雑誌『女人藝術』をめぐって―村山籌子と小林多喜二を中心に(3) [村山籌子]
3.多喜二の機械美学への共感
小林多喜二から板垣鷹穂への手紙は冒頭にあげた一通だけだったのかもしれないが、雑誌『戦旗』の初期の発行所から板垣鷹穂の家までは歩いて5分くらいだし、上落合といっても東中野駅に近い方だから、村山知義の三角のアトリエや佐々木孝丸の自宅で開催されたナップ(全日本無産者藝術連盟)の会合の前後に立ち寄っていたのではなかったろうか。多喜二の葬儀に参加した数少ない参列者の名簿の中には板垣夫妻の名前がある。
一方、多喜二は、その評論「「機械の階級性」について」(1930.1.23『新機械派』)において「私たちは「プロレタリア・レアリズム」の1つの条件として、「機械と芸術の交流」を私たちの「形式」への1つの努力として、考察しなければならないところへ来た。」と述べている。1929(昭和4)年に岩波書店から出版された『機械と芸術との交流』は板垣鷹穂の展開した機械美学を最も的確にとらえた一冊であるが、多喜二はあきらかに板垣のこの本を手にしている。機械美学へのちょっぴりの批判とその何倍もの共感を感じていたのだろう。意外な組合せで二人の感性が共鳴しあっていたのであった。
板垣鷹穂『機械と藝術との交流』
4.『女人藝術』での多喜二の足跡
意外にも『女人藝術』には小林多喜二の足跡がある。1932(昭和7)年一月號に掲載された「故郷の顔」というエッセーである。『女人藝術』は当初は女流文学者を結集したユニークな雑誌であった。しかし時代なのだろうか、次第に左傾化し、後半時期になるとナップの機関誌『戦旗』のデザインを彷彿とさせるようになる。初期のグラフページには女流作家たちのポートレートが掲載されたが、後期にはソ連の様子を記録した写真が掲載されたり、ピオニールの活動の様子などがレポートされていたりする。付録には「女人大衆」という冊子がつけられた。『女人藝術』は「女人大衆」としてナップに吸収されるべきだとの論文が掲載されるなど後期には先鋭化していった。中條百合子や中本たか子が執筆した時期にあたる。そうなると、必ずしも女性作家である必要はなく、小林多喜二も執筆したようだ。1930(昭和5)年の豊多摩刑務所収監時に書かれた手紙には小樽への思いが綴られることが多かった。だが今回は生まれ故郷の秋田と育った小樽との「故郷」のダブルキャストである。そして小説「1928.3.15」に関する背景のことを伏字いっぱいで綴っている。「故郷の紹介を書けといふのに對して、少し見當外れのことを書いたと云ふ人がゐるかも知れないが、私はかういう形で故郷を書いたことが最も小樽の顔を描いた事になるのではないかと思ふ。今ではこの街も「女人藝術」を讀んでゐるからと云つて、―――――神經質になり出してゐる・・・。」これを書いた数ヶ月後には多喜二は地下に潜ることになる。
『女人藝術』昭和3年9月号の前扉
『女人藝術』昭和6年10月号のページ
小林多喜二から板垣鷹穂への手紙は冒頭にあげた一通だけだったのかもしれないが、雑誌『戦旗』の初期の発行所から板垣鷹穂の家までは歩いて5分くらいだし、上落合といっても東中野駅に近い方だから、村山知義の三角のアトリエや佐々木孝丸の自宅で開催されたナップ(全日本無産者藝術連盟)の会合の前後に立ち寄っていたのではなかったろうか。多喜二の葬儀に参加した数少ない参列者の名簿の中には板垣夫妻の名前がある。
一方、多喜二は、その評論「「機械の階級性」について」(1930.1.23『新機械派』)において「私たちは「プロレタリア・レアリズム」の1つの条件として、「機械と芸術の交流」を私たちの「形式」への1つの努力として、考察しなければならないところへ来た。」と述べている。1929(昭和4)年に岩波書店から出版された『機械と芸術との交流』は板垣鷹穂の展開した機械美学を最も的確にとらえた一冊であるが、多喜二はあきらかに板垣のこの本を手にしている。機械美学へのちょっぴりの批判とその何倍もの共感を感じていたのだろう。意外な組合せで二人の感性が共鳴しあっていたのであった。
板垣鷹穂『機械と藝術との交流』
4.『女人藝術』での多喜二の足跡
意外にも『女人藝術』には小林多喜二の足跡がある。1932(昭和7)年一月號に掲載された「故郷の顔」というエッセーである。『女人藝術』は当初は女流文学者を結集したユニークな雑誌であった。しかし時代なのだろうか、次第に左傾化し、後半時期になるとナップの機関誌『戦旗』のデザインを彷彿とさせるようになる。初期のグラフページには女流作家たちのポートレートが掲載されたが、後期にはソ連の様子を記録した写真が掲載されたり、ピオニールの活動の様子などがレポートされていたりする。付録には「女人大衆」という冊子がつけられた。『女人藝術』は「女人大衆」としてナップに吸収されるべきだとの論文が掲載されるなど後期には先鋭化していった。中條百合子や中本たか子が執筆した時期にあたる。そうなると、必ずしも女性作家である必要はなく、小林多喜二も執筆したようだ。1930(昭和5)年の豊多摩刑務所収監時に書かれた手紙には小樽への思いが綴られることが多かった。だが今回は生まれ故郷の秋田と育った小樽との「故郷」のダブルキャストである。そして小説「1928.3.15」に関する背景のことを伏字いっぱいで綴っている。「故郷の紹介を書けといふのに對して、少し見當外れのことを書いたと云ふ人がゐるかも知れないが、私はかういう形で故郷を書いたことが最も小樽の顔を描いた事になるのではないかと思ふ。今ではこの街も「女人藝術」を讀んでゐるからと云つて、―――――神經質になり出してゐる・・・。」これを書いた数ヶ月後には多喜二は地下に潜ることになる。
『女人藝術』昭和3年9月号の前扉
『女人藝術』昭和6年10月号のページ
梅雨が明けましたね。暑中お見舞い申し上げます。
by やおかずみ (2009-07-15 10:35)
やおかずみ様:いつもご訪問ありがとうございます。本日は熱中症注意です。これからもよろしくお願い致します。
by ナカムラ (2009-07-15 13:03)
こちらはまだまだ梅雨明けには程遠そうです・・・
訪問ありがとうございました☆
by やまがたん (2009-07-15 18:35)
やまがたん様:いつもありがとうございます。東京は猛暑です。梅雨明けは急に来るかもですよ。東京も思わぬ日に・・・でしたから。山形というと酒田で戦前に発行されていた『骨の木』という雑誌を思ってしまいます。すごくおしゃれな雑誌なんです。一冊だけもっていますが、素晴らしいです。海の幸あり、山の幸あり、果物がおいしくて・・うらやましいです。
by ナカムラ (2009-07-16 15:36)
いちばん下の「ぜひ、これを讀んでください」に使われているビジュアルは、ロシア・アヴァンギャルドの選挙への投票を呼びかけるポスター作品ですね。確かA全サイズで、複製がどこかにしまってあったと思います。
切り抜かれている◇のところには、カマトンカチのマークが入っていたかと思います。
by ChinchikoPapa (2009-07-16 16:07)
ChinchikoPapa様:やはりロシア・アヴァンギャルドのポスターですか。かっこいいなと思っていました。『女人藝術』のページ自体はソ連の新五ヵ年計画か何かの紹介記事だったと思います。下の文字は松田解子の詞による女性行進曲。時代でしょうか。そういえば、今日はサロン<ロシア・アヴァンギャルド>第17回に参加する予定です。今回は建築がテーマです。川上玄さんが講師。経堂の日ソ会館で。18時からです。いつもありがとうございます。
by ナカムラ (2009-07-16 17:14)