闇に香る蒼き薔薇―中井英夫と竹中英太郎(2) [竹中英太郎]

3.中井英夫の竹中英太郎評価

竹中英太郎の画業が、昭和三年、乱歩の「陰獣」とともに始まり、十年の「大江春泥画譜」で実質上終わったとしても、私はそれを過去の一業績とみなすことはできない。(「胎児の夢」)

このように書いている中井も竹中の画業が1928(昭和3)年8月の『新青年』夏季増刊号の江戸川乱歩「陰獣」に始まったわけではないことは承知の上である。その上で上記のように書いている。『家の光』での画業もプラトン社の雑誌『クラク』での画業も中井には竹中の本領とは見えていないのだろう。たしかに竹中の内面的な本質を描き出すような筆致が本格的に登場したのは、「陰獣」の挿絵からであったと思う。以前にも書いたことがあるが、『家の光』における挿絵においても竹中は「陰獣」挿絵につながるような描き方をしている。ただし、徹底できてはいないのである。それはもしかすると、当時の印刷技術の発達と比例しての変化だったのかもしれない。線による表現からぼかしを組み合わせた面の表現への変遷は印刷製版の技術にも関係すると聞いているが、私にはよくわからない。

英太郎はあくまでも乱歩、正史、そして夢野久作だけの挿絵画家だが、それをもってその世界の特異な、狭小なものを思い棄てることはできない。その時代の魂を掴み取り、表現し切ったとき、誰がビアズレーを単なる世紀末の画家と見なして括然としていられるだろう。ビアズレーも英太郎も、つねに鮮しいのだ。三人だけの挿絵画家だったのは、その三人だけが日本の風土に徹し切った本物の探偵小説家だったからで、小栗虫太郎は逆にいえば、胸中の狂熱を表現してくれる画家と、ついに出逢わずじまいのままだった。松野一夫の多彩な才能をもってしても「黒死館殺人事件」にふさわしいもうひとつの世界を創り出すことはできなかったのである。(「胎児の夢」)

ここまで言うかというような決めつけ方で書いているのは乱歩、正史、久作という3人の作家とのコンビによって、本物の凄い世界を具現化したとの評価である。中井にとって他の作家との間で成立する竹中英太郎挿絵はありえないのだろう。中井は特に夢野久作の「ドグラ・マグラ」の挿絵は(現実にはありえないのだが)絶対に竹中英太郎でなければならないと思っているようで、「夢野久作の小説世界は、逆に竹中英太郎の画を文章化したものである」という幻覚のような、しかしある部分、納得感のある考えを示している。「鬼火」原画をみつめながら、その向こうに「ドグラ・マグラ」の世界を中井はみている。それも「裏返し」にである。

竹中英太郎挿絵「新青年」昭和4年1月号江戸川乱歩「悪夢」.jpg
『新青年』昭和4年1月号 竹中英太郎による「悪夢」(江戸川乱歩)への挿絵

4.『虚無への供物』が書かれた場所
 雑誌『新青年』を古書店で探しては購入し、久生十蘭や夢野久作などの探偵小説との出会いを楽しんでいた中井英夫の創作的返歌は「塔晶夫」名義で書かれた稀代のアンチ・ミステリー作品『虚無への供物』一冊であった。1964(昭和39)年2月29日に初刷発行、講談社からの刊行であった。『虚無への供物』は高校3年生のときに初めて読んだのだが、そのときは文庫版を手にしたのだった。最近になって初めて講談社の単行本初版を手にした。そして奥付ページの「著者略歴」をみて驚いたのだった。そこには以下のような記載があった。

1924年東京生まれ。旧制府立高校を経て東大言語学科中退。在学中、嶋中鵬二、吉行淳之介らと第14次『新思潮』を発行。以後小説を発表せず、この作品が処女出版である。現住所・東京都新宿区下落合4の2123中井英夫方

時期は全く違ってはいるが、1926(大正15)年頃、若き日の竹中英太郎は作家の小山勝清を頼って下落合に熊本ゆかりの人々と隣近所になって住んでいた。そのときの小山勝清の住所は「下落合2194」。そして私が竹中英太郎の家と推理しているのは「下落合2193」である。そこから『虚無への供物』出版時の中井英夫の家まではおそらく徒歩で1~2分。当時の地割で4ブロックほど西へ行ったところが中井の住所なのだ。もちろん、当時の中井は竹中とのこの不思議な縁には気づいていないと思われる。その証拠に竹中への熱い思いを綴った「胎児の夢」には関連する何の言及もない。『中井英夫作品集』別巻(三一書房 1988年9月15日刊)に収められている自筆年譜によれば、以下となっている。

1929年7歳の時に「福引の景品のノートに小説やさし絵を書き目次を作り、雑誌に作りあげるのが楽しかった。江戸川乱歩を耽読。」
1935年13歳の時、「高師付属中へ進学。小栗虫太郎、夢野久作を愛読。」
1941年19歳の時、「浪人中からリラダン、メリメ、フランス等に親しむ。またプロレタリア文学に初めて接し、村山知義、小林多喜二、中野重治を熟読。」
1955年33歳の時、「1月、突然に「虚無への供物」全編の構想浮かぶ。古い「新青年」を買い集め、久生十蘭を愛読。」
1956年34歳の時、「六月、角川書店へ「短歌」編集長として入社。春日井建、浜田到ら新人を発掘。「虚無」の執筆進まず。」
1958年36歳の時、「新宿区中井へ転居。」
1964年42歳の時、「二月に塔晶夫の名で同社(講談社)から刊行された。翌年の毎日新聞や早川のミステリーマガジンでは、戦後二十年の推理小説ベストスリーの一に選ばれたが、書評ではおおむね不評だった。」
1967年45歳の時、「八月埴谷雄高の朝日新聞紙上の一文から「虚無・・・」再評価の動き。柏木へ転居。翌年中野へ転居。」とある。

竹中英太郎地図原稿.jpg
「下落合事情明細図」に加筆。2121番地が後の中井の住居

つまり中井は1958年から67年まで約9年間を若き竹中英太郎が住んだ下落合のいわゆる「熊本人村」のすぐ近くに住んだことになる。しかも、その期間はまさに『虚無への供物』を本格的に執筆していた時期にあたっている。これは偶然の符合なのだろうか。思えば不思議な縁である。『虚無への供物』の構想を突然の啓示のように思いついてから古い『新青年』を集めだした中井であるが、そうして集めた中に一冊の「鬼火」前編完本があったという偶然。そして不思議。もちろん中井には改めて古い『新青年』を買い集めなくても乱歩や正史、久作の世界を理解、共感できる資質が備わっており、それが竹中英太郎の挿絵世界の評価にもつながるのであるが、この年譜でも不思議な逆転現象が生じる。見方を少し変えるならば、『虚無への供物』の構想を思いついたが、書き上げるための手段として中井英夫は古い『新青年』の竹中英太郎の挿絵世界の力を借りようとする。そして、それだけでは足らず、若き日に竹中英太郎が住んだ土地に転居してまで(執念で)『虚無への供物』一冊を(やっとのことで)仕上げたとも読めるのである。現実には、そんなことはありえない。しかし、この二人の作品世界を考えると「ありえる」と感じてしまうのである。中井は「廃園にて」で「喪われた竹中英太郎の挿し絵もそのままに『鬼火』の豪華限定版を出そうという奇特な出版社はないだろうか」と述べた。しかし私は『鬼火』もさることながら、中井英夫の『虚無への供物』に幻の竹中英太郎挿絵がついた限定本こそ手に取りたい。そうした思いを抱きながら講談社の初版本を手にすると、まるで本当は竹中の挿絵が印刷されていた魅惑のページ全てを破り取られているのではないか、との錯覚さえ感じる。中井英夫が偶然から『鬼火』完本を手にいれたように、この幻の一冊が私の書棚に収まることはないのだろうか。書棚の闇のむこうから微かに薔薇の香りがした。

竹中英太郎挿絵「新青年」昭和4年1月号夢野久作「押絵と旅する男」.jpg
『新青年』昭和4年1月号 竹中英太郎による「押絵と旅する男」(夢野久作)への挿絵

竹中英太郎挿絵「新青年」昭和4年1月号 夢野久作「押絵の奇跡」9.jpg
『新青年』昭和4年1月号 竹中英太郎による「押絵の奇跡」(夢野久作)への挿絵

※「鬼火」の挿絵原画は甲府の竹中英太郎記念館にも展示されている。素晴らしい作品である。
     http://takenaka-kinenkan.jp/
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ChinchikoPapa

面白いですね。なにかに引き寄せられるように、落合へ集合してくる様子に惹かれます。^^ さっそくTBさせていただきます。
中井英夫の旧居は、中井2丁目2123番地ですから、1965年以前の下落合の表記でいいますと、下落合4丁目2123番地、大正15年現在の「下落合事情明細図」の表記ですと下落合2121番地ではないでしょうか。2131番地ですと、中ノ道に面した五ノ坂の下、林芙美子の旧居「オバケ屋敷」あたりの地番だったんじゃないかと思います。
by ChinchikoPapa (2009-06-02 14:03) 

ナカムラ

ChinchicoPapa様:コメントありがとうございます。確認しました。2121番地が正しいです(下落合事情明細図ならば)。ありがとうございます。落合の引力に中井英夫もやられたのではないでしょうか。今はどうして尾崎翠が落合の引力にやられたかを考えています。
by ナカムラ (2009-06-02 23:28) 

空楽

ご訪問ありがとうございました。
にゃんこが5匹になり、ますますにぎやかになりました!
宜しくお願いします。
by 空楽 (2009-06-04 11:12) 

ナカムラ

空楽さま:にゃんこ5匹なんですね。落合のにゃんこはなぜか最近無口です。なぜだろう?こちらこそよろしくお願いします。
by ナカムラ (2009-06-04 21:18) 

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