新宿・落合散歩(8) [落合]

第六章:機械美学の故郷としての落合

 機械美学の日本における提唱者は板垣鷹穂である。板垣は東京市外上落合599番地に大正末から住んだ。山手通の新規建設にともなう道路拡張が敷地にかかったため引越しするしかなくなるまで上落合の邸で暮らした。板垣鷹穂は1894年東京の生まれ。東京帝国大学を中退、1922(大正11)年に『西洋美術史概説』(岩波書店)、『新カント派の歴史哲学 』(改造社)を出版。ヨーロッパに留学をした。その後は建築、工業デザイン、モダニズム美術、文化の研究者として大学で教鞭をとる一方、数多くの雑誌に論文を執筆、それらを著作としてまとめ立て続けに発表していった。そしてなにより板垣を有名にしたのは機械美学を提唱したことにあった。だが、そもそも藝術における「前衛」すべてに興味をもっていた板垣は、美術や建築、工業デザインばかりではなく、演劇や映画、写真に関わる文章も数多く書いている。第五章で書いたように新興写真についての論文も世の中の流れをリードする形で書いていた。「前衛」とは必ずしもアヴァンギャルドなものばかりではない。社会主義的な考え方も当時の「前衛」であり、板垣はモダニズムを提唱する一方でプロレタリア文化についても受容している。そういうところ、きわめて懐が深い。このあたりの板垣の関心がストレートにわかるのは彼自身が編集主幹として雑誌の体裁から中身まで関わっていた『新興藝術』と『新興藝術研究』の二つの雑誌の中身であろう。『新興藝術』は1929(昭和4)年の創刊。板垣は「機械美論」をこの年に執筆している。また『機械と藝術との交流』の出版も1929年であった。創刊号には清水光「映畫と機械」、岩崎昶「宣傳、煽動手段としての映畫」、板垣鷹穂「航空機の形態美に就いて」、吉田謙吉「舞臺装置者の手帖(一)」、日下守夫「スゴンザック序論」、吉川静雄「パシフィック二三一號」が掲載された。第二号にあたる秋季特大號では、清水光「近代舞臺装置論」、香野雄吉「建築の工業化」、岩崎昶「宣傳、煽動手段としての映畫(續)」、益田甫「レビュウの歩んで來た道」、伊奈信男「表現主義絵畫の回顧的考察」、永田一脩「シュルレアリスム批判」、吉田謙吉「舞臺装置者の手帖(二)」、板垣鷹穂「ヴェルトフの映畫論」が掲載されている。第3号では、香野雄吉「新ロシアの建築」、藤島亥治郎「現代建築の合理性と日本趣味」、板垣鷹穂「グラスのロマンティック」、西田正秋「Archipenko作人體像への一考察」山田肇「エイゼンシュテインの「全線」」、イ・マーツァ「科學の革命家」が掲載されている。産業デザインや建築デザインを中心に美術、映画、演劇、舞台美術など多彩な論文で構成されており、きわめて刺激的である。基本はモダニズム志向である。表紙のデザインは吉田謙吉。正方形に近い判型、描き文字を大きく扱ったモダンなもの。また板垣の論文への挿入写真はワルター・グロピウスのバウハウス・デッサウ、ミース・ファン・デル・ローエのプロジェクト・アダム、ブルーノ・タウトのグラスハウス、エーリヒ・メンデルゾーンのモーゼ・パビリオンなどであり、最先端の建築デザインを写真で紹介している。なかなかに魅力的な紹介である。吉田謙吉は築地小劇場では舞台美術の分野で活躍、関東大震災後のバラック建築の設計においては村山知義とともに活躍した。また早稲田の今和次郎と共に行った考現学研究は特に有名であるが、その活動範囲はきわめて広かった。その関心の範囲は容易には計り知れない。吉田は装丁美術においても力を発揮(川端康成の『浅草紅団』初版は吉田の代表作)したが、『新興藝術』表紙も吉田の装丁代表作の一つであると考える。
一方、『新興藝術研究』は創刊号がプロレタリア文学の特集、第二号は新興文学、第三号は演劇や舞台美術、産業デザイン分野の特集になっている。小林多喜二や平林たい子、山田清三郎といったプロレタリア文学領域の作家たちが執筆しているし、林芙美子や尾崎翠も登場する。尾崎翠は、その代表作「第七官界彷徨」が『新興藝術研究』第二号に全文掲載された。多喜二の住まいは杉並であるが、平林も山田も林も尾崎も落合在住作家たちである。ただ、文学領域になると妻の直子の影響を感じる。板垣直子は日本近代文学の研究者にして文藝評論家。尾崎翠と同じ1896年に青森に生まれた。日本女子大学英文科を卒業後、東京帝国大学の第一回女子聴講生となり、哲学や美学を聴講した。長谷川時雨が1928(昭和3)年に創刊した雑誌『女人藝術』に参加、林芙美子や尾崎翠、村山籌子など落合在住の作家たちと同じ誌面に論文が掲載されている。それ以前、1923(大正12)年に『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(岩波書店)を翻訳しているが、獄中にいた小林多喜二が板垣鷹穂にあてた手紙のなかで「奥さんは『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の翻訳をされていますよね?」と確認しているくだりがあった。また、小林多喜二と板垣鷹穂とは機械論においてつながっていたのだ。多喜二は板垣の機械美学に関する論文を読んでおり、それを板垣への手紙の中で書いている。多喜二を蔵原惟人に会わせ、レポ役として支えたのは村山籌子であったが、多喜二の葬式に籌子の姿はない。小林多喜二の葬式の際は、近しい親戚以外は皆拘束されたが、板垣夫妻は親族以外で列席できたまれなる二人であった。多喜二はとても親しみやすい性格であったようなので、村山知義の家で作家同盟の会合の後などに、板垣夫妻の上落合の家にも遊びに来ていたのかもしれない。知義と籌子の長男である亜土の回想によれば、会合に来ると亜土を膝に抱えてかわいがってくれたようだ。『新興藝術研究』にも多喜二の文章は掲載された。板垣直子は女流作家をよく論じたが、その論調は厳しく、時に辛辣であった。直子は片山廣子が深くかかわり、渡邊とめ子が発行していた雑誌『火の鳥』に論文を数多く掲載した。『火の鳥』には多くの女性たちが参加、『女人藝術』廃刊後の女流文学者の結集地の感があった時期がある。そして、1933(昭和8)年に啓松堂から女流文学シリーズが刊行される。最初の刊行は板垣直子の『文芸ノート』である。女流作家にたいする批評をまとめた一冊である。このシリーズは城夏子『白い貝殻』のほか落合在住作家の林芙美子の著作や平林たい子『花子の結婚其の他』、尾崎翠の『第七官界彷徨』などを次々に刊行した。これらの出版は板垣直子が進めた。中井五の坂の洋館に越した林芙美子も上落合842番地に借間していた尾崎翠も板垣邸をよく訪問している。二人ともに板垣邸から歩いて5分くらいの距離に住んでいた。たとえば林芙美子の日記への記載は面白い。ある日、林と尾崎が公楽キネマ(村山籌子の家のそばにあった上落合唯一の映画館)に映画を観に行き、かえりには二人して板垣邸で話し込んでいる。すでに尾崎の「第七官界彷徨」が発表されており、辛辣でしられた直子がこの作品についてはベタ褒めであったから、これからの作品について話し合っていたのかもしれない。芙美子を含めて帰宅はかなり遅かったようだ。

 話をもどそう。機械芸術論であるが、天人社から1930(昭和5)年に刊行された『機械芸術論』は板垣鷹穂の編集でまとめられた機械芸術に関する論文の集成になっている。ここには村山知義も執筆している。こうした機械美学に基づいた機械芸術論は、たとえば写真家・堀野正雄との一連のグラフ・モンタージュ作品をうみだしていった。また小説の世界でも横光利一の「機械」に強く影響を与えたものと考える。また、稲垣足穂の作品にも影響を与えていると考える。小林多喜二の受容は意外であったが、そもそもロシア革命初期のアヴァンギャルド的な藝術運動では機械や建築的な新たな造形や映画といった新たなメディアにおける実験的な作品や抽象的なオブジェの立体的な構造による構成などが生み出されており、ロシア革命後の世界を一つの模範とする左翼的な文化人にとって機械美学は受容できる考え方だったのかもしれない。世界的な地平でみた場合、世界は1920年代という時間軸のなかでダダ、未来派、構成主義、アヴァンギャルド、フォルマリズムなどの激しい潮流がながれ、合流し、混ざり合う時代であった。そういう時期に板垣も村山もヨーロッパに留学をし、現地でこうした動きにじかに触れてきてしまったのであった。板垣鷹穂の機械美学を主軸にした一連の著作はじつに魅力的だ。そしてどの著作にも堀野正雄の写真が構成的に配置されている。それは、1920年代が大衆の時代となり、マスプロダクトの時代を迎え社会の在り方が変容し、生産方式が変わっていったことに大いに関係していると思われる。人口は都市部で急激に増加した。そして、合理性と機能性がもてはやされ、機能美がうたわれることになる。この世界的な大きなうねりを日本においては上落合という場所が担ったことは興味深い。
私の落合散歩のはじまりは瀧口修造であった。旧瀧口邸は西落合にあって、オリエンタル写真工業のすぐ近くである。瀧口も戦前、多くの写真に関する文章を書いている。新興写真と機械美学の故郷である落合に瀧口修造も魅かれたのだろうか。
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新宿・落合散歩(7) [落合]

 その後の新興写真の流れは雑誌『光畫』に集約されてくる。『光畫』の創刊は1932(昭和7)年5月。野島康三の発行雑誌に近かった『光畫』であるが、木村伊兵衛、中山岩太が同人として参加していた。新興写真研究会の飯田幸次郎も創刊号から参加している。掲載された写真は名作「看板風景」。自宅は浅草であったが、新宿の路地を撮影した一枚であった。創刊時の飯田の役割には堀野正雄をこの雑誌に参加するように勧誘することもあったようで、創刊号には飯田に誘われながらなぜ参加しなかったのか、についての理由書が掲載されている。しかし、その理由が解除されたのか、第2号から堀野正雄は『光畫』に登場、常連のようになる。1巻3号から6号まで「グラフ・モンタージュの実際」を連載した。つまり『光畫』では新興写真の中でもドキュメンタリー的なストレートな表現領域で、すぐれた写真をとっていた木村伊兵衛、堀野正雄、飯田幸次郎の3人がそろい踏みしたことになるのだ。しかし『光畫』は長くは続かなかった。1933(昭和8)年12月発行の2巻12号をもってその幕をおろした。通算18冊を発行、やりたいことをやりつくしての廃刊だという。落合関係者としては、板垣鷹穂と山内光が参加している。主な参加者を列挙すると新興写真の構図全体が垣間見える。野島康三、木村伊兵衛、高麗清治、佐久間兵衛、飯田幸次郎、中山岩太、伊奈信男、堀野正雄、堀不佐夫、花輪銀吾、ハナヤ勘兵衛、三浦義次、中井正一、清水光、紅谷吉之助、鹿児島治朗、光墨弘、安井仲治、原弘、山内光、富本憲吉、板垣鷹穂、古川正三、佐瀬五郎、長谷川如是閑、吉澤弘、山脇巌、名取洋之助、佐々木太郎、長峰利一、高田保、中河與一、土方定一。私はその後の戦時体制に大きく傾斜していった時期を1933(昭和8)年春を境と考えてきた。新興写真も『光畫』を白眉にして戦時体制に組み込まれていったのではないだろうか。木村伊兵衛、堀野正雄、原弘、山内光、名取洋之助などが日本工房によって対外宣伝に使われ、表現は高度化したが、戦時体制の一環に組み入れられていったのであった。堀野正雄はフリーのプロカメラマンとして1940年に上海に移り、陸軍報道部嘱託として記録や宣伝を担当するようになる。そして敗戦とともに堀野は写真表現を捨てる。引き揚げ後はストロボメーカーを立ち上げ、その経営に集中した。新興写真家にしてプロカメラマン堀野正雄を戦時体制という怪物が殺したのだ。
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