「第七官界への引鉄」板垣直子と一冊の本 (4) [尾崎翠]
板垣直子
林芙美子が1931(昭和6)年12月号の「婦人公論」に書いた「平凡すぎる日記から」には尾崎翠と映画に行ったことが書かれている。この年の7月18日(土)の項である。
平凡。無意に暮れた。雨あがりのせいか暑い。庭のダリヤ眞盛りだ。ぢつと見てゐると苦しくてやりきれない。犬(ペツト)が棒ぎれをくはえて遊んでゐる。夜、尾崎女史とコウラクキネマ見に行く。(拾五銭)歸り板垣鷹穂氏の家に寄りカンダン、歸へり夜更一時、呆んやりした日であった。
二人は何の映画を公楽キネマで見たのだろうか。映画に関しても造詣の深かった美術評論家の板垣鷹穂。この板垣鷹穂が編集主幹である雑誌「新興藝術研究2」は1931(昭和6)年6月1日の発行であるから、この7月18日夜の板垣家訪問の時点ではすでに「第七官界彷徨」全編は発表されていた。林芙美子は『放浪記』がすでにベストセラーになっていた。板垣鷹穂の妻は文芸評論家の直子である。板垣直子は青森県、現在の五所川原の出身。生まれは1896年11月18日である。尾崎翠は1896年12月20日生まれだから、二人は出身地は遥か遠いが同級生である。直子は日本女子大学英文科を卒業した後、東京帝国大学文学部の女子聴講生として美学と哲学を修めた。すでにゲオルヒ・グロナウの著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の翻訳を岩波から出版していた。だが、美学または美術評論よりも文学評論の世界に直子は進んでいった。雑誌「女人藝術」においても小林多喜二について論じていたりする。ちなみに前述の樺山千代も1896年の生まれである。板垣直子と尾崎翠の符合は①適度に辺境の出身であること、②1896年の暮れの生まれであること、③「女人藝術」に執筆していたこと、④日本女子大学で学んだこと、⑤上落合に住まいしたこと、などがある。板垣鷹穂の家から尾崎翠の家まではどうだろう徒歩で5分くらいではないだろうか。
林芙美子が1931(昭和6)年12月号の「婦人公論」に書いた「平凡すぎる日記から」には尾崎翠と映画に行ったことが書かれている。この年の7月18日(土)の項である。
平凡。無意に暮れた。雨あがりのせいか暑い。庭のダリヤ眞盛りだ。ぢつと見てゐると苦しくてやりきれない。犬(ペツト)が棒ぎれをくはえて遊んでゐる。夜、尾崎女史とコウラクキネマ見に行く。(拾五銭)歸り板垣鷹穂氏の家に寄りカンダン、歸へり夜更一時、呆んやりした日であった。
二人は何の映画を公楽キネマで見たのだろうか。映画に関しても造詣の深かった美術評論家の板垣鷹穂。この板垣鷹穂が編集主幹である雑誌「新興藝術研究2」は1931(昭和6)年6月1日の発行であるから、この7月18日夜の板垣家訪問の時点ではすでに「第七官界彷徨」全編は発表されていた。林芙美子は『放浪記』がすでにベストセラーになっていた。板垣鷹穂の妻は文芸評論家の直子である。板垣直子は青森県、現在の五所川原の出身。生まれは1896年11月18日である。尾崎翠は1896年12月20日生まれだから、二人は出身地は遥か遠いが同級生である。直子は日本女子大学英文科を卒業した後、東京帝国大学文学部の女子聴講生として美学と哲学を修めた。すでにゲオルヒ・グロナウの著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の翻訳を岩波から出版していた。だが、美学または美術評論よりも文学評論の世界に直子は進んでいった。雑誌「女人藝術」においても小林多喜二について論じていたりする。ちなみに前述の樺山千代も1896年の生まれである。板垣直子と尾崎翠の符合は①適度に辺境の出身であること、②1896年の暮れの生まれであること、③「女人藝術」に執筆していたこと、④日本女子大学で学んだこと、⑤上落合に住まいしたこと、などがある。板垣鷹穂の家から尾崎翠の家まではどうだろう徒歩で5分くらいではないだろうか。
2010-07-30 00:37
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