たいせつな風景・S市点描「小川の流れと「きりん製作所」の路地」(2)

 部屋の近くにある歩道橋にあがると南にあるM山が間近に迫る。その山肌が薄緑に萌えて、桜、辛夷が咲き、梅まで咲き始めた夜のことである。公園のところから小川にそってその沿道を歩いてみようと思いたった。部屋と大学との往復はいつも決まった道を歩いていたので、その日は別の道を歩いてみようと気まぐれに思いついたのだった。小川の脇道への入口には大きな柳の樹があって緑に芽吹いていた。風にあわせてゆっくりと枝をゆすっているのが美しいと思った。脇道は小川にそってしばらく続くが、その先は暗闇の方へと消えて見えた。どうしよう、とちょっと躊躇した。えい、前に行こうと思い定めて闇に踏み出した。あたりの空気は少し冷たく、どうやら薄い霧が出てきたようであった。

 その道は小川からは離れているように感じたのだが、案外近くに流れがあるのか、それとも別の流れが近づいたのか、水の流れる音がどこからか聞こえる。水の音を感じながら歩くと、突然に視界の先にぼうっと明るい何かが見え、急ぎ足で行ってみると光は一軒の古い造りの大きな家の窓から漏れていたもので、見あげるとブリキにペンキで描いた看板があがっていた。そこには「きりん製作所」と描かれていた。きりん製作所?なんだそれ?と思いながら見ていると、闇の向こうから人影が来る。この道に入ってから初めてすれ違う人だなと思った。あかりの中に入ってきた影は髪の長い少女に変った。少女は「こんばんは」と言いながら、きりん製作所の青い扉をあけて屋内にすいこまれていった。彼女が扉をあけた瞬間、中の様子を見たいと思ったのだが、暖かい明かりが見えた他は見ることができなかった。心が動いたがそのまま部屋に向かって歩を進めてしまったのだった。

 週末、部屋から西の方にあるM動物園に行った。ひぐまを見に行ったのだが、意外に多くの動物たちがいて楽しめた。園内を歩いていると、きりんが見えた。きりんは長い首を持ち上げ、こちらをじっと見ていた。首にはあみめのような模様がある。きりんは私のことを見ているわけではないと気がついた。本当はもっと先、そう遥か遠くをみつめているのだ。フェンスを壊して「さあ、逃げるんだ」と叫びそうになったが、それは想像のなかでだけだった。たとえ現実にそうしたとしても、逃げる場所も生きていける場所もないだろう。開放とは名ばかりになってしまうのは自明だった。S市の気候はきりんにとっては寒すぎる。開放してやったらきりんは私にむかって鳴くだろうか。私はきりんが鳴くのを聞いたことがなかった。目の前のきりんも鳴かなかった。遠くを見つめてはいても、逃亡の意欲などは全く持ちあわせていないようだった。青空に綿飴のような雲がいくつも浮かんでいて気持ちが良かった。きりんがよく観察できるベンチに座ってしばらく過ごした。そして「きりん製作所」のことを思い出していた。一体あそこは何なのだろうか。
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