「第七官界彷徨」漫想(6) [尾崎翠]

臭覚の小説への導入

 最後に「臭覚」である。尾崎は匂いに敏感な作家である。「第七官界彷徨」においても匂いの表現は現実感がある。

「こやしを煮て鼻もちならぬ臭氣を發散させる」「香水の匂ひ」「臺所からものの焦げる匂ひ」「アンモニアが焦げると硫黄の臭氣に近づく」「臭氣といふものは空に空に昇りたがるものだから・・」「生ぼしの柿の山國の匂ひのゆたかなもの」「大根畠は眞實の大根畠と變らない臭ひがした」「この濕地もまたこみいつた臭氣を放ってゐたのである」「鶏糞の匂ひ」

今ではめったに嗅ぐことができないこやしの臭いを家庭の中に持ち込んでいる。そのためなのか、兄の二助は農学の研究者であり、室内で二十日大根の栽培と蘚の恋の研究をしているという設定なのである。コケの恋、なんという発想だろうか。驚いてしまう。ちなみに、いまでは全くその存在を覚えている人もいないが、尾崎が住んだ落合では落合大根が有名だったそうである。加えて枝柿が名物で、農家には柿の大木があったそうだ。ほかの小説でもそうだが、尾崎が挿入する学術論文のタイトルは面白い。「第七官界彷徨」では二助のコケの研究の論文タイトルは「肥料の熱度による植物の戀情の變化」である。これを小野町子(女の子)は愛読書にしている。コケの恋は肥料の温度によってどう変わるかについての研究なのである。
 小説には一人の女の子、三人の同居人と二人の隣人、祖母、家主とあと二人が登場する。家主は家主とだけ表記されている。隣人も先生と生徒という表記であって描写はされるが、必要最低限にとどまる。祖母は祖母とだけ。あと二人のうちの一人は老人で従僕と記載されている。名前が記載されるのは残りの五人。主人公は第七官にひびく詩を書こうと思っている小野町子、同居人は精神科医の小野一助、農学研究者の小野二助、音楽学校を声楽の勉強のために受験しようとしている従兄の佐田三五郎。最後に小野町子の前に登場するのが小野一助の同僚の精神科医、柳浩六である。縁起を担いで「四」を抜かした一から六までの数字によって名前が作られ、名前の上では抽象化され、没個性化がはかられている。しかも、五官に相当するようには書かれていないが、同居人たちのそれぞれは読み方によっては一人の人格の多様な面をあたかもそれぞれの人格に分解したかのようにも見える。
そして、他人なのに唯一、名前を与えられている柳浩六こそが小野町子の心を動かした唯一の異性ということなのだろうか。だが、恋愛に似た感情の描写らしきものはあるが、すぐにさした理由もなく、小野町子の前から姿を消してしまうのである。この戀愛全体がまるで少女の夢のようである。その柳への憧憬のような思いは、柳がいった「小野町子が海外の美しい詩人に似ている」にどうやら由来しているようだ。

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SILENT

翠さんの横顔が気になります
フランスでは聴香師の事を「ネ」、鼻の意味だと聞いたことがあります。鼻の大きな人は聴香師向きであるとも聞きました。

by SILENT (2010-07-25 20:36) 

ナカムラ

SILENT様:コメントありがとうございます。鼻はしっかりと存在感があって、筋が通っている方ですね。

臭覚に敏感だったのは事実でしょうが、特別であったかどうかはわかりません。童話作家の村山カズ子も匂いに関するエッセイや短編を書いていて、匂いに敏感が・・・この時期の女性作家の特徴なのかな・・・と思うくらいです。
by ナカムラ (2010-07-28 12:25) 

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