「第七官界彷徨」漫想(4) [尾崎翠]

味覚と視覚

たしかに、この物語のラストは当初の登場人物ではない、したがってあまり描写されていない人物が登場して割に唐突に終っている。私はこれはなんだろうと思った覚えがある。尾崎が自ら述べているように時間不足だったのだろうか。それとも、あえて従来の形式にとらわれず、そして唐突に投げ出すように終ることによって、まさに「第七官界」を我々に感じさせようとしたのか・・・それとも、そのどちらでもあったのかもしれない。

 そもそも「第七官」とは何であろうか。これを読みとく前にこの小説に綴られた「五官」について考察してみたい。「五官」とは普通、「味覚」「聴覚」「視覚」「臭覚」「触覚」であ
ろう。
 まずは「味覚」から。「第七官界彷徨」には作品中にいくつかの食物が登場する。しかし、
いわゆる食事らしい「献立」レベルのものではなく、むしろ素材をごろっとそのまま、である。列記してみよう。

「味噌汁」「蜜柑」「丹波名産栗ようかん」「キヤラメル」「生ぼしのつるし柿」「濱松駅で買つた濱納豆」「二十日大根のつまみ菜」「チヨコレエト玉」「くわゐの煮ころがし」「角砂糖」「のり」「塩鮭」「燻製の鮭」「わかめと味噌汁の区分のはつきりしない味噌汁」「麦こがし」「ざらめ」「番茶」「二十日大根」「引越そば」「おはぎのあんこ」「うで栗」「生栗」「かち栗」「栗飯」「バナナ」「塩せんべい」「どらやき」

あえて、これで献立を作るならば、栗飯+くわゐの煮ころがし+味噌汁+つまみ菜のおひたし+蜜柑、だろうか。現代からみると、それでも寂しい。小説の中では塩せんべいとどらやきの夕食が堂々と登場する。そして、ひとつの恋の触媒として蜜柑が活躍するのである。しかも、主人公たち四人が暮らす借家の垣根である蜜柑の木に実るすっぱくて、種のある蜜柑。ある日、家主の手によってすべて収穫されて葉ばかりの垣根になってしまう隣家との境にある蜜柑。この蜜柑たちは「味はすつぱくとも佐田三五郎の戀の手だすけをする廻りあわせになつた。」のである。

 次に「視覚」である。描写されたものはすべて視覚を通して観察されたものであるのだが、特徴的な凝視や視覚認識を取り上げてみたい。
   
「赤いちぢれ毛」「星をながめる」「代用光線」「蝋燭の灯」「映畫」「でんでん虫の角のかたち」「机の上に立てかけた立鏡」「七つの豆電氣が光線を送る」「空をながめる」「井戸をのぞく」「鋏の穂は私の左の眼にたいへんな刃物にみえてしまつた」「心理における私の眼界」「二つの鏡で頭を映してみせてやらう」「無言のまましばらく靴下の雫をながめてゐた」「私はあかりが眼にしみて眩しかつた」

視線は外界に向かっていない。必ずしも内へ内へと沈下してはいないが、周辺事象への凝視があるくらいに感じる。逆に視覚に意識が集中しすぎないように抑制しているのかもしれない。

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SILENT

暑中御見舞い申し上げます
五官にプラスの二官興味を惹きますね
臭覚といえば長男が夏にベルリンで 段ボールを積み上げスプリンクラー近く迄接近する高さに積み上げ 紙の饐えた匂いを作品に仕上げた事を思いだしました。臭覚の追求も面白い分野ですね。
by SILENT (2010-07-22 11:10) 

詩人の血

「第七官界」・・・
芸術家の感覚と理性の賜物ですね。
ちょっと連想した事を書かせて下さい。
神秘思想家のシュタイナーに「12感覚」の概念がありました。
個体感覚、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚、熱感覚
均衡感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚。
12感覚です。
by 詩人の血 (2010-07-22 12:34) 

ナカムラ

SILENT様:コメントありがとうございました。暑いですね・・・。くれぐれもご自愛ください。

ご長男はレベッカ・ホルンとの共同制作など現地でもご活躍のことと存じます。美術の領域で臭覚、実は重要な要素ですよね。
by ナカムラ (2010-07-23 18:16) 

ナカムラ

詩人の血様:コメントありがとうございます。ルドルフ・シュタイナーですね。シュタイナーはとても興味があります。ヨゼフ・ボイスもシュタイナーのことを
講義で引用していたような。第七・・・どころか12官かあ・・・。
by ナカムラ (2010-07-23 18:19) 

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