫画で参加している。一刀研二は1927(昭和2)年の秋に竹中英太郎とともにプラトン社に雑誌「クラク」(「苦楽」改題)の編集長である西口紫溟を訪ねている。この際のことを山名文夫は『体験的デザイン史』(ダヴィッド社 76年刊)に以下のように記している。

  「ある日、西口編集長が数枚のさしえ原画を持ってきて、見てくれという。もし見どころがあるようなら、使ってみたいというのである。その絵は神経質で、なんとなく憂愁をおびた、しかし今までにない描法の風変りな作品であった。私は探偵小説にもってこいのさしえだと思った。西口編集長は安心して仕事を頼んだらしい。数日して本人が作品をもってきた。会ってみて驚いたことには、まだはたち前後と思える、詰めえり姿の学生姿の青年だった。これが竹中英太郎であった。」

竹中英太郎挿絵「クラク」昭和2年11月号 大下宇陀児「盲地獄」2.jpg
「クラク」昭和2年11月号掲載の竹中英太郎挿絵(大下宇陀児「盲地獄」)

 西口紫溟の回想には一刀研二のことが簡単ではあるが記述されているが、山名の回想にはない。それは、最初の訪問(つまり二人での訪問)の時には西口のみが応対し、山名は原画を見せられただけだったからなのだろう。「クラク」から依頼された作品を持参した二度目の訪問の際に学生服姿の本人と会って、その若さに驚いている様子が面白い。竹中は、山名の指摘通り、はたち前後の若者であるが、九州において既に労働運動にかかわり、東京に出てきてからも、食うために雑誌「家の光」において数多くの挿絵を描いた実績をもっているので、その挿絵作品はすでに竹中作品として一定の完成領域にあったので、このような感想をもったのではないかと思われる。このときに持参した挿絵は「クラク」1927(昭和2)年11月号の大下宇陀児の「盲地獄」と本田緒生の「罪を裁く」という共に探偵小説のためのものであったろうと思われる。面白いのは、一緒にプラトン社を訪ねた一刀研二の方である。もともとは竹中英太郎が中心的な立場で挿絵を描いていた雑誌「家の光」に挿絵を提供し始めるが、1928(昭和3)年8月号にはなんと「美しき白痴の死」という探偵小説を挿絵とともに提供しているのだ。この小説が好評だったのか10月号からは佐川珍香の挿絵で「揺るゝ虹」という小説を6回にわたり連載している。あるいは、「家の光」に竹中が一刀のことを紹介したのかもしれない。

一刀研二挿絵「家の光」昭和3年8月号一刀研二「美しき白痴の死」.jpg
「家の光」昭和3年8月号に掲載された一刀研二「美しき白痴の死」のタイトル+カット.

佐川珍香挿絵「家の光」昭和3年10月号一刀研二「揺るゝ虹」.jpg
「家の光」昭和3年10月号に掲載の一刀研二「揺るゝ虹」(挿絵は佐川珍香)

 小島きよの日記にあった1925(大正14)年6月24日、中野の吉行エイスケの家を二人連れ立って出発した辻潤と小島きよは、最初に小山勝清の家を訪ねる。結果は留守で会えないのであるが、辻潤が小山を訪ねるのはこの日限りのことではあるまい。つまり、小山のところに居候同然にころがりこんでいたであろう竹中英太郎や映画の脚本家である美濃部長行と辻潤との接点が落合地域においてありえたものと考える。竹中は自身が述べているように、アナーキストでもダダイストでもなくボルシェヴィキだったのだろうが、年若き多感な時期、橋本憲三のところにたむろしていたアナーキスト詩人たちや辻潤、吉行エイスケといったダダイストたちの行動や言動にさまざまな影響を受けたとしても自然の成り行きであろうと考える。つきあいも生じるだろう。その一つの表れが雑誌「左翼藝術」への参加であったのではないのだろうか。

 辻潤のその後であるが、アルコールによる精神障害、各地への放浪の果てに1944(昭和19)年1月末に淀橋区上落合1丁目308番地の静怡寮に住む、とある。このアパートの管理を友人の桑原国治が行っていたからで、転がり込んだわけであった。そして11月24日、静怡寮の1階の6畳一間において死亡していた。死因は狭心症だったと診断されたが、一説には餓死であったという。時代的にありえることではあるが、真相はどうだったのだろうか。一方、竹中英太郎は1935(昭和10)年刊行の『名作挿画全集第四巻』(平凡社9月刊行)に「大江春泥作品画譜」を残して挿絵の世界を離れてしまう。満州での活動を経て、44(昭和19)年にはすでに甲府に移住、山梨日日新聞に入社している。辻潤も竹中英太郎もともに戦争へと雪崩れてゆく時代への強い反発を示している。しかし、その方法は全く異なっていた。生き方が不器用な分だけ辻潤は生き延びられなかったのだろう。

※実は辻潤の終焉地のすぐそばに私は住んでいる。それを知ったのはつい最近のことであるが・・・。
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abika

ご訪問ありがとうございました。
すごいですね~♪
じっくり、ゆっくり読ませていただきました。
by abika (2009-06-24 13:16) 

ナカムラ

abika様:コメントありがとうございます。すみません、ちょっと長いですよね・・。自分でもわかっているのですが。
by ナカムラ (2009-06-24 13:29) 

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