霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(6) [アート]

6.カムイミンタラに旅立たれた一原さん

 常に元気あふれる一原さんだったが、さすがに年齢を考えると、先々助手なしで大きな作品の制作は苦しいかもしれないとSさんは心配していた。その頃、Sさんからは「中村が小樽に残って一原さんの助手をすると安心だけどなあ」と言われていた。しかし私は東京での就職を決め札幌を離れることになった。82年の3月のことである。その頃、妻はNDA画廊に勤めていた。偶然にもNDA画廊の入っていた道特会館が老朽化で危険になり、建てなおすことになって画廊も中断するという時期であった。従い、我々夫婦は同じ時期に札幌を離れてしまい、一原さんの活動のサポートはできなくなった。東京ではINAXギャラリーでの展覧会で久しぶりに出会い、我々の長男にも会ってもらった。モノタイプ版画は規模を拡大し、巨大なインスタレーションになっていた。89年、北川フラムさんの企画により現代企画室から『一原有徳作品集』が刊行され、いままでの一原さんの作品シリーズが完全とはいえないがまとまった。素晴らしいことだった。東京で開催された、この刊行記念展では多くの方が来られていて一原さんとゆっくり話すことができなかった。88年には土方定一さんと縁の深い神奈川県立近代美術館(別館)で、回顧展「 現代版画の鬼才 一原有徳の世界」が開催された。この展覧会にも小学生になったばかりの息子を連れて鎌倉に伺った。会場には大きなモノタイプのインスタレーション作品が展示されていた。まるで地球以外の惑星の風景のような印象だった。そんな過去にない規模の作品を制作しながら一原さんはご自分の死について意識されていたようだ。というのも、今回の一原さんの葬儀に際して息子の正明さんから小さな作品の入った封筒を渡されたのだが(私は伺えず郵送でいただいた)、そこには一原さん自身が「ぼくの葬式に来てくれた人に、これあげてね」と88年当時制作していた版画を菓子箱にいれていた様子が記述されていた。また、そこには俳句も三句入っていたそうである。

  閻魔に問う壱千壱の馬鈴薯(いも)の名を
  座禅草點り水芭蕉に黒子くる
  針(セ)桐(ン)大樹カムイミンタラの終着駅

「カムイミンタラ」とはアイヌ語で「神々の遊ぶ庭」のこと。一原さんは神々の庭の終着駅に向けて銀河鉄道の列車に乗られたのだろうか。私のいただいた作品はトタン板を腐食し、そこに3つの輪を描いた青紫色の版画である。エディションの記入がないが、モノタイプではなく製版したものだ。
 不義理をかさねてしまった私が最後に一原さんにお会いしたのは、映画の中の一原さんであった。92年、映画「アンモナイトのささやきを聞いた」を渋谷のユーロスペースに見にいった。スクリーンの中には一原さんがいた。驚いた。出演されているとは知らなかったのだ。
一原さん、ごめんなさい。本当にいろいろなものをいただき、表現を行う上で必要な「魂」にかかわるさまざまなことを教えていただきながら何のお手伝いもできませんでした。でも、一原さんは笑って許してくれるだろう。そして、言うだろう。「中村さん、次は何をされるの?それは面白いの?」その疑問符に私は答えられるだろうか。いや、これからの人生の中でしっかりと答えなければならないと思っている。一原さんが100歳になってもやり残したことがあると言い残したように。私もそうでありたい。ありがとう一原有徳さん。あなたの笑顔を、声を、魂を決して忘れません。

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