竹中英太郎と『新青年』との1928年(2) [竹中英太郎]

 一方、思想的な部分でも決して目標を見失っているわけではなかった。それは昭和3年5月に発行された『左翼藝術』の創刊に参加していることからもわかる。『左翼藝術』には壷井繁治、三好十郎、高見順、上田進などが参加している。この『左翼藝術』は創刊号のみで終刊、メンバーは全日本無産者藝術聯盟(NAPF)に移行、『左翼藝術』は機関誌の『戦旗』へと吸収されることになる。竹中英太郎は『左翼藝術』のみの参加であって『戦旗』にその足跡は見つけられないが、生活のために挿絵を必死で描きながらも、どこかでは本来の志を果たす道を探していたものと考える。熊本にいた若き日の英太郎をオルグとして筑豊炭鉱争議に引き込んだのは浅原健三であった。昭和3年は普通選挙の開始した年。浅原は2月の衆議院議員選挙に立候補し当選した。政府は一方で普通選挙を実現しながら、他方で労農党や共産党への弾圧を強化した。治安維持法の改正も行った。こうした弾圧への対応のために大同団結したのが全日本無産者藝術聯盟であった。この弾圧の地方での実態を描いたのが小林多喜二の「1928.3.15」であった。鳥取出身の橋浦泰雄は全日本無産者藝術聯盟の初代中央委員長に就任した。こうした世相の中、『クラク』というメジャー商業誌の挿絵画家となった竹中英太郎があえて『左翼藝術』に参加したのはなぜだったのか。そして、エッセイを書き、漫画を掲載したが、その漫画のテーマは炭坑労働である。私はここにあるシグナルを感じる。それは、若き日に関係した筑豊炭鉱争議の浅原健三との再接近があったのではないかということである。

竹中英太郎カット「クラク」昭和3年5月号 田中貢太郎「殺人鬼横行」.jpg
『クラク』昭和3年5月号竹中英太郎挿絵「殺人鬼横行」(田中貢太郎)
nice!(18)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 18

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。