新宿・落合散歩(3) [落合]

第二章:アヴァンギャルド芸術のゆりかご「マヴォ」

 第一章で書いたように大正後期のアヴァンギャルド芸術運動の中心的な存在は前衛芸術家集団マヴォである。マヴォはベルリンから戻った村山知義を中心に未来派美術協会からメンバーが移籍、参加する形で形成された。村山が上落合に帰国する時期、未来派美術協会に所属していた尾形亀之助、柳瀬正夢、大浦周蔵、門脇晋郎は落合に住み始めている。また、その後マヴォに参加するアナキストの岡田龍夫も下落合に住んでいた。機関誌『MAVO』の後半号の編集長となった詩人・萩原恭次郎も下落合の住人となっている。このようにマヴォの主要なメンバーは落合に住んでおり、大正新興藝術運動のスタートを飾ったアヴァンギャルド集団マヴォを育んだのは新宿・落合という地域であった。マヴォは1923(大正12)年7月に前述の5人によって結成された。マヴォはそれまでの絵画中心の美術のあり方を変え、建築や舞台美術、商業美術や舞踊などにその活動の主体を移してゆこうと宣言された。村山はベルリンにおいてノイエ・タンツの影響を受け、自ら新たな美術表現としてパフォーマンスを舞台で見せる方法も採用している。三角のアトリエにおけるパフォーマンスの写真が残されているが、村山自身は上屋敷の自由学園(フランク・ロイド・ライトの設計)に併設されている遠藤新設計の講堂を使ってダンスのトレーニングやリハーサルを行っていたようである。そもそも、村山の母親は婦人之友社の記者であった。村山もベルリン留学前から『コドモノトモ』に童画を提供していた。自由学園の第一期卒業生に岡内籌子がいた。岡内は婦人之友社の記者となり、『コドモノトモ』に童話を書いた。岡内と村山は記者と画家という形で出会い、ひかれあった。やがてふたりは結婚することになり自由学園の羽仁夫妻を仲人にたてて結婚した。婚礼場所は自由学園であった。この自由学園から「マヴォの歌」をうたいながら上落合の三角のアトリエの家までマヴォのメンバーは村山を連れ帰った。この結婚の帰結としてマヴォの解散があった。この章の主題ではないが、村山がボルシェビキ化するのには妻の籌子の存在が絶大であったと思うからだ。籌子は社会主義者でない夫を叱責していた。「社会主義者にならないなら別れる」くらいは平気で宣言していたようだ。マヴォの結成直後から柳瀬正夢によってオルグをかけられていた村山であったが、柳瀬だけでは村山のボルシェビキ化は難しかったと思う。籌子とのダブルパンチに負けて、やがて村山は社会主義者になっていったのだと思う。初期メンバーであった尾形亀之助は美術家としては村山や高見沢、岡田といった過激なマヴォイストにはついていけなかった。尾形は詩人という立ち位置に集中してゆく。マヴォイストたちはロシア・アヴァンギャルドのメンバーたちと同様に建築やデザインにその活動の比重をおいた。関東大震災後の復興時期にバラック建築の装飾を請け負う仕事に精力的に動いた。一方、柳瀬は挿絵や漫画、ポスターデザインなど印刷メデイアに注力してゆく。そして注目すべきもう一つのポイントは印刷美術であった。マヴォの機関誌『MAVO』にはメンバーによるリノカット版画が多数掲載されている。『MAVO』の後半の編集長である萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』はロシア・フォルマリズム詩の影響を感じる形態的な詩が収録されたが、挿入された挿絵が素晴らしい。主に岡田龍夫を中心にリノカット版画によって、形態的な言葉と抽象的な画面構成によるコラボレーション世界が構成された、まさに画期的な一冊に仕上がっている。このリノカット版画を印刷物に使うという方法は極めて新しい方法であった。リノカット版画を表現として多用したピカソやマティスよりも早い時期にこの活用ぶりは見事である。作品を提供した村山、柳瀬、岡田などを考えると、リノカット版画活用の発祥の地として落合は記憶されるべきだろう。震災復興ではバラックによる劇場の公演も了解された。これを利用したのが土方与志の築地小劇場である。大阪の雑誌社プラトン社の顧問格であった小山内薫も駆けつけた。ここでも村山や柳瀬は舞台美術や脚本という形で活躍する。マヴォの絵画から飛び出すというコンセプトはどんどん現実化していった。しかし、マヴォの活動期間はみじかかった。中心であった村山自身がマヴォを脱会したのだから無理もない。村山はいつのまにか左傾化し、ボルシェビキになっていたのである。マヴォが実質解散したのは1925(大正14)年のことである。従い、この過激にして先端的であったグループの活動は3年に満たないという短期間のことであった。メンバーはヨーロッパのダダや未来派や構成主義を受容、従来の絵画の概念をうちやぶる活動を行った。とくに高見沢や岡田のパフォーマンスは特異であった。しかし、グループに属したメンバー達を見るとお互いにずいぶんと異質な構成だなと思う。村山は当時はアヴァンギャルドな純粋芸術至上主義だし、柳瀬はすでに社会主義、尾形は言葉の側に傾斜しているし、岡田はアナキスト、高見沢はボルシェビキでマヴォイストだと自称してはいるが、メンバーの中でも特に独自。逆さづりになったパフォーマンスの写真が残っている。『MAVO』の表紙に爆竹を貼り付け、結果その号を発売禁止処分にしたのも高見沢である。何か共通した要素がないかとみたら、面白いことに気が付いた。柳瀬も高見沢もマンガで活躍した。村山と柳瀬は演劇で活躍した。童画では村山と柳瀬が活躍する。挿絵では村山、柳瀬、高見沢が活躍する。装丁では村山、柳瀬、岡田が活躍した。全員がファインアートでは共通なので、それ以外の美術周辺で村山と柳瀬の二人を中心にメンバーは才能を発揮したのだった。村山が社会主義に転向した後、残されたメンバー(特に岡田)でマヴォを継続しようとしたが、実質は村山が脱退した時点で寿命は尽きてしまっていた。

 短命であったマヴォであるが、活動の意味は大きかった。そして日本のアヴァンギャルド芸術に与えた影響は大きかった。ダダイズムの意識をヨーロッパから正統に引き継いだのはマヴォだっただろう。モダニズム文化とプロレタリア文化が昭和初期の文化的前衛となってゆくのだが、そのトリガーはマヴォにあったのだと私は思う。そして、こうした文化の中心的な動きばかりでなく、いわゆるサブカルチャー的なものにも影響を与えていったのがマヴォの特徴ではないかと思うのだ。また、大きかったのは海外のアヴァンギャルド運動と同時的に影響しあっていたことである。マヴォメンバーの活動が同時期の海外のアーティストに即自的に伝達されていたということになる。これは少し後の時期に山中散生や瀧口修造がシュルレアリスム運動と即時的につながっていたことの先例であったのではないかと考える。その中心にはいつも村山知義がいた。小滝橋に近い上落合186番地にあった三角のアトリエは村山の城であった。日本のアヴァンギャルド芸術の起源がマヴォであるならば、アヴァンギャルド芸術の故郷は新宿・落合だといっていいだろう。終戦間近の空襲の際に戸山練兵場を狙った絨毯爆撃によって三角のアトリエも多くの家も消えてしまった。今はその痕跡が残るだけであって、地域の記憶からも消えてしまっている。
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新宿・落合散歩(2) [落合]

第一章:初期の落合住民は画家たち

 落合地域への人の流入に大きな変化が生じたのは関東大震災以後である。落合地域が震災の被害、特に下町地域で甚大な被害となった火災を免れたことから中心部からの避難者が借家をこの地域にも求めたあたりから転入者が増えてくる。初期の落合居住者はこの震災以前の住人であると私なりに整理している。

 1923(大正12)年9月以前に落合を住まいとしていた文化人を見ると画家が多いことに気付く。もちろん、画家ばかりではなく作家の辻潤や小山勝清、歌人の会津八一なども居住していた。画家のうち目立つ初期住人では1916(大正5)年にアトリエを下落合に構えた中村彜がいる。エロシェンコを目白駅でスカウトして中村彜のアトリエまで連れてきた鶴田吾郎、彜の盟友である曾宮一念も下落合に住んでいた。1921(大正10)年5月28日の新聞には「エロシェンコが上落合の辻潤の家に遊びに来た」の記事があり、中村彜作の重要文化財絵画「エロシェンコ氏の像」のなりたちエピソードとあわせて興味深い。中村彜のアトリエは増築や改築はされているものの画家・鈴木誠によって継承され、当時と同じ場所に現存していた。そして現在は、部材などを最大限にいかしながら大正時代の姿に復元、アトリエ記念館として保存されている。

 同じく画家、金山平三が中井二の坂上にアトリエを建設したのは1923(大正12)年。金山は下落合の中井地区をスペインの芸術村、アビラに似ているとして「アビラ村」と呼んだ。そして、日本における芸術村をこの地に作ろうとした。しかしこの構想はほかの画家たちの移住がなく成功しなかった。ただ「芸術村」の名前は伝承したようで、1925(大正14)年にこのアビラ村のすぐ西側に越して来た、詩人の高群逸枝の『火の国の女の日記』には当時の生活の述懐があって「この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで「芸術村」という俗称もあった。」の記述がある。金山のアトリエも一昨年までは現存していたが、現在は取り壊されてしまい、何の痕跡も残ってはいない。場所の記憶のみがわれわれに残された。

 パリの町を激しいタッチで描いた佐伯祐三が下落合にアトリエを作ったのは1921(大正10)年のこと。パリに1923(大正12)年に留学するまでと1926(大正15)年に帰国して、ふたたびパリにむかう1927(昭和2)年までの期間にアトリエと併設された母屋に住み、落合風景を中心とした東京の風景を描いている。このアトリエは下落合661番地に母屋とともにあったが、現在はアトリエのみが保存されている。パリで夭逝した佐伯の絵は1930年協会会員であった外山卯三郎の実家に届けられたようであるが、外山の実家は下落合1146番地であった。

 震災後の住民たちが落合を住処にしてゆくにあたり、もっとも求心力をもっていたとおぼしき初期の住人はなんといっても村山知義である。村山が落合にいたためにアヴァンギャルド芸術家たちは落合に集った。またボルシェビキに変ったのちの村山のもとに次第に左翼文化人たちは集まり、かたまって住んだのであった。そのため落合一帯は「落合ソヴィエト」と呼ばれたこともあったそうだ。その求心力をもった村山知義がベルリンに留学に行くのは1922(大正11)年初めのことであるが、その時点ではすでに村山には上落合186番地に母や弟とともに住んだ家があった。ベルリンには哲学を学ぶために留学したのだが、留学してすぐに構成派や未来派の美術、演劇、舞踊等にふれて学業を放棄、美術制作に没頭した。ベルリンではアヴァンギャルド芸術を紹介する画廊に入りびたり、現地で開催された大規模な未来派美術展覧会にも参加している。だがベルリンにはわずか1年の滞在で1923(大正12)年1月には帰国、三角のアトリエを母屋に足している。5月には小滝橋に近い自宅で「村山知義、意識的構成主義的小品展覧会」を開催した。この展覧会には近くに住む未来派美術協会所属の柳瀬正夢、尾形亀之助や大浦周蔵、門脇晋郎などが訪れたが、彼らも落合、あるいは近隣の住人であった。柳瀬の下宿は東中野の住所ではあるが、村山の自宅から徒歩で10分とかからない場所であった。尾形は村山の叔母が落合にもっていた家作を借りていた。村山自身が『演劇的自叙伝2』の中にそう記述している。場所は現在の中井駅の近く、落合第五小学校の南側にあたる場所(上落合742番地)であった。そばには大浦や門脇の住む借家もあったようだ。このメンバーたちで7月はじめに前衛芸術家集団マヴォを結成するのだから、まさに落合はアヴァンギャルド芸術の故郷ともいうべき土地である。尾形亀之助は義兄のすすめで未来派美術協会に属した。東中野に引っ越してきた柳瀬正夢も未来派の会員。二人はともに協会に不満を持っていた。その二人の真ん中にベルリンから最新の構成主義をひっさげて村山知義が帰国したのであった。おそらくは大きな期待をもって村山を迎えたことは想像に難くない。グループ・マヴォは浅草の伝法院で「マヴォ第1回展覧会」を7月末に開催した。そして機関誌『MAVO』を創刊した。雑誌『MAVO』は世界のアヴァンギャルド芸術雑誌(たとえば『デ・シュトゥルム』や『MA』など)と連携、お互いに交換された。

 こうした状況下、1923(大正12)年9月Ⅰ日、関東大震災が発生した。当時の村山はまったくプロレタリア文化に興味がない。総合芸術としての建築の冒険的なテストのチャンスが与えられたと考え、バラック建築の装飾を次々に請け負った。のちに深くかかわることになる築地小劇場を土方与志と小山内薫が立ち上げる。今和次郎のバラック装飾社とも連携した。柳瀬正夢は大山郁夫の家にいて憲兵隊に踏み込まれた。結果、下宿を憲兵隊に襲われ連行されたが、戸山ヶ原の直前に特高警察に引き渡されて淀橋警察署・戸塚分署に留置された。そこでアナキズム作家、平林たい子と知り合うことになる。後に平林とマヴォメンバーの高見沢路直(後の漫画家・田河水泡)とのお見合いを柳瀬夫妻が取り持つことになるのだから、これまた不思議な縁である。中井四の坂上に震災前から住んでいた熊本出身の作家、小山勝清は当日でかけていて検挙を免れた。特高が尾行につくような社会主義者であった小山は危険を感じ、逆に地域の自警団に加わるという選択を行いことなきを得た。落合の住人ではないが、1920(大正9)年に早稲田から落合を通って上高田に越してきたのは日本画家の橋浦泰雄であった。橋浦は鳥取・岩見の出身。鳥取士族の父をもつ大衆小説作家・白井喬二と親しく、弟の関係から有島武郎とも親しかった。民俗学研究においては柳田國男の一番弟子のような存在でもあった。鳥取人脈をもつ橋浦が上高田に下宿を構えたことで、のちに南宋書院をおこす涌島義博が妻の田中古代子とともに上落合に住むことにつながった。橋浦は有島武郎の著作集を出版していた足助素一の叢文閣の編集や本の装丁を担当していたが、震災の地震見舞の際にはじめて叢文閣において大杉榮と偶然に出会う。大杉が憲兵に虐殺される直前のことである。足助と橋浦は大杉の葬儀を取り仕切ったが、それは落合火葬場でのことであった。前述したように落合は震災後に大きく変わる。新築の借家が数多く建てられたのだった。
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