橋浦泰雄という日本画家のこと(5) [尾崎翠]

5.民俗学への傾斜とナップへの参加

 1923(大正12)年10月、札幌の兄、義雄よりの電報を受けて札幌に約2年にわたり寄宿することになった。1924(大正13)年4月、札幌豊平館で個人展覧会を開催。北海道の各地にスケッチ旅行にも出かけた。1925(大正14)年1月、木田金次郎に尻屋村の原始共産制についての話を聞いて興味をもつ。5月、北海道からの帰途、下北半島の尻屋村を訪れ、原始共産制の遺制に驚き、民俗学に興味を感じる。9月5日、堺利彦のすすめにより、柳田国男を訪ねた。柳田の協力をえて原始共産制を残す村を探すための民俗採訪の旅に出かけるようになった。12月、日本プロレタリア文藝聯盟が創立され、美術部長になった。また関東消費組合の理事となっている。1926(大正15)年1月24日、協調会館で「鳥取無産県人会」の創立総会を開催した。橋浦泰雄、橋浦時雄、涌島義博を代表に、白井喬二、生田長江、生田春月、野村愛正、松岡駒吉、田中古代子などが参加。ここに尾崎翠も参加する。生田春月とともに妻の花世も出席していた。11月、日本プロレタリア藝術聯盟の中央委員長になる。1928(昭和3)年4月28日「全日本無産者藝術聯盟」(ナップ)の委員長に選出された。橋浦泰雄はアナキスト陣営からも、ボルシェビキ陣営からも誘われていた。それだけの影響力ももっていたのであろう。だからこそ、ナップの委員長に選出されたのだろうと思う。本職は日本画家ながら、柳田民俗学の継承者と評価され、社会主義思想のリーダーとしての姿さえみせる。また生活協同組合の創設者の一人でもある。不思議な人物である。

尾崎翠からの橋浦泰雄あての1930(昭和5)年4月28日付けのはがきには以下のように恋愛問題に悩む生田春月を気遣う尾崎の姿がある。

私は一足お先に帰郷し、むこうでお待ちすることに決めてゐますけれど、生田氏にはなるたけあなた方と同道頂いて、社の好都合のやうにし度く思ひます

ところが生田春月は先に関西に出発し、鳥取まで行かずに瀬戸内海で投身自殺してしまう。郷里鳥取への講演帰郷は結果的に有島、春月の自殺を伴ってしまった。この年の12月、泰雄は日本共産党に入党した。時代はますます厳しい貌をみせる中でのことであった。

<参考文献> 『橋浦泰雄伝』鶴見太郎著 2000年 晶文社
          『五塵録』  橋浦泰雄著 1982年 創樹社

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コメント 2

漢

魑魅魍魎の時代を生きる……思想&イデオロギー……あくなき闘い……何事も安易になってしまった現代を生きる方達とは……月とスッポン……馬耳東風……命を投げ出す生きざまに心が震えます……。
by 漢 (2009-11-06 11:40) 

ナカムラ

漢様:コメントありがとうございます。おまえに同じことができるのか、と問われると・・・・ですが、私も漢さんと同様に彼らの真剣な生き様に感動すること頻りです。大いに学びたいと思います。

by ナカムラ (2009-11-06 12:32) 

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