橋浦泰雄という日本画家のこと(3) [尾崎翠]

3.落合近くに住んだ橋浦泰雄

同じく『五塵録』から引用したい。
  
大正9年ごろには、早稲田から山手線の高田馬場までは、畑地をまじえながらもどうにか人家つづきだったけれど、線路を越すと一面が畑地で、人家はいわゆる村の形をとって、少家ずつが街道筋にあった。

大滝橋(著者注:小滝橋の誤記と考える)には水車があったが、橋を渡ると古い宿場の面影を残した落合村で、藁屋根の棟にイチハツを植えた家が多かった。

ここにあるように、1920(大正9)年頃、落合は自然豊かな、そして田舎の宿場の形式を残した農家が中心の村落だったようだ。郊外の宅地として開発が進むのは、もう少しのちのことになる。

この村は“落合の枝柿”といって枝柿の名所だったが、通りを笹竹で囲った農家の大きな屋敷内に、百年、二百年を経たであろう枝柿の老木が二十本も三十本も、家の棟よりも高く、黒い枝を拳のように振りまわして真っ赤な実をつけているのは偉観だった。そんな農家が何軒もあった。

通り沿いはともかくも、少し入ると桑や麦などを主とした畑地であり、キジも鳴けばタヌキや野ウサギも珍しくはなかったようだ。この落合村の西のはずれに“落合の火葬場”(今の落合葬祭場)があって、その先をさらに西に半丁ばかりのところが小高い崖になっていて、その上に寺が二、三軒あったが、橋浦はこの寺に「貸間をしてくれぬか」との葉書を出したのだった。早稲田でも寺住まいだったので、同じようにお願いしたのだろう。そして、返事がきて、その中の宝仙寺という小さな禅寺に間借りすることになる。この頃の橋浦は叢文閣の出版物の装丁や、取次問屋の集会などの手当を生活費としていた。エロシェンコの童話集なども橋浦の装丁である。

寺の奥手というのは北にあたるが、寺につづいて墓地があり、それにつづいてわずかばかりの畑があって、その先は崖になって、椎名町の高台と向きあっていた。この冬は暖かくてあまり雨も降らず、夕食後人気のないこのあたりを散歩するのは気持ちがよかった。

 1921(大正10)年、橋浦33歳の時、第二回メーデーにおいて涌島とともに検挙され、45日間拘留された。このメーデーの行進では秋田雨雀に会い、佐々木孝丸を紹介される。そして、この年の秋、雑誌『壊人』の創刊同人となる。この『壊人』は意味深い雑誌である。秋田県人を中心として発行された『種蒔く人』に対して『壊人』は、鳥取県人を中心とした雑誌であった。ちなみに、出獄後に橋浦泰雄は寺から引っ越すことになった。妹の春子、おいの雄太郎、めいの愛子、昌子などと同居するために共同で一戸を借りたからであった。引っ越し先は中野の打越で、そう遠くない場所であった。

メーデー事件前でも同県出身の文学青年間の往来はあったけれども、事件後は一層その往来がひんぱんになった。私は郊外にいるので、諸君が往来する時はたいてい二、三人同道で来るし、私が叢文閣へのついでに角田の清源寺を訪ねると、仲間のだれかが来合わせているのが常だった。

そうこうしているうちに、八月の中旬ごろだったと思うが、涌島、藤岡、角田と私の四人集まった際、こうして不満ばかりいっていても始まらない、同人雑誌を出してわれわれの意見を公開し戦おうではないかという意見が出て即座に一決した。

腐敗堕落の充満している現文壇は徹底的に打倒破壊することを必要だとし、はびこっている毒草・悪草を根こそぎ殲滅することが急務と認識、当分の間評論活動に主力を注ぐというのが、『壊人』刊行の主旨である。四人のほか、市谷信義、村上吉蔵、間島惣兵衛、林正雄を加えた8人でのスタートである。『壊人』は清源寺の角田を発行所、発行人とした。1922(大正11)年8月25日、壊人社主催文化講演会を鳥取市で開催、講師は吉村撫骨、涌島義博、村上吉蔵、角田健太郎、市谷信義、橋浦泰雄である。橋浦の演題は「愛と生活と藝術」であった。11月4日、5日の両日に日本画の個展を鳥取市の仁風閣で開催。同じ11月、涌島義博、尾崎みどり、安田光夫らが鳥取市で水脈社を結成、『水脈』を創刊する。同じ名前の雑誌を橋浦は白井喬二、野村愛正らと発行していたが、その『水脈』とは同じ名前ではあるが、構成同人含めて断絶がある。新たな『水脈』に橋浦のみは参加している。『水脈』の創刊には壊人社が企画した講演会が大きく影響した。その意味でも橋浦の影響が大きい。

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コメント 4

takagaki

nice!+コメントありがとうございます。
いつも楽しく拝見させていただいております。
ちなみに、
私の場合、
画像加工は、
google配給のpicasa 3ってのを使ってます。
モノクロフォーカルで、
一部分だけカラーを残す、
たまにやってます、
またよろしくお願いいたします。
by takagaki (2009-11-04 12:36) 

なぎ猫

与謝野晶子は有島武朗に恋していたのですか?いろんな人物が絡み合う面白い時代ですね。それにしても、大学に校歌があるとは。うちの大学にもあるかな。
by なぎ猫 (2009-11-04 20:02) 

ナカムラ

takagaki様:コメントありがとうございます。ご教示ありがとうございます。何かのおりに試してみたいです。
by ナカムラ (2009-11-05 00:35) 

ナカムラ

なぎ猫様:コメントありがとうございます。私も知りませんでしたが、どうやらそんなこともあったようです。少なくとも映画「華の乱」のなかでは。有島個人誌「泉」の追悼号の与謝野晶子の「悲しみて」の冒頭歌「君亡くて悲しと云ふをすこし超え苦しといはば人怪しまむ」はあきらかに愛の告白でしょうね。二首目「書かぬ文字云はぬ言葉も相知れどいかがすべきぞ住む世隔たる」これもいえなかった愛を告げる歌。突然に違う世に隔たったことに戸惑っていますね。これは相思相愛だったことを思わせます。
by ナカムラ (2009-11-05 00:48) 

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