たいせつな風景・S市点描「十年後を待ちながら」(4) [小説]

Kohseiさんとのつきあいは僕がS市を離れる日まで続いた。ときどきは会い、文学の話をし、お互いの女性関係の話をしたりした。Kohseiさんは一人のときはジャズをきき、ソウルをきいてはバーボンをのどに流し込んでいたようだ。一日の生活でついてしまった傷口を無理に消毒するような飲み方だった。那美さんは芝居の方のかかわりが深くなって次第に会う機会もなくなった。僕はしかし、僕たち三人が肩をよせあった初夏を忘れない。いや、忘れられない。

 僕が始めたアルバイトの職場に本当に偶然にKohseiさんが職を得たのだった。僕は驚いたが、Kohseiさんも驚いていた。しばらくして二人はコンビを組んだ。配達をするのにKohseiさんが運転し、僕が手持ちして個宅に配達・納品した。アルバイトの間、二人は朝から夕方までずっと一緒だった。お互いに話す時間は無限にあるのではないかと思ったほどだった。僕たちは車でS市のすみからすみまでを走りまわることになった。夏の輝くような緑の林の中を抜け、秋は真紅の山肌を走り、黄色の葉が舞い散る歩道をあるいた。真冬には雪にタイヤをとられて回転し、トラックにぶつかりそうになった。二人ともに命拾いをしたと思った。
Kohseiさんもさすがに冷静さを失い、真っ青になっていた。雪がとけるとそこから緑が萌えた。蕗の薹だった。水辺には水芭蕉が白い花弁を伸ばした。雪が完全に消えるころ、タラの芽が誰も収穫する人もいないままに放置されているのに気付いた。Kohseiさんに相談し、少しさぼってもらい休憩時間でタラの芽をつんだ。Kohseiさんが煙草を一本喫う間にビニール袋いっぱいにつむことができた。当時のS市にはタラの芽を食べる習慣はなかったようだった。下宿に持ち帰ったが、誰も喜ばなかった。それもそのはずで、誰一人食べ方を知らなかったのだった。仕方なく下ごしらえから僕が一人で料理した。天婦羅にあげたのだが、あげ終わるともの凄い量になっていた。

 学部に進学してからの僕は次第に交際の範囲を広げ、文学関係の仲間よりも美術関係の仲間との付き合いが広く、深くなっていった。もちろん、長い休みがとれる夏休みの時期にはKohseiさんの車にできるだけ乗るようにした。だが、学部に進学すると専門課程の勉強が待っており、そうそうアルバイトにせいを出すわけにもいかなくなっていた。

 大学四年生の秋、僕は東京の大きな会社の就職試験を受け、内定をもらってしまった。S市で頑張ろうといっていた仲間たちからは裏切者よばわりもされたが、S市に残ると約束したわけではなかったので、そんな相手からも「おめでとう」の祝福をされた。Kohseiさんもそんな一人だった。「東京に行ってしまうのかあ・・・」と寂しそうに笑った。そして煙草をふかしていた。そのうつむいていた影を妙に記憶している。お祝いだなと連れていってくれたのはやはりSUSUKINOのジャズバーだった。その日はモンクの曲がかかっており、モンクが終わるとコールトレインの曲が大きな音量で流れてきた。明け方近く、あたりはその年の初雪に包まれた。静かなしずかな情景であった。涙が出そうな美しさだった。

 仕事に就いた僕は仕事を覚えるのに精いっぱいで、Kohseiさんに連絡することもなかった。そんなときに会社の電話が鳴ったのだった。電話の相手はS市の僕とKohseiさんの雇い主であった方であった。どうしたんだろうと思ったが、彼は「Kohsei君が亡くなった。昨日のことだ。君には知らせておこうと思って調べて電話をしたんだ・・・。」と告げた。
僕はなんとかしたかったが、S市には行けなかった。那美さんの死も同じ雇い主から聞いた。あの夏の二人の声が蘇る。林檎の花をみるたびに那美さんとKohseiさんの姿が眼前に現れる。那美さんに十年後に会いに行かなかったことを悔やんだ。

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たいせつな風景・S市点描「十年後を待ちながら」(3) [小説]

 僕と那美さんとのつながりは文学だったが、那美さんは演劇につよい関心をもっていた。どうやら芝居の演出や舞台美術の仕事なども受けていたようだった。S市にはいくつかの劇団があって、那美さんもその一つに属していた。S市の中心近い商店街にT小路があり、賑わっていた。いつも人通りが絶えなかった。東から西に向かい長いアーケードがつながっていて、おおくの飲食店やみやげもの屋があった。文学者がおおぜい集まるバーもT小路にはあった。演劇関係者はT小路の真ん中あたりの2階にあったロシア料理店によく出入りしていた。那美さんからの次の呼び出しはこの「ロシア料理店に集合!」であった。S市にはロシア革命のときに亡命、来日したロシア人もいた。那美さんの演劇仲間にもロシア人のクォーターだという女優がいた。芝居の打ちあげをロシア料理店でやったそうで、まだ何人かの役者も残っていたが、そこに僕は呼び出されたのだった。「今日は私のおごりだから、好きなものを頼んでよ」と言われた。どうやらこの間のお詫びらしい。那美さんらしいが、これだって考えようによっては、かなり遅い時間だったし、僕が迷惑に思わないなんて確信はないだろうし、不思議なお詫びではあった。
 
 那美さんはハンガリー・トカイの貴腐ワインを飲みほしてしまい、今は冷凍したボトルからどろどろになったストラバヤを飲んでいた。僕は那美さんが頼んでくれたボルシチを食べ、露西亜餃子やキノコ料理、ピロシキをたいらげた。飲めない僕はバラのジャムのロシアン・ティーを飲んだ。そして「この人はねえ、十年後が楽しみなのよ。私はね、十年後にこの人がどうなっているのか確かめたいと思うの。」と那美さんはマスターや残っていた俳優たちに告げた。役者たちは「君は一体何をしている人なの。」と僕のまわりに集まってきた。でも、僕はなにものでもなかった。那美さんが僕の手をとって店の外へと連れて走った。アーケードがきれた空には天の川が流れていた。きれいだった。まるで空に無数の星が溶けてゆくようだった。そうまるで、今まさにその場で融けているようだった。星のるつぼがそこにはあった。

 Kohseiさんは、那美さんに自分が何を言ったか覚えていないようだった。あるいは覚えていない振りをしているだけかもしれなかったが、それ以上詮索はしなかった。Kohseiさんと僕はあの夜以来親しくなり、よく会うようになった。Kohseiさんは普通の人に比べて強い感受性を持っていて、その分傷つきやすいように思った。いつも自分を自分で傷つけてしまうところがあって、それが僕には心配であった。ある日、車で僕の家にやってきたKohseiさんは「今からH市にゆこう」という。さすがに僕は驚いた。大丈夫なんですか、仕事はどうするんですかと思った。Kohseiさんは全くそんなことは気にしていなかった。H市にはKohseiさんと同じころに文学に関する新人賞を受賞した文学者がいて、その人を訪ねるというのだ。迷惑じゃないだろうかと思ったが、「大丈夫。」と断定されて助手席にのった。はじめて乗ったKohseiさんの運転は予測不能な動きをすることがあって少し戸惑ったが、すぐに慣れた。車窓には初夏の山並みや緑が飛びこんでくる。窓をあければさわやかな風がほほに吹き付けた。さすがにH市は遠く、一泊することになった。Kohseiさんは純粋で、無垢でまっすぐな人であったが、一方で向う見ずな、こうしようと決めたら曲げないところがあって、周囲を戸惑わせた。山の上からみたH市の夜景は美しく、きらきらと輝いていた。Kohseiさんは那美さんが僕たちのそばにいないのが寂しいようだった。そのことをきくと、さびしそうに笑った。麓からは気持ち良い風が吹いてきていた。

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