たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(3) [小説]

 意外にもシオンがこわごわ揚げていたライラックの花の天婦羅はきわめて美味だった。「どんなもんだい。」とふざけて力瘤を作っていた。姉さんは、北の港町から短大に通学するためにS市に移り住み、今は大きなホテルのフロントで働いていた。シオンはそんな姉を頼ってS市に出てきて学生生活を送っているのだ。姉さんはシオンに「あなたたちはどこで知り合ったの」と不思議がった。シオンは必死でとめたが僕は一部始終を話した。姉さんは聞きながら、大笑いしていた。「それはかわいそうね。シオン、あなたひどいわよ。」「わたしも実はそう思う。ただちょっと似ているというだけだったのにね・・・。」地下鉄の駅までシオンではなく、姉さんが送ってくれた。買物に行くついでがあるからということだった。「わたしたちの故郷のことはシオンに聞いた」と首をかしげた。「なにもない町なんだけどね。冬はほんとに厳しい吹雪が続くのよ。父は漁師だった。風の強い日に漁にでたまま帰らなかったわ。」僕はどんな言葉をかければいいのか全くわからなかった。うなずくこともできなかった。かなしい感情だけがわけもわからずに僕の胸の中で波打っていた。急に目の前の姉さんがいとおしくなって抱きしめてしまった。ちょっと驚いた表情をみせたが、姉さんは抱かれるままにしていた。「sayounara」「サヨウナラ」。

 そのころは二百海里問題が表面化したころで、S市にも遠洋漁業の船に乗れなかった出稼ぎの臨時雇いの船乗りさんたちが流れ込んでいて、駅のベンチなどで寝泊まりしていた。多くは東北から来ているようだった。それは各地であったようで、太平洋側のT市に行った時には路上で寝泊まりしているという漁師さんから握り飯をもらった。ところがその握り飯はすでに腐敗していて激しく臭った。僕は吐きそうになるのをこらえるがせいいっぱいだった。かくしてそばのゴミ箱にこっそり捨てた。申し訳ないと思いながら。また、炭鉱が事故によって閉山に追い込まれ失業者があふれ始めていた。S市や周辺の地域はこうしたやりきれない「思い」が充満し、ある種の倦怠感を感じさせるような空気が満ちていた。日本全体には違う空気感があったが、S市には確実にある「影」があったように思う。

今になるとそれを愛おしく感じている。

たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(2) [小説]

 シオンと僕はそれからたびたび会うようになった。北側に住んでいるとS市の南側にはあまり来ることがないようで、僕が南に住んでいることを知ると、南に行ってみたいと笑った。S市には梅雨がない。だから6月は気持ちのよい晴天が続く。シオンは地下鉄で街の中心部に出てきた。そこで待ち合わせて路面電車に乗った。電車ははじめ西に向かうがやがて南にむかって左折する。そのあたりは平屋の民家がつらなっている生活感のあふれる住宅地だった。青い空のした道路の脇に植えられたライラックの花が咲く。「リラ冷え」の季節でもあるが、晴れれば気持ちのよい気候だ。南に直進する路面電車の窓にM山の裾野が間近にひろがると電車はふたたび左折する。その手前でおりた。目の前の道は急な坂になる。シオンは目をみはっていた。「S市にも坂ってあるんだね。北の方に住んでいると山があるなんてわすれてしまうものね。」と微笑んだ。M山に登るこの道はさらに険しい坂になり、やがてロープウェイの乗り場になるのだ。乗り場のまわりにはライラックが何本もあり、美しく花を咲かせていた。その香りにむせてしまいそうだった。シオンは僕の腕にしがみつくようにし、「ねえ、ロープウェイ、乗るよね」とうれしそうに笑っていた。平日の日中のためなのかゴンドラにはシオンと僕の二人きりだった。窓からはS市の全景がひろがって見えていた。思いのほか美しい光景だった。眼下の山肌には新緑が萌え、所々に花も咲いていた。僕の腕の中で後ろ向きに抱かれながらシオンは眼下のS市にみとれていた。巣篭もりしているヤマネのようだった。ゴンドラの窓からの光が僕のヤマネを暖かく包んでいた。僕たちは幸せな気持ちを感じていた、のだと思う。

 シオンからの電話に呼び出されて彼女の家に出かけたのはライラックの花が満開になった晴れた日だった。僕に食べさせたいものがあるということだった。呼び鈴を押すとドアを半分開けて「はいって。はいって。」とうながされた。シオンの姉さんもいて、笑顔で僕を迎えてくれた。シオンのリクエストでドイツ産の白ワインを持参していた。窓からは満開になったライラックの香りがはいってきていた。「ライラックって何科に属しているか、ご存知かしら」と姉さんにきかれたが、僕にはわからなかった。「彼らはねえ、紫蘇科なのよね。だから食べられるのも当然かしらね。」さっきからシオンが台所で格闘しているのはどうやらライラックらしい。そのうち、油で何かを揚げる音が聞こえてきた。「へえ、じゃあ料理しているのはライラックの天婦羅ですか。珍しいですね。」「そうね、あなたの地方ではライラックの花を見ることも少ないでしょうからね。花の天婦羅なんて想像できないかもしれないわね。」S市に移り住んでからというもの空気感や気温ばかりではなく文化の差や言葉の差も感じた。最初に気がついたのは町の色だった。それは屋根が瓦ではなく鋼板に着色がされていたことが原因でのことだった。ひとめ見渡した時の町全体の色彩が南の地方とは違っているのだ。それほどあちこちに原色が点在しているのだった。あるとき「こわい。こわい」といわれたので、真剣に「幽霊でも見たの」と質問をし、大笑いされたものだった。そうして失敗をしながら、ひとつひとつ学んで順応してきたのだ。窓からは心地よい風が吹き込んできて姉さんの髪を揺らし、シオンの首に吹き付けた。それは、まるでライラックの風だった。

たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(1) [小説]

 バシッ。いきなり平手でたたかれた。僕の右頬は湯をかけられたように熱くなり、ひりひりと痛んだ。そのとき風のように現れ、面前に立った少女の真っ赤な靴の色が目に今も焼きついている。SUSUKINOとよばれるネオンあふれる町にある大きなディスコの玄関だった。急に激しい雨がよこなぐりに降ってきたので、路面電車の終点の駅から走ってきたばかりだった。事情がまったくのみこめなかった。「何をするんだ」と叫ぶと意外にも「ごめんなさい。・・・どうしよう」とおろおろした声。どうやら人違いをしたらしい。顔をあげると鼻がツンと痛んだ。

 シオンとの出会いはこうした誤解から始まったのだった。彼女は僕に似た男に裏切られたらしいのだ。そこで、そいつを待ちかまえてバシン。ところが人違いで僕がたたかれたというわけだった。シオンはS市の北の方に姉と二人で暮らしていた。S市は中心部から北側がまったくの平野。その先には海がひろがっている。「ハンカチ」を差し出されてはじめて鼻血が流れていることに気がついた。少しあおむけに休んでいるとシオンが不安そうにのぞきこんだ。おおきな茶色の瞳がゆれていた。僕はディスコで踊るつもりだったけれどやめた。シオンがあまりになさけない泣き顔をしているので、仕方なく大きなホテルのロビーにあるちょっと高級なケーキショップに行った。僕はイチゴのミルフィーユ、シオンはマスクメロンのショートケーキを頼んだ。向かいあう二人が映り込む大きなガラス窓のむこうを緑色の路面電車が走ってゆく。まるでシオンの頭ごしを走っているようにも見えた。シオンはしばらく黙っていた。さすがに複雑な思いで僕に接しているようだった。まあたしかに、彼女をだましてすてた男と僕は似ているのだからな・・・。できれば今さら思い出したくもないだろう。それなのにシオンの前に僕は座っているのだ。シオンはS市のはるか北に位置する海沿いの小さな港町に生まれた、しばらくして僕にそう話した。僕の耳にはずっとウミネコの声がなぜだか聞こえていた。雨の宵はネオンの光る夜の帳に変り、タクシーのクラクションの音に僕らは包まれていった。時間のたつのがすごく速く感じた。シオンは次第に笑顔に変わっていった。

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