たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(4) [小説]

 Satoshiと僕が天狗岳に向かったのは翌週末のことだった。きちんとテントや炊飯道具、食器、寝袋など登山用の必需品を備えて出かけた。二人だけですべての装備を持つので普段にくらべてザックが大きく重くなったが、テントから山頂にいって同じルートを降りて来る予定なのでテントを張ったままにできる。つまり山頂へは必要最低限の装備で行くことができると考えたのであった。S市のバスターミナルからバスに乗った。南西の温泉街に行くバスであった。日頃は夜更かしのSatoshiも僕もさすがに山登りを計画している時には体調に気をつける。前夜はきちんと早寝をするのだ。僕もいつもよりも3時間は早寝をした。また、いつもはモノトーンの服装をするSatoshiが今日は赤のシャツを着ていた。山登りの時は万が一ということがあり得るから目立つかっこうをする癖がついたんだろうな、と彼は笑った。僕もザックは赤だったし、シャツもかなりはでなチェック柄だった。もちろんウール100%である。ズボンはグレーのものであったが、こちらもウール。下着もウールを着ていた。春山に登るので完全装備というわけであった。
バスはS市を南北に貫く通りを南に走り、オリンピックのスケート会場になった地域を抜けて山間の道に入った。S市を流れている大きな川の上流にそって道は伸びていた。川の流れをさかのぼるようにして標高をあげてゆくのだった。温泉街に至る直前の林道の入り口でバスをおりた。Satoshiは大きな伸びをするとザックを担いだ。「さあ、歩くとしますか」と振り返った。軽くうなずくと林道に入った。天狗岳の入口までは林道を歩いた。登山道の入口は吊橋があったのだが、今はそれが壊れて痕跡だけがあった。それが登山道の入口の目印になっていた。まだ冷たい水であり、雪融けの激しい水流ではあったが、ザイルをむすんで渡渉した。何とか無事だった。二人ともに経験者なのでよかった。対岸にあがると森への入口になっていた。そこから先は大きなドイツトウヒの森になっていた。風にトウヒの幹が揺すられると独特の音がした。まるで船がきしむような音がするのだ。しばらく耳を澄まして森の声を聞いた。トウヒはかなり高くまで茂っていた。その先には小さな青空が見える。下草はほとんどなかった。光がベールのように差してきて、幻想的な光の風景が広がっていた。登り道になる直前でテントが張れる平坦地まで歩いた。そこはまた違った光景がひろがっていた。小さな沢があって水の確保が可能な場所の向うにはドイツトウヒが少しまばらになっている場所があってピンクの可憐な花が一面に咲いていたのだ。それはカタクリなのだった。これほどの量のカタクリの群生を見たのは初めてだった。美しかった。Satoshiも茫然としていた。「きれいだな」と絶句した。僕も全く同感だった。カタクリは食べることができる。少しだけ花と葉をいただいて夕食に添えることにした。この群生はあまり人の目に触れたことがないのかも知れないと思った。登山口の入口の吊橋が壊れてしまっていたし、夏はともかくも少しシーズンに早いこの時期に入山する者は少なかったのかもしれない。この環境でカタクリの満開にあてるのは難しく、ごく稀なことであったのかもしれなかった。だから、天狗岳にカタクリの群生があるとのうわさを聞いたことがなかったのかもしれない。ふたりはカタクリの花の香りに包まれて眠った。翌日も快晴で、残雪を踏んで険しい岩峰に登頂した。帰りは雪の壁をすべって下った。僕が持っている写真の中にはガッツポーズをとったSatoshiの姿がある。彼の赤いシャツが青空に映えていた。

 その夏、S市からみて東方向にあたる炭鉱の町で大きな事故がおこった。登山サークルの先輩が就職した鉱山だったので心配したが、その先輩は無事だった。しかし、悲劇はSatoshiの身に振りかかってきていた。Satoshiの父は炭絋夫としてその鉱山で働いており、事故の日も坑道の中にいたのだった。最初は大学の学友の父兄が事故に巻き込まれたというニュースをきいた。皆、顔色を変えて帰郷していった。まさかその事故にSatoshiの父親が巻き込まれていようとは思っていなかったので、Satoshiの不在を事故と関係づけて考えはしなかった。Satoshiは母親からの連絡を受けてすぐに生まれ故郷である炭絋の町に帰ったのだった。結局、Satoshiの父親を含んだ多くの炭鉱夫が命を落とした。それが契機となってこの炭鉱は閉山を決めた。落ち着けばSatoshiはS市に帰ってくるものと僕は思っていたのだが、雪が降り始めても彼は帰ってこなかった。帰ってくることができなかったというのが本当だったのだろう。寝雪には決してならないが、牡丹雪が降り始めた晩秋の夜、真鍮のノブを回して赤い扉を引いた。だけど、そこにSatoshiはいなかった。白い十字架もなく、黒い十字の形をした激しいタッチのドローイングがそこにはあった。それはスペインのアントニ・タピエスの作品だった。Satoshiのモノトーンの服装を想った。

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