プラトン社時代の竹中英太郎(1) [竹中英太郎]

1.プラトン社への最初の訪問
 竹中英太郎が雑誌『クラク』に挿絵を描き始めたのは1927(昭和2)年11月号からである。このとき竹中は21歳。『クラク』を発行していたプラトン社の社員デザイナーであった山名文夫が挿絵原稿を持参した詰襟姿の竹中をみて、その若さに驚いたという逸話が残っている。最初にプラトン社を訪問したときに『クラク』の編集長であった西口紫溟を訪ねている。西口の後の回想には「佐賀出身の一刀研二と一緒」だったと書かれている。西口も短歌を書いており、一刀も歌人であるから・・・・とも思ったが、西口の記述では九州でのちのち親しくなった一刀との出会いが竹中と一緒にプラトン社に来たときだった、との書き方なので、一刀が竹中を西口のところに紹介したとは思えない。となると、別のつながりがあるのだろうか(もちろん飛び込みだってありえるのだが)。想像の範疇を超えることはできないが、西口は1896(明治29)年熊本生まれである。父親の仕事の都合で一時浜松に住むが再び熊本に戻り、済々黌中学から早稲田に進学している。下落合の東京熊本人村の中心人物、小山勝清も1896(明治29)年に熊本県球磨郡四浦村晴山に生まれた。小山も中退をしたとはいえ、済々黌である。済々黌といえば東京帝大に進学、のちに映画監督になった牛原虚彦も同校の卒業生である。彼らの文章や回想にはお互いについての記述はない。しかし、たとえば牛原の自伝に若き日につながりのあった小山勝清のことが全く触れられていないように、その後の人生での接触や影響が大きくない場合には記憶が消えてしまったり、または記述まではされないということは当然のごとくあるのだと思う。あるいは、済々黌つながりで小山勝清が西口を訪ねてみてはどうかと告げた可能性はあるものと考える。西口がプラトン社に入社したのは1926(大正15)年3月で、川口松太郎が編集長だった雑誌『演劇・映画』の次席としてであった。しかし12月には川口がやはり編集長をつとめていた雑誌『苦楽』が『キング』におされて売上で大苦戦。その責任をとる形で川口が辞職をしてしまったため、社長の中山豊三に口説かれて一般総合誌『苦楽』の編集長を引き受けることになった。西口は1967(昭和42)年に刊行した著書『五月廿五日の紋白蝶』(博多余情社)の中でプラトン社『苦楽』編集長時代に作家に払った原稿料や挿絵画家に払った挿画料についてふれている。挿絵画家の部分は以下である。

  さし絵の画料は大部分は一枚につき五円、その上が十円で、大橋月郊、和田邦坊、名越仙三郎(ママ)、田中良、宮尾しげを、前川千帆、水島爾保布、細木原青起、清水三重三、野口紅涯、小田富弥、谷洗馬、一刀研二らがそのグループであった。

もちろん別格はあって、木下孝則、伊藤彦造、岡本一平、岩田専太郎、竹内栖凰などは20円だったとのこと。さて、竹中英太郎であるが初めて『クラク』に挿絵を提供した1927(昭和2)年11月号には大下宇陀児の「盲地獄」と本田緒生の「罪を裁く」という二つの小説に挿絵を描いているが、デビューしたてなので一枚5円組と思われる。タイトルと挿絵3点を二編で挿画料はおおよそ40円となったことになる。当時の竹中は主に雑誌『人と人』と『家の光』に数多くの挿絵を提供していたが、プラトン社からの挿画料40円は、それでも大きな金額であったろうと想像される。

竹中英太郎挿絵「クラク」昭和2年11月号 大下宇陀児「盲地獄」2.jpg
『クラク』昭和2年11月号 大下宇陀児「盲地獄」挿絵

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『クラク』昭和2年11月号 本田緒生「罪を裁く」のタイトルカット

2.プラトン社専属の話
 竹中英太郎の長男、労の出生は1928(昭和3)年3月30日であるから、このときすでに最初の妻である伊津野八重子には労がやどっていたわけで、安定した収入をなんとしても稼がねばならない事情が竹中にはあったと考えられる。竹中がデビューした1927(昭和2)年11月号の挿絵執筆陣をみると、大橋月郊、和田クニ坊、刈谷深隍、吉田眞里、竹中英太郎、山六郎、山名文夫と目次に記載されている。12月号はといえば、岩田専太郎、鳥居清忠、大橋月郊、小田富彌、和田クニ坊、刈谷深隍、吉田眞里、山六郎、山名文夫、堤寒三、福岡青嵐、佐川珍香となっており、竹中はこの号に限って仕事をもらっていない。11月号の評判をみて次の依頼を編集部は考えていたのだろう。竹中が次に挿絵を描くのは1928(昭和3)年新年号の山口海旋風「興安紅涙賦」のタイトルと挿絵3点であった。『クラク』への挿絵デビューは成功だったわけだ。圧巻は次の2月号である。夏目漱石の小説「虞美人草」をもとに「名作繪物語」と名付け、竹中英太郎が10点の絵をつけている。そして、松本泰の探偵小説「嗣子」に5点の挿絵を描いているのだ。この時点でもまだ1点5円のランクであったとしても合計75円の挿画料となったはずだ。臨月間近の妻を抱えた竹中にとってはありがたかっただろう。プラトン社が月給100円で専属の挿絵画家にならないかと誘ったというのは、おそらくこの時期のことであろうと思う。妻の八重子、熊本に残している母など家族のことを考えればプラトン社のこの誘いは断る理由がなかったであろう。
竹中英太郎挿絵「クラク」昭和3年2月号名作繪譚「虞美人草」1.jpg
『クラク』昭和3年2月号名作繪譚「虞美人草」の竹中英太郎挿絵

3.プラトン社の倒産
 続く3月号では大泉黒石の「葵花紅」にタイトルと挿絵6点を、4月号では三上於菟吉の「早稲田應援歌」に挿絵1点、渡邊均の「祇園の春」にタイトルと挿絵2点、押川春浪原作の「名作繪物語 怪人鐵塔」に挿絵8点、近松秋江の「春と女」にタイトルと挿絵4点と合計17点も描いている。5月号でも田中貢太郎の「殺人鬼横行」にタイトルと挿絵4点、永松浅造の「五大疑獄事件眞相」にタイトルと挿絵9点の合計15点を描いている。雑誌『家の光』のときも同様であったが、編集者にとって竹中は使いやすいのか、デビューしてしばらくすると、かなりの数の挿絵の依頼を受けることになる。『クラク』でも前述の通りである。編集長である西口の「使える」という直感もさることながら、才能を即座に見破った山名文夫の「眼」を感じないわけにはいかない。後に挿絵を竹中に依頼する立場になる横溝正史が「困ったときに原稿を走り読みさせて編集部の席その場で挿絵を描いてもらうなど」と普通では頼めない仕事も竹中は嫌な顔もせずに受けたと回想されていたが、竹中のそうした柔軟な対応が仕事を増やしていったのだと考える。この量の仕事を順調にこなし、プラトン社の専属挿絵画家の話を受けるつもりだった竹中に思いがけない事態が待っていた。それはプラトン社の倒産だった。長男の労が生まれ、熊本の母親も呼ぼうとしていた矢先のことだった。実に竹中英太郎22歳のことである。この1928(昭和3)年は激動の年で、昭和恐慌による銀行倒産もあった(プラトン社倒産も銀行倒産が引き金に)し、2月には第一回普通選挙が実施されたが、その直後の3月15日に労農党、共産党への一斉検挙があった転換点の年でもあった。これに対抗する形で上落合に全日本無産者藝術連盟(ナップ)が結成されたが、この時点では竹中英太郎はすでに下落合を離れてしまっていた。
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ナカムラ

ChinchikoPapa様 nice!をありがとうございました。
by ナカムラ (2009-05-19 17:47) 

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