竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(3) [竹中英太郎]

3.竹中と満州とのかかわり

②労働運動とのかかわりと満州

 私は竹中英太郎の満州とのかかわりは1936(昭和11)年の満州渡航からだと思っていた。しかし、渋谷松濤美術館で開催された「大正イマジュリィの世界」展に展示された竹中英太郎の絵ハガキによって、もしかしたらもっと以前から満州とのかかわりがあったのではないかと思うようになった。展示されていたのは1933(昭和8)年に月刊満州社から発行された『満州美人絵はがき』4枚であった。この時すでに竹中は月刊満州社と関係があったわけである。昭和8年といえば浅原健三が仙台にいた石原莞爾と会った年でもある。8月のことだった。浅原健三と竹中英太郎との関係を考えると、それは九州・筑豊にさかのぼることになる。1924(大正13年)年、前年の震災をのがれて熊本に来ていた田代倫の所で水平運動に関係した竹中は、5月の熊本での第一回メーデー組織にかかわる。そして、小山寛二の勧誘により浅原健三が企図していた筑豊炭鉱からの革命をめざしての潜入オルグに参加したのであった。浅原の首には賞金がかかり、ヤクザが雇われ、まさに白刃の下をくぐりぬけての活動であったようだが、あまりに過酷な労働条件に体がついていかずに脱落する仲間が続出して半年あまりで挫折に至った。竹中英太郎と小山寛二は最後まで頑張ったが、この年の暮れに東京に向かうことになる。竹中は勉強のために、小山は活動弁士になるために。実際には竹中は挿絵画家になり、小山は大衆文学作家になった。竹中と満州とのかかわりを考える時、二つの可能性を私は感じる。その一つは挿絵画家仲間とともに軍人たちとの交流をもったから、その流れでの関心。もう一つは、挫折以後も実は浅原健三とのつながりがあり、浅原を経由しての満州への関心である。浅原は満州協和会を組織し、推進していた。裏付けはとれないが、私は大きな可能性として浅原健三との関係の継続があったのではないかと考えている。では、浅原健三とはどういう人物なのだろうか。
 福岡出身の浅原健三は1919(大正8)年、日本労友会を結成、翌年の八幡製鉄所の大労働争議を指導、成功を収めるが、浅原は治安警察法違反で逮捕され有罪。出獄後、大杉栄に私淑、「大杉栄の弟子」を自称した。1924(大正13)年、筑豊炭鉱労働者の組織化をめざして組合を結成、若いオルグを送りこんだ。そして、これを基盤にした革命を企図したがあえなく挫折。議会による改革に方向転換し、1925(大正14)年に九州民憲党を立ち上げた。1928(昭和3)年の衆議院議員選挙に出馬、当選して議員になった。古市春彦を通じて堺利彦農民学校にもつながり、その第三期にあたる1932(昭和7)年10月18日~19日では講師を勤めた。堺利彦は前述したように竹中英太郎にとって落合における恩人にあたる小山勝清が書生をした先生にあたる。1933(昭和8)年8月、仙台の歩兵連隊長であった石原莞爾に会うが、これは転向したように見せて、実は軍部自体にオルグをかけ、内部から共産化し、和平を実現しようとする試みであった。そのターゲットとして石原を選んだのであった。なぜ石原だったのだろうか。石原は1928(昭和3)年、関東軍作戦主任参謀として満州に赴任。満蒙独立論を展開、「五族協和」を唱えた。満州を支配するのではなく、本当に独立を考えていた。たしかに、石原は板垣征四郎とともに1931(昭和6)年9月18日に始まる柳条湖事件を起こし、陰謀によって満州事変をおこし、満州国を建国してしまった。だが、浅原健三は五族協和による満州の独立という石原の理想にかけたのではなかったのではないかと思う。これに加えて浅原が私淑した大杉栄との精神的盟友関係にあった北一輝と同様に石原は熱心な法華経信者であった。満州国支配を各国が難じる国際連盟で松岡洋右は大苦戦、1932(昭和7)年12月6日には国際連盟を脱退してしまう。外交による孤立回避は果たせず、防共協定に応じてくれそうな国はドイツだけという深刻な状況になってゆく。一方、こうした時代の傾斜の中、1933(昭和8)年2月、ついに小林多喜二が虐殺される。絶望的な状況のなかで浅原は世界を巻き込むような大戦争を阻止するべく動いたのであった。それが石原への接近だったのである。そう考えると、昭和8年に竹中英太郎が月刊満州社から『満州美人絵はがき』4枚を発行しているのは意味深であると思うのだ。

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krause

貴重な情報をありがようございます。とても参考になりました。
by krause (2011-05-09 14:50) 

ナカムラ

Krauseさま:コメントありがとうございます。これからも宜しくお願いします。
by ナカムラ (2011-05-09 19:14) 

アヨアン・イゴカー

興味深い記事ですね。
当時、五族協和という考えを純粋に信じていた人々もいたと考えることは、救いかもしれません。尤も、何人も時代の潮流、思潮を超越することはできないと思いますが。
by アヨアン・イゴカー (2011-05-09 23:58) 

ナカムラ

アヨアン・イゴカーさま:コメントありがとうございます。五族協和の理想主義がうまく利用されてしまった部分もあったでしょうし、理想は常に反動と隣り合わせです。だから気をつけないと。ナチズムも初期は非常に社会主義的でした。
by ナカムラ (2011-05-12 01:49) 

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